真昼の幽霊
※[囀る鳥は羽ばたかない 二次創作]
ヤング矢代&七原④
先に風邪をひいたのは矢代の方だった。
七原は密かに驚いた。彼はそういう世俗的な病には罹らないんじゃないかと、意味もなく思い込んでいたからだ。
矢代本人も不本意な様子だった。俺は頑丈な方なのに、とか、セフレにうつされたとか、不機嫌にブツブツ言いながら七原の看病を受けていた。薬を飲んで一晩寝ると熱は下がった。そして次の日には同居の七原が発熱した。
「どーせ今はたいした仕事もねえし、ま、寝てろよ。ポカリ冷蔵庫に入れといてやったから」
矢代は39℃を示す体温計を受け取ると、一瞥し引き出しにしまった。心なしか嬉しそうだ。自分が寝込んでいる間は、七原に見下ろされているようで、面白くなかったらしい。
(そういうとこ、子供っぽいよなぁ〜)
と、七原は思うが口には出さない。
七原も元アスリートで、体力には自信があったのだが、風邪は、ひく時にはひくんだろう。
「……兄貴、晩飯は俺、適当に食べるんで、食ってきて下さい」
「分かった。さっさと治せよ」
矢代は言い置いてアパートを出た。
熱に浮かされながら横になっていると、普段は気にならない、遠くを走る電車の音や、部屋の前の道路を走る車の音、冷蔵庫の唸りが耳につく。平日の昼間に横になっている事への微妙な罪悪感からかもしれない。この感覚には覚えがあった。
……最後に風邪で熱を出したのはいつだったろう。……そうだ……あの時だ。
七原祐輔(ゆうすけ)がボクサーとしてデビューして間もない頃、インフルエンザに罹り、子供の頃から頑丈が取り柄の彼も三〜四日、高熱の中、寝込んだ事があった。
同じ頃にデビューした氷室との試合が予定されていたが、急遽、カードが組み直され、別の選手が氷室と試合する事になった。
氷室との戦績は一勝ニ敗で、次こそ勝利を。と意気込んでいた七原は悔しかったが、まずは身体を治す事が先決だった。
薬のお陰で咳がようやく収まってきたと同時に、眠りに落ちた。
……筈だった。
七原は見覚えの無い場所に立っていた。どこまでも明るくて白い霧の中にぼんやり浮かんでいるような駅のホームだ。
高熱の中でも、これは夢だな、と七原は直ぐに思い至る。長いホームの両端は霧に溶け込んで見えなかった。線路を挟んで、対岸にもホームがあったが、ベンチが一つポツンとあるだけで、誰も居ない。
七原はこちら側のベンチに座り、ぼんやりしていると、ふいに霧の中から淡い水色の電車が現れた。滑り込んできた電車に空気が攪拌され、霧が渦を巻く。電車がホームに停車すると、バラバラと数人の客が降り、どちらかのホームの端に歩き去ってゆく。
客の中で1人、男が七原の姿を認めて、近寄ってきた。七原は男の顔に見覚えがあった。氷室だ。
「よぉ、七原。お前こんな処で何しとる?」
「お前こそ。……つうかよ、ここ、何処だ?」
「知らないのかよお前」
氷室は微笑むと七原の隣に腰掛けた。水色の電車のドアが閉まり、走り出すと、霧の中へ姿を消した。
「インフルだって? 体調管理しろや」
「うっせえ! 次はぜってー勝つかんな!」
ホームの端から湧き上がるように、また電車が現れた。今度の電車は深い濃紺だった。白い世界の中で、その黒に違い紺色は、不気味な異物感が際立っていた。
七原が息を飲んで電車を見つめる中、氷室は立ち上がった。そのまま数歩、電車に歩み寄る。訳の分からない焦りに突き動かされて七原も立ち上がり、氷室の肩に手をかけた。
「おいっ……ちょ、待て」
「何だよ」
「いや、何か。……えーっとあのさ、もうちょい、話さねえ?」
氷室は静かに笑うと、そっと七原の手を外した。
「けど俺。もう、行かないといけないんだ」
氷室は停車している濃紺色の電車に歩み寄り、開いているドアの中に乗り込むと、七原の方に向き直った。
「お、い、氷室! 待っ……」
「七原、なんか勝ち逃げみたいで悪りぃーな」
氷室は笑った。気まずいような、困っているような複雑な笑顔だった。七原は怖々、電車に歩み寄ったが、いきなり彼の鼻先でドアが閉まり、氷室と七原はドア越しに見つめあった。電車が動き出し、思わず七原は一歩下がる。
動き出した電車の中で氷室が何か言っている。七原は焦って電車を追いかけ走り出しながら叫んだ。
「何だ?……聞こえねぇって氷室!!」
七原が目覚めた時、数日続いた高熱がようやく引き、微熱になっていた。医者の許可を得てジムに復帰できたのは、そこからさらに一週間が経った後だった。
「祐輔、氷室の事、聞いたかよ」
同じジムのスパーリングパートナーである透(とおる)が、グラブを装着しながら、声を潜めて七原に囁きかけた。
「氷室?奴がどうした?」
思わず七原はどきりとし、グラブを装着する手が止まる。
透はますます声を潜めた。
「あ、やっぱ聞いてねえの?……アイツよ、死んだらしいわ、先週」
「は?!」
「試合終わった後、突然ポックリ逝っちまったって……」
「おい、透! 適当な事くっちゃべってんじゃねえぞ!!」
会長の吉井がスポーツ新聞を持って現れた。
「会長! 今の話、マジすか」
七原は会長の側に駆け寄る。
「ほらよ。……ここだ」
吉井が示した新聞記事によると、先週、七原に変わって急遽試合に出た選手との試合直後、控室で突然倒れて、救急車で搬送中に亡くなったらしい。
『急性心機能不全』……病名はそうあった。原因不明の心停止は概ね、そう記載されるらしい。
「まあ、どんなスポーツでも、こういう事はたまーにある。氷室はデビューしたばっかで、気の毒だがなぁ。こういう言い方はアレだが……対戦相手がお前でなくて良かった。ウチに落ち度が無くても、口さがない連中はアレコレ言うもんだしよ」
「……」
七原は青くなって俯き、強く両手のグラブを押し付けた。動き出す電車のドアの向こうで何か言っていた氷室の姿が脳裏に浮かんだ。
……七原は目を覚ました。ここは、そう。矢代のアパート。俺はもうボクサーじゃない…
今まですっかり忘れていた。なぜ忘れる事が出来たんだろう。
布団からゆっくり半身を起こして枕元に置いておいたペットボトルの水を飲み、大儀そうに起き上がるとトイレに行く。布団に戻って潜り込み、頭痛を堪え目を閉じる。
あの時、あいつ、何て言ってたんだろう。
……次に目を開けると、またもや、あの明るくて白い霧の中のホームに七原はいた。七原はベンチの上で呆然とした。
同じホーム、同じベンチ。線路を挟んで、無人のホーム。
頭が痛い。猛烈に嫌な予感がして、七原は両手を顔に当てて目を閉じる。
……暫くその姿勢でじっと座って居たが、やがてゆっくりと顔から手を離し、目を上げる。
向こうのホームのベンチに、2人の男が座っていた。
七原は息が止まるほど驚いた。片方の男は矢代だった。ただ、違和感がある。矢代なのは間違いないが、現在の彼では無さそうだ。三十代後半くらいだろうか。
何より違うのは、表情だった。向こうのホームに居る矢代は、七原が見たこともない穏やかで満ち足りた笑顔を見せていた。明るい淡色のスーツに身を包んだ矢代は、周囲の白い景色に今にも溶け込みそうに儚げに見え、一緒に座る男にもたれ掛かった。
一緒にいる男は、七原が見た事の無い男だ。背が高く、肩幅は広い。矢代とは対照的に濃いグレーのシャツに黒のジャケット、黒いネクタイ。手袋まで黒だ。顔に2つの傷があった。一見した処、同じ稼業の男だろう。
2人がお互いを見る目はとても優しくて、一目で恋人同士だと分かる。何か楽しげに会話をしているが、七原には聞こえず、彼の姿も向こうの2人には見えていない様子だ。
七原は複雑な気分だった。自分は矢代のかなり近くに居る、そう自負していたのに、今、矢代の隣に居るあの男の足元にも及ばないのではないか。そう思えたからだ。
ふいにまた、霧から電車が現れ、七原と二人の間に滑り込んできた。あの深い濃紺の電車だ。
ドア越しに、向こうの2人が電車に乗り込んだのが見えた。七原は焦って立ち上がると電車に駆け寄ったが、こちら側のドアは開かなかった。七原はドアを両手で力任せに叩いた。
「開けろっ! おい、このドアを開けろ!!」
七原は拳が傷付くのも構わず、ドアを叩き続けるが、電車の中の二人は気付く素振りもない。変わらず穏やかに微笑みながら、シートに腰をかけ、お互いがお互いしか目に入らぬ様子だ。
ふいに七原は戦慄した。
あいつは、あの男は、矢代を連れて行く。
七原には手の届かない遠い遠い所へ。
ここで別れたら、矢代にはもう2度と会えない。
七原は拳で電車のドアを叩き続け、大声で呼びかけ続けた。
「……かしら! 頭、頭っ!!」
七原の拳を誰かが掴んだ。七原はそれを振り払い、また叫んだ。
「頭! 行かないで下さいっ! 頭ぁ!」
「おい、ナナ! 七原! 落ち着け!!」
七原は目を開けた。彼の手を握っているのは矢代だった。
「何〜どうした? カシラカシラって。平田に何か言いたいのか?」
「頭、じゃない、兄貴……良かった……」
七原は半身を起こすと、矢代の手を握ったまま自分の額に押し付けた。七原のただならぬ様子に、さすがに矢代は心配そうな顔をしている。
「行くなってどこに?お前がそんなに頭が大好きとは思わなかったわー」
七原は手を離すと、慌てて涙を拭った。
「や、夢では、兄貴の事を俺は、そう呼んでて。……夢でホント、良かった……」
「俺がどっか行く夢?なんじゃそら。それで泣くとかガキかよ、お前」
矢代は苦笑した。七原はそれ以上何も言わなかった。説明しても分かって貰える自信がない。
身体から力が抜けて、また布団の上に横になる。暫くそうして居たが、ふと夜になっている事に気付いた。七原は時計を見た。午後7時。いつもならまだ仕事場に居る時間だ。
「……兄貴、晩飯食ったんすか?」
矢代は直ぐには答えなかった。決まり悪そうな顔をして頭をかき、タバコを咥えて火を付けた。
「……あー。……アレだ、たまにはまぁ…」
「えっ?」
矢代は逡巡したようだが、布団の側から立ち上がると、キッチンに行き、なにかを器に入れて戻ってきた。
七原は受け取った。雑炊のようなものが茶碗に入っている。ひとさじ食べてみた。ネギと卵の味と、ほのかに……苦い味もした。この茶色いものは焦げだろうか?
「……美味いっす」
「はっ、たりめーだ、不味いなんて抜かしたら顔の上に熱々をぶっかけてやるよ」
七原は泣き笑いのような微妙な顔をした。鼻を啜りながら雑炊を噛みしめる。矢代は立ち上がるとキッチンに行き、雑炊入りの茶碗を持って戻ると、ひとさじ口に入れ、しかめっ面をした。
「まぁー初めてだしこんなモン?てかさ……フツーに不味い」
「俺が全部食います。大丈夫っす」
「早くメシ作れるようになれよナナ公」
矢代はもうひとさじ、口に入れると、ウエッという顔をした。
七原はついに堪え切れずに笑い出した。
<fin>