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夜に啼く【超短編小説#夏ピリカ応募】

末の方かすれてあわれなる鳴声なり
遠野物語 五十一/柳田國男

 山深きに小さな村がありました。
 村のはずれに湖がありまして、季節には赤い花が湖のほとりに咲き乱れ、水際の薄緑から、深まるに従い濁った青をへて濃紺に色が移るさまもうつくしい、しずかな鏡のようでした。

 ただ、魚が棲んでおりません。
 村人は湖を異界の入口だといって畏れ、近づくものはいませんでした。

 ある話では、風のない新月の夜の決まった時刻に、湖面に黄泉のながめを映すといわれ、また、大きな蛇が千年前からずっと水底に棲んでいるともいわれていました。

 村一番の大きな家のひとり娘は、隣村の男との婚礼がせまっておりました。
 しかし娘は、同じ村の貧しい若者と想いあっていたのでした。ふたりの秘密の場所は、あの湖のほとりでした。大人からは厳しく近寄ってはいけない、と戒められていましたが、それがかえって好もしく感じられ、年頃になると、人目を偲んでそこで逢うようになりました。

 娘の父親は、村人からの告げ口でそれを知ると怒り狂い、娘に、あいつは金をもらってお前を捨てて逃げたと言いました。
 娘は信じませんでした。村中を探しまわり、ついに湖の岸辺で、若者の履いていた草履の片方を見つけました。きっとここにいるに違いない、と、娘はまわりが止めるのを振り切って、湖に飛び込みました。

 水の中に深く深く、滑るように沈んでいきながら娘は辺りを見まわしました。
 まわりはずうっと薄緑の水がどこまでも続いて果てしがなく、底しれず茫漠とひろがる深みのなか、濁った青から黒にかわる深淵のどこかに若者の姿がないかと目を凝らします。でも魚いっぴき、水草のひとすじもみえません。

 しだいにつめたい水が娘のなかに染み込んで、ついに最後の空気を押し出しました。娘の、水の色に染まった目に、銀の泡がひとつ、口から吐き出されて登っていくのが見えました。


──ここに、いるはず。

  あのひとが私を置いていくはずがない……



    ……でも、もし、いなかったら……



         ……どうかおねがい


            ここにいて……


             ……



 それから、ふたりの姿を見たものはいません。


 月のない射干玉ぬばたまの夜、闇のなかでちろちろ燃える人魂が、湖面にあかく光っているのをみたというものがいました。

 また、湖の底は隣山の沼につながっていて、そこから人ならざるものが這い出し、強い風が山を渡る夜には、木々の間から若者を呼ぶ声が、ながく哀しくきこえるというものもありました。

……シオーシオーシ バ……キュッキュッ……シオー……


 村からは、ひとりまたひとりと人が去ってゆき、やがてだれもいなくなりました。

 跡は山に飲み込まれて、あの遠い日のできごとがほんとうにあったのか、果たして湖がほんとうにあるのか。いまとなっては、それを知るすべはありません。


(完 1200文字)


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