ひとを呪わば【短編小説】
ヒロインは、古びた木製の引き出しの鍵穴に、真鍮の鍵を差し込んで回す。鍵はかちりと小さな音を立て、彼女は慎重に引き出しを手前にスライドさせた。
引き出しの中には古い新聞や手紙の束が入っている。彼女はさらに奥の方に手を突っ込む。何か手応えがあったのか、彼女は眉をひそめた。ゆっくりと引き出された手の中の、それに光が当たる。
手のひらサイズの藁人形。赤い糸で節々を縛ってある。錆びた長い釘が人形の胴体に深々と刺さっている。
「見たね」
男の声に彼女はびくりと振り向く。
彼女の真後ろに立っているのは彼女の同僚、いや事件の犯人だ。いまや取り繕うこともせずに、歪んだ笑みを浮かべ……
女優の驚愕した顔のアップに被せて音楽が始まり、ドラマのエンドロールがスルスルと流れる。
☆
健史はソファの上で身体を伸ばした。
「はあ?なんだこの展開、今どき藁人形って……けどさ、もし今、藁人形作ろうと思ったら、藁ってどこに売ってるんだろ」
ソファの後ろに立っていた私は内心、この偶然の符号に驚きながらも、健史にスマホの画面を向けてこう言った。
「作らなくても、普通にネットで買えるよ」
「マジで?」
スマホの画面はEmasonという通販サイトだ。健史は私の手からスマホを取り上げて、たったいまテレビで観たものにそっくりな藁人形の写真を眺め、下に表示されている文章を声に出して読み上げた。
「呪いの藁人形……長さ二十センチ……うわ五寸釘付きとか、ウケる……呪う相手の名前を書いたシールを貼る?めっちゃガチな奴じゃん」彼はここで目を剥いた。声のボリュームが跳ね上がる。
「値段、十万!?一万じゃなくて?うっそお、これ十万出して買う奴いるのかなあ」
健史からスマホを受け取って、私はその場を離れながら答えた。
「でも、自分が直接、手を下さずに恨みを晴らせるなら、十万出しても惜しくないって人、たくさん居ると思うよ」
「そんなん普通にネットに売ってるワケないって……あれっ美香、帰るの?」
健史はソファから立ち上がると、鞄を抱えた私の前に回り込んだ。
「明日、休日出勤だから」
私は健史の横をすり抜けて玄関に向かおうとしたが、彼は私の腕を掴んだ。そのまま引き寄せ、抱きしめてくる。私は一瞬、息を止める。
「経理っていま忙しい時期だっけ?ここんとこ、そんなんばっかじゃん。先週もさあ」
「しょうがないでしょ。健史、来週の土曜のランチ会、忘れてないよね?」
「西麻布に十一時だろ。それよりさあ泊まってけって。明日、朝イチでこっから行けば良いじゃん」
「それは私がしんどい」
私は軽く腕を突っ張って、顔に薄い笑みを貼り付け、できる限り何気ない感じで健史の腕から逃れた。いま、内心を悟られたら、警戒されてしまうかもしれない。計画の顛末を見届けるまでは注意しないと。
健史の舌打ちを背中で聞きながら、私はアパートの狭い玄関のドアを開けた。ドアが閉まる瞬間、健史がスマホを取り出して、何か打ち込むのが見えた。多分、弘美にLINEしてるんだろう。
☆
金曜日の夜、終電に近い時刻の電車は混雑していて、残業で疲れた顔と、飲み会の興奮の余韻と、これからどこかに向かう高揚とが混じり合っている。
健史と付き合い始めてもうじき二年経つ。私は吊革に捕まりながら、前の座席で眠る初老の夫婦にさりげなく視線を走らせる。旦那さんは会社帰りなのか少々くたびれたスーツを着て、奥さんの方は地味なワンピース姿で、互いにもたれ合って安心しきって眠っている。年季の入った指輪は、半ば皮膚と一体化して見える。結婚して何年目だろう……十年、二十年、いやもっと。
ふいに鼻がつーんとして、涙が滲みそうになる。私は慌てて上を向くと、歯をぐっと噛み締めて涙を堪えた。
☆
健史は浮気をしている。
うっすらした違和感はずっと前からあった。彼はスマホを決して置きっぱなしにせず、常に持ち歩いていた。定期的に変えているらしいスマホのパスコード。そして一年ほど前から、たまに金曜日と土曜日の予定を直前でキャンセルするようになり、それを追求されると途端に不機嫌になった。
半年前、一緒に行った旅行先の写真から、偶然、健史のツイッターのアカウントを特定できた。ツイートを追っているうちに、相互フォローで密に交流している相手がいることに気がついた。その相手の正体がわかった時、疑いが確信に変わった。
高田弘美。私と同じ部署の同期で、一番仲が良い友達でもある。
健史は総務部で、私と弘美は経理部だ。付き合い始めたことを弘美に話したとき、彼女は「河口君かあ、お似合いだと思うよー。美香、よかったね、めちゃうらやまー」と笑った。
ランチの時には健史とのことを話したり、愚痴を言ったりもした。弘美はいつも笑って、時に深い共感を込めて頷きながら、聞いてくれた。
だから最初は信じたくなかった。でも、同じ会社で近くにいるからこそ、ツイッターでのやりとりと、実際の彼らの行動を照らし合わせると、霧が晴れるように真実がくっきりと浮かび上がったのだ。もしかすると、自分でも薄々わかっていたのかもしれない。でも、気付きたくなくて、目を逸らしていたのかもしれない。
(好きだよ、美香、大好き)
記憶が甘ければ甘いほど、裏切りを知った時の衝撃が胸を深く切り裂き、夜毎、私の眠りを侵食していった。
最後に安らかに眠ったのはいつだったか、もう思い出せない。
☆
車内のアナウンスが聞こえ、降りる駅が近づいた。私は人混みの隙間を縫うようにしながらドアの方に移動した。電車のドアを抜け出すと同時に涙がこぼれた。駅のホームを出口に向かって歩く人の波に紛れ、素早く涙を振り払う。
駅を出て帰路につく。暗い夜道を歩きながら、さっきの夫婦のことをまた思い浮かべた。旦那さんの顔。どことなく健史に似ていた気がする。健史があのくらいの歳になったら、ああいう感じになるかもしれない。
“……健やかなる時も病める時も……喜びの時も悲しみの時も……
富める時も貧しい時も、これを愛し敬い、慰め合い、共に助け合い……”
──私は。
──あんなふたりになりたかった。
☆
家に帰ると引き出しから藁人形を取り出した。ドラマで見たのとそっくりな、赤い糸で節々が固く結えられた人形だ。表面はざらざらした藁の手触りで、手足の先はノリのようなもので固めてあるようだ。
さて本当に、これに十万円の価値があるのか。誰がどう見ても胡散臭い……でも、私はなけなしの十万円を支払い、藁人形はここにある。
これは一種の賭けみたいなもの。または凝ったおまじないのようなものなのかも。今日、本人に会って結論を出そうと思ったのだ。使うか、焼いてしまうか。
私は深呼吸をひとつした。そして鞄から、ビニールの小袋に入れた健史の髪の毛を取り出すと、慎重に藁人形に埋め込んだ。付属の五寸釘を、藁人形の真ん中に深々と突き刺す。すでに「河口健史」と書かれたシールも貼ってある。人形をエアパッキンで厳重にくるみ、釘が突き出すことがないよう確認すると、返信用の黒い封筒にそれを詰めて封をした。宛先の住所が印刷されたシールは最初から貼ってある。
(取り扱いに際してのご注意
人形に付属の釘を刺したら、二十四時間以内にポストに投函してください)
私は、封筒を持って、ふたたび外に出た。ワンブロック先にポストがある。ポストの前まで来ると、ギリギリ投入口に入る大きさの黒い包みを、押し込むように投函した。包みは中で乾いた音を立てた。
……ひとりの男の命運が尽きた、かもしれない瞬間。
ポストは何事もなかったようにスンとして、そこに佇んでいる。
私は背を向け、アパートに帰った。
☆
一週間後。
西麻布の表通りに面した、お洒落なイタリア料理の店。ドアを開けてにぎやかな店内に視線を走らせると、カウンター席から弘美が手を振るのが見えた。
「みーか!十三時間ぶりいー」
私も手を振りかえすと弘美の隣に歩み寄り、スツールに腰掛けた。弘美は白い帽子を脱いでカウンターの上に伏せると、私にメニューを手渡し、にぎやかに喋り始めた。
「お腹すいたあ、ランチの種類多くて迷うよー。ポルチーニ茸のクリームスパか、クワトロフォルマッジか。うーんマジでテンションあげー」
私はメニューをチラリと見ただけで、弘美に視線を向けた。
「健史ももうすぐ来るよ」
その言葉の効果は抜群だった。弘美の笑顔は凍りついたように固まり、瞳が左右に素早く動くと私に向けられ、すぐに下に落ちてメニューを見つめた。唾を飲み込んだのか、喉が動く。目線がメニューと私の顔を交互に行き交う。
「河口くん来るの?あれ、私、今日は美香と二人でランチって思ってた。そういうことになってたっけ……?」
狼狽した様子を隠すように、弘美は水のグラスを煽った。私はその様子をじっと眺めながら「実は、弘美もうすぐ誕生日だから、サプライズでお祝いランチ会しようって健史と話してて。健史、弘美のこと気に入ってるし、前に三人で飲んだ時も楽しかったし良いよね?ふふ、そんなにびっくりした?」と言った。
「そう、なんだ……もぉやだあ美香、心臓に悪いって」
「ごめーん」
私が笑うと、弘美もこわばった笑いを浮かべた。でも、さっきまでの晴れやかな空気は消え失せて、瞳は頼りなく揺れ、店内とメニューの間を落ち着きなく行ったり来たりした。弘美の顔に刻まれた笑みは次第に小さくなり、青白い顔に吸い込まれるように消えた。
私は、俯いた彼女の首筋から立ち昇る冷汗の匂いに、驚きと恐れと猜疑心を嗅ぎ取り、そのひとつひとつをじっくり堪能した。
私が舐めた深い苦痛と胸を掻きむしるような悲しみの、ごく浅瀬の部分だけでも、味わわせることができただろうか?──ねえ弘美、このサプライズは軽い前菜みたいなものだよ。メインはここから。
車のクラクションと、どよめきの気配と、かすかな悲鳴のような声が、店の外から聞こえた。店内はにぎやかだったので、しばらく客も店員も気づいていなかった。
大きな音を立てて勢いよくドアが開き、男が飛び込んできた。彼は驚いている店員に駆け寄ると「救急車!救急車呼んで!ここの前で、人が車に轢かれたっ」と叫んだ。店員が数名、外に走り出てゆく。それを皮切りに店内の客も騒ぎ出した。
「人が轢かれたって?」「え、まじか、事故?」「ちょっと外、見てみる」「救急車って119だよね、ここの住所……」
外に出てゆくもの、通りに面した窓に張り付くもの、興奮してスマホを手に取るもの……。
弘美は眉をひそめ、入口の方に顔を向けたまま「事故だって。この店の前なのかな。怖いね」と言った。たぶん私は動揺してたんだろう。返事をするつもりが、考えていたことをそのまま口に出してしまった。
「心臓麻痺のはずだけど、車道を渡ってて倒れたのかな」
弘美は、ハッとしたように私の顔を見た。
その顔がみるみるうちに血の気を失い、目が見開かれる。
弘美は転びそうになりながら慌ててスツールを降りると、入口のドアに走り寄り、店を出ていった。私はカウンターの上に置かれた彼女の帽子を手に取り、内側にくっついていた弘美の髪の毛をつまみ取ると、持参したビニールの小袋に入れた。
店の外から弘美の「健史、たけしっ、うそおお、いやああああーっ」という絶叫が聞こえてきた。
☆
私はぼんやりとそこに座ったまま、店のすりガラス越しの喧騒を眺めていた。
救急車が現場に到着し、救急隊員が降りてきたのが、集まった野次馬の隙間から見えた。
救命活動が始まったらしく、同じく駆けつけた警官が現場を整理し始めて、店の中に店員と客が戻って来始めた。
……呪いの藁人形は、本物だったんだ……健史は、本当に死んだんだ。
とても不思議な現象が起こったのに、なぜだか当然のことと受け入れる自分がいる。でも、そこに満足感や達成感は全くない。人がひとり死んだというのに、奇妙な空虚さだけが胸の中にわだかまっている感じ。
直接、手を下していないから?彼の死を目の当たりにしていないからかもしれない。
弘美が店の中に戻って来た。手や服に血がつき、目は血走っている。涙で落ちた化粧のせいで、頬にくっきりと黒い跡がついている。弘美は私のそばまで来ると、立ったままポツリと言った。
「健史、たぶん、助からない」
「そう」
「美香……彼氏が死んだのに、随分、落ち着いてるね?」
「………」
「ねえ美香、本当いうと私さ、健史とセフレだったの」
「知ってる」
「……そっか」
私たちは静かに見つめ合った。それから弘美は私に顔を近づけて至近距離で囁いた。
「もしかして健史を殺したのは……美香?」
私の心の奥深いところまで見透かそうとするような弘美の眼から、視線を外すことができない。私はようやく、低い声で答えた。
「……だったらなに?証拠は何もないよ。私は健史が死んだ瞬間、あんたと此処にいて、彼に指一本触れていない。私は裁かれない」
なぜか声が震えた。
弘美の顔が歪み、のろのろと口が開いた。
「健史は確かに馬鹿だったけど……美香もそうとうおバカだね。一度でもあいつに本音でぶつかったことある?いつも自分を守ることばっかり考えて、人目を気にして、いいカッコしようとしてたでしょ……私はさ結局、最後まで選ばれなかったよ。何を言ってもやっても、あいつは私をセフレ以上に見てくれなかった……どうして私じゃダメだったの。私の方が健史のこと、ずっとずーっと好きだったのに」
私は弘美の顔をじっと見ていた。何かひどくグロテスクで間違った言葉を聞いた気がした。
あたりがどんどん暗くなっていくように錯覚し、弘美は急速に立ち込める闇の中から、紅く光る眼で私を睨んだ。涙が頬を伝い、新たな黒い筋をまた顔に刻んでゆく。
「あんたさえいなければ、って思ってた……あんたのバカみたいなノロケ聞きながら……もっと早く、こうしていれば……」
耳元でごおっという音が聞こえると同時に、胸に激痛が走った。思わず胸を押さえる。痛みが激しすぎて息ができない。私はスツールから床にくずおれて、ひゅうひゅう音を立てて息を吸い込もうとした。激痛が胸から全身に広がり、震える手で胸を掻きむしり、のたうち回った。
弘美は私のすぐ傍にしゃがんで、冷静に観察しながら「たいへーん、救急隊員のひと呼んで下さぁい」と店内に向かって叫んだ。辺りの人が集まってきて、私を見下ろして何か騒がしく喋っている。何人かが外に走って行った。
心臓が引き絞られるような苦しみのなか、渦を巻く視界いっぱいに弘美の顔が映る。紅い眼を爛々と光らせ、黒い筋を顔に刻んだ醜い鬼の顔。
──鬼。
これが人を呪う顔。これが、鬼の顔……私も……。
轟々という音の向こうで声がかすかに響いた。
「……呪いの藁人形って知ってるよね……?」
(完)
ネムキリスペクト今回のテーマは
「完全犯罪」
です!
いやーぎりぎり間に合ったぁ💦
ああ、オカルト方面に逃げることなく、マジもんの犯罪小説を書く力があればなー……。
ムラサキさま、お納めくださいませ。