また、会うぜ。きっと会う。桜の下で【前編】
大学の講義が終わり、講義室を出ようと歩み出した時に、何かに躓いて綱川(つなかわ)は足元を見た。薄いピンク色の布製のカバーがかかった文庫本だ。綱川は本を拾い上げると中表紙を覗き込んだ。
三島由紀夫の『春の雪』だ。栞が挟まったページがぱらりと開いた。栞には銀色の紐がついている。
この席に座っていた生徒は誰だったか。記憶をたどり、綱川はハッとした。四年生の間で『ユリ姫』と渾名されている美女、越智小百合(おちさゆり)。グレイのワンピースとつややかなロングヘアの後ろ姿が目に浮かんだ。
男子生徒のご多分に漏れず、彼も越智小百合と同じ授業の時は、彼女を意識し、目で追っていた。又の渾名を『K大のエルサ』。某ディズニーアニメに登場する雪の女王の名前だった。
綱川は講義室を出ると、学生が行き交う廊下を早足で歩き、彼女の姿を探したが見当たらない。校舎を出ると掲示板方面に小走りで歩みながら辺りを見まわす。それらしい人影は見つからない。溜息をついたとき
「綱川」
呼びかけられて振り向くと、同じ学年の天羽(あもう)が立っている。
「誰か探してるのか?」
「あー……K大のエルサ。知ってる?」
「何だっけ、なんとかサユリ……」
「お前、今日、見てない?」
天羽は数度瞬きし、指で方向を示した。
「見た。さっき向こうに歩いてった。方角的には本屋か、学食か、玄関……」
皆まで聞かずに綱川は走り出していた。
もう少しで大学の門に着く、その手前に大きな桜の木があった。ちょうど満開で、周囲は写真を撮ったり、花を眺める人々で小さな人だかりが出来ている。
目指すグレイのワンピースを身につけた女は、その傍を通り過ぎようとしている処だった。
綱川は女に追いついた。走った勢いのまま近づいて後ろ姿に呼びかける。
「やっと会えた!」
越智小百合は勢いよく振り返った。驚愕の表情が、綱川の顔を見た瞬間に露骨に失望のそれに変わった。綱川は慌てた。
(初対面同然なのにナニ言ってんだ、俺)
「あの……俺は綱川って言うんだけど。さっき講義室でこれ拾って。越智さんのだよね?」
抱えていた文庫本を渡す。小百合は本を受け取ると、綱川の顔を再度、見つめた。
「追いかけて届けてくれたの?……ありがとうございます」
丁寧に頭を下げた。……が、綱川が内心、期待していたような笑顔はない。小百合は清楚な美しい容貌にも関わらず、常に無表情で、サークルや部活動にも参加せず、いつも一人で過ごしている。近寄り難い雰囲気が『エルサ』の渾名の所以だった。
綱川が次の言葉を考えているうちに、彼女はくるりと背を向けて、歩き始めた。綱川は彼女の後ろを追いかけ、相手が交差点で足を止めた機会を逃さず横に並んだ。
「三島由紀夫、好きなの?」
小百合はチラッと綱川を見て
「とても」
ポツリと答えると口を閉じ、また前を向いた。信号が青になると、小百合は振り返りもせず足早に歩いていく。あからさまに迷惑そうな様子に、綱川は足を止め、交差点を渡らずに、彼女の後ろ姿を見送った。
女子からこんな態度を取られたのは初めてで、それなりに自分に自信を持っていた綱川には軽く衝撃だった。ポリポリと頭をかくと、彼は大学に戻り始めた。
次の授業は天羽と同じクラスだ。綱川は開始ギリギリに滑り込み、天羽の席の隣に座った。天羽は小声で聞いてきた。
「エルサには会えたのか?」
綱川は頬杖をつき、上体を屈めると天羽の方へ顔を向けた。
「うーん、声かけた瞬間行けそうな感じあったけど、ありゃ気のせいかね。……冷たいのなんの、話しかけんなオーラ半端ねぇ」
「雪の女王の面目躍如ってトコか」
「リターンマッチに賭けるわ」
「リターンマッチ?」
綱川は懐から何かを取り出し、天羽に渡した。受け取った天羽は細長い紙片のようなそれを観察した。薄い木片で出来た栞のようだ。桜の形の焼き付けの模様が入り、銀の紐が付いている。綱川に返しながら天羽は
「彼女のものか?」
と聞いた。綱川はニヤリと笑ってみせる。天羽は呆れた。
「理解できないな。脈の無い女のケツ追いかけて楽しいのか?」
「雪の女王、上等じゃねえか。厄介なオンナ程燃えるってね」
綱川は栞の桜模様を指でそっと撫でた。
天羽静真(あもうしずま)は常に冷静で無表情。見た目も服装も地味で、自分から積極的に人前に出ていくことはない。だが常に周囲を観察し、状況を先読みして動いた。いっけん印象に残らない男だが、明晰な頭脳と何事にも動じない度胸の持ち主だ。早くも複数の指導教官や教授から、博士進学のオファーを受けている。
綱川は好奇心旺盛で社交的。服装も派手で、チャラい見た目から軽そうに見えるが、その実、冷静に相手を見極め、役に立つと判断した相手以外はさり気なく距離を取った。そして利用できる人間は上手く利用し、敵を作り過ぎず、器用に立ち回った。
見た目も性格も似た所を探す方が難しい彼らだが、大きな共通点があった。二人共、父親が現役の大物ヤクザだった。
綱川の家は戦後から続く古い博徒系のヤクザであり、彼は現在の組長の息子だ。本人の思惑は殆ど考慮されず、当然のように卒業後は組に入り、組長の跡目を継ぐものと目されている。そして本人も、現在の所はそのつもりだった。
天羽の方は、保護者である三角(みすみ)と血の繋がりはないが、妻の連れ子の静真を実子とする届けを出したので、戸籍上は実の親子になる。
三角は真誠会(しんせいかい)の若頭であり、頭の良さと腕っ節の強さで、界隈では『鬼神』と恐れられるヤクザだ。
三角は静真をヤクザにするつもりはない。だが静真は三角に心酔し、彼の為に働きたかった。大学を卒業したら、どうにかして三角の下で働く算段をつける心づもりだ。二人共、大学に入る時にお互いの噂程度は知っていたが、顔も名前も知らなかった。とある事件をきっかけに、互いを知る事になる。出自を隠さずに済み、尚且つ気楽に話す事のできる相手は希少だ。自然と学内では一緒に行動する事が多くなった。
その二日後、学食で綱川と天羽が食事をしていると、二人の隣の席に女が滑り込んだ。ウェーブのかかった茶髪に身体の線を強調する服装、クッキリした目鼻立ちの美女。二階堂華(にかいどうはな)だった。
「二人、学校で会うの久々〜。三角さんは時々、店に様子見に来てくれるのに、天羽君も綱川君もぜんっぜん来てくれないんだもん」
綱川は食事の手を止め、宥めるように
「華ちゃん、声ちょっと抑えて。本来、あの店に俺は行けないんだって。他の組の関係者ってバレたら面倒臭いし。つか俺らの事はガッコでは内緒にしといてよ」
「分かってる。私も大学にバイトばれしたくないしね。もーエロオヤジの相手ばっかでヤンなっちゃう。……あ、三角さんの事じゃないよ。三角さんカッコいいし別格だから」
天羽はペースを崩さずに食事を続ける。
「店に問題が無いなら行く必要がない。父からも繁華街をうろつくなと釘を刺されてる。あの件も、後で散々絞られたからな」
去年、華が働く真誠会系列の風俗店で揉め事があり、天羽と綱川は巻き込まれた。その事件が、二人がお互いの事を知る機会になったのだった。
華は隣に座る綱川に身を寄せ、膝に手を置いた。香水の甘い香りが綱川の鼻をくすぐる。女好きの綱川は鼻の下を伸ばした。ここぞとばかりに華は綱川の耳元に囁いた。
「卒業したら、正式に組に入るんでしょ? 来るなら今のうちじゃん? スッゴいサービスしちゃうよ〜」
「へえースッゴイの? ってどんな?」
「それはぁ……」
綱川は天羽に足を蹴られて天羽を見、彼の目線を追った。いつの間にか、綱川の斜め後ろに小百合が立ち、綱川を見下ろしていた。綱川は華と小百合に挟まれる格好になっている。小百合は口を開いた。
「お取り込み中すみません。ちょっといいですか?」
華は驚いて小百合を見た。
「あれえ、越智さん? 綱川君と知り合い?」
小百合は無表情のまま、華に視線を移した。
「いいえ、聞きたい事があるだけです。探し物について」
綱川は勢いよく立ち上がると、食べかけの定食が載ったトレイをそのままに、小百合に話しかけた。
「ここじゃナンだから移動しよか。メシ食った?どっかでお茶でも」
「そんなつもりは」
抗議しかける小百合を、まあまあと笑顔で追い立てるように綱川はその場を離れ、食堂を出た。
華は二人を見送った後、頬杖をついて考え込む表情になった。
「……綱川君、ユリ姫狙いなんだ。へえ……難攻不落の姫君の方が男心を煽るって訳かぁ。……大丈夫かな」
「? どういう意味の『大丈夫』なんだ?」
「んー……友達に、あの子と地元同じコが居てさ……何か、変な噂、あったり無かったり、とか」
華の、妙に煮え切らない態度に、天羽は微かに胸騒ぎがした。
「噂?」
「聞きたい? ……店に来てくれたら教えてあげる」
華は微笑むと天羽を上目遣いでじっと見つめる。天羽は苦笑した。珍しい天羽の笑顔に華の鼓動がドキリと鳴る。
「学食でランチなら奢る。それ頼む」
「えっ? ちょっと……」
天羽は自分のトレイを取り上げるとさっさと返却口に向かって歩き出した。華は綱川の残したトレイを見下ろして顔を顰め、何であたしが、とブツブツ文句を言いながらもトレイを片付け始めた。
図書館前のベンチに座ると、小百合は待ちかねたように口を開いた。
「あの。こないだ届けて頂いた本なんですが、中に栞が。挟まってた筈で。その……綱川さん、本が落ちてた場所に見ませんでしたか?私、自分でも探して、学生課に落とし物を問い合わせたんですけど、該当するモノは無くて」
「しおり?うーん、どうだっけかなあ……見当たらなかったと思うけど」
綱川はすっとぼけ、顎に手を当てて考えるフリをした。小百合は悲しげな顔で俯いた。綱川はその顔を覗き込む。
「その、栞。何か大事なモノなの?」
小百合は頷いた。
「大事な人の形見なんです。あの本も、栞も。……ああ私、どうして忘れたりなんか……」
小百合は両手で顔を覆った。綱川は彼女の片手を取ると、その上に栞を乗せた。小百合は目を見開いた。
「ごめん。そんなに大事な物とは知らなくて。ホントのこと言うと、次に会う口実になる位に思っててさ」
「……さっきのは嘘だったんですか?」
小百合は栞を握りしめ、信じられない、という顔で綱川の方を見た。綱川はベンチの上で心持ち身を縮めた。
「えっと、そのぉ……」
いきなり立ち上がると小百合の前に立ち、勢いよく上体を倒した。
「すいやせんっしたあ!!」
大声で謝った。辺りの学生達が驚き、彼らの方をチラ見しながら歩き過ぎてゆく。
しばらく沈黙があった。綱川は上体を倒した姿勢のまま、相手の様子を伺った。小百合は静かな緊張を孕んだ声で呼びかけた。
「座って下さい」
綱川はおずおずと元の位置に座った。
「私、怒ってます」
「すいません」
「お願いを聞いてくれたら、許します」
「はい?」
「私のお願いを聞いてくれますか?」
「はい……」
綱川は、小百合がバッグから何かを取り出すのを見守った。あのピンクのカバーが付いた文庫本だった。
彼女は、とあるページを開くと、そこに書かれた台詞を指差しながら綱川に渡した。
「ここの台詞を声に出して読み聞かせて下さい。……この『滝』の所を『桜』に変えて」
綱川は本を手に取り、台詞を見た。
『今、夢を見ていた。又、会うぜ。きっと会う。滝の下で』
「これを読むの? 今ここで?」
綱川は彼女に確認した。小百合は頷き、重ねて言った。
「お願いします」
綱川は咳払いをすると、息を吸い込んだ。
「今、夢を見ていた。また会うぜ、きっと会う。桜の下で」
「……」
小百合の表情が緩んだ。目を閉じて、また言った。
「もう一度」
「……いま夢を見ていた。また会うぜ。きっと会う。桜の下で」
小百合は目を閉じたまま微かに微笑んだ。
「もう一度……お願い」
「今、夢を見ていた。また会うぜ。きっと会う、桜の下で」
……この後も、彼女に促されるまま、綱川は同じ台詞を十回繰り返した。最後の二回を読んでいる時、小百合は涙を流していた。
「……もういいです。ありがとう」
彼女は涙を拭きながら微笑んだ。
綱川の顔はカッと赤くなり、胸が締め付けられるようにズッキュン、と鳴った。
「あなたの声。……凄く素敵。本当にありがとう」
小百合はゆっくり立ち上がった。つられて綱川も立ち上がる。彼女は丁寧に頭を下げ、その場を立ち去ろうとした。堪らず綱川は声を張り上げた。
「あのぉ!こんな、声で良かったら、いつでも読むからさ!また会ってくれる?!」
小百合は振り返ると、屈託のない笑顔で笑って、頷いた。そのまま彼女は歩き去り、綱川はその場を動けず、呆然とした様子で、ベンチに座り込んだ。
……ヤバい。何か、ヤバいしか言葉が浮かばない。さっきの彼女の笑顔が頭の中をグルグル回ってる……。
綱川は、にやけながら携帯のメールに何かの文字を打ち込んだ。それが終わると溜息をつき、携帯を胸の前で抱きしめ、目を閉じて椅子にもたれた。天羽はその様子を見て呆れた様子で呟く。
「付き合ってひと月経つのに、まだそのテンションか」
綱川は目を閉じたまま答えた。
「はあ。これこそ、恋だ……」
天羽はげんなりした。講堂の入り口を見ると、数人の女子と一緒に、小百合が入って来るのが見えた。天羽はぼそりと言った。
「エルサが来たぞ」
綱川はガバッと起き上がり、満面の笑みで小百合に手を振る。講堂中の男子生徒の羨望の眼差しの中、小百合も手を軽く振り返し、女子達と別れると、こちらに向かって階段を登ってきた。
「天羽さん、こんにちは」
小百合は、通路側に座っていた天羽に挨拶した。未だ、綱川以外の人間に笑いかける事は少ない。が、以前に比べるとグッと雰囲気が柔らかくなっている。
「どうも」
天羽は軽く会釈した。彼女は天羽と綱川の後ろを通ると、綱川の右横に座った。
綱川は机の下で彼女の左手を握りしめる。甘ったるい空気がダダ漏れの二人の様子を、天羽はさりげなく観察した。
小百合が笑っている。微笑みでなく、ちゃんと笑った顔は、大学ではあまり見られない。笑顔の彼女は天羽にも眩しく見える。
綱川と二人きりの時はもっと笑うんだろうか。どんな風に笑うんだろう。恋人に抱かれる時は、どんな顔をして、どんな声で……。
……微かに綱川を妬ましく思う自分が居る事に気づき、天羽は苦い気持ちになった。二人から目を逸らし、小さく溜息をつく。
三角に男惚れして憧れて、自分は極道になろうとしている。彼の為なら命をかけられる、本気でそう思っている。
でも。もし自分に家族が出来たとしたら。いざという時に家族を人質に取られて脅迫されたら?……ひとつを守るために、もうひとつを切れるだろうか。
——— 俺は、三角より家族を選んでしまうかもしれない。自分の全てを賭けて護るという誓いすら、あっさり嘘になってしまう……それが恐ろしい。
俺は多分、自分の家族を作れないだろう。そういう予感がする。それは三角にも、綱川にも、理解されないだろう。
天羽が自分で自分にかけた呪いだった。それすらも彼は自覚していた。
綱川は白いシーツの波間で目を閉じ、甘く柔らかく暖かい躰を腕の中に抱きしめる。夢の中に優しい声が響く。
三島由紀夫の「春の雪」は「豊穣の海」っていう四部作の最初の話で、生まれ変わりの物語なの。
最初の主人公、貴族の純粋な青年から始まって、革命家の青年に生まれ代わり、次に外国の美少女になる。いつも二十歳で死んでしまうの。
最初の主人公の親友が、彼の転生を信じて見守るもう一人の主人公になるの。
生まれ変わる人間には前世の記憶は無いから、誰かがそれを見つけてあげる必要がある。
私は、生まれ変わりはあると思う。ねえ、綱川君はどう思う?
……私の声、聴こえてる?
「……聴こえる……ちゃんと聞いてる……」
綱川は寝ぼけ声を出した。小百合に鼻を強く摘まれて眼を開く。
「嘘つき」
小百合の指は綱川の鼻から離れて、次は彼の唇を閉じるように挟んだ。綱川は彼女の脇腹に手を差し入れてくすぐった。彼女は小さく悲鳴を上げて手を離した。
時計のアラームで、小百合はベッドから身を起こし、服を身につけ始めた。綱川も上体を起こすと手を伸ばし、彼女の身体を引き寄せようとする。小百合はその手を躱して立ち上がった。
「もう帰らなきゃ」
綱川は溜息をついた。泊まっていけと何度言っても、彼女が聞き入れない事は分かっている。欠伸をしながら彼も服を床から拾い上げ、袖に手を通す。
綱川の家の長い廊下を二人で歩く。
玄関に着くと、ちょうど入って来た連(むらじ)に出くわした。連は綱川と歳はあまり変わらないが、如才のない働きぶりで早くも頭角を表している。綱川は声をかけた。
「彼女送ってくるわ」
「自分が運転しましょうか」
「いらねえ」
連は二人に道を開けて、頭を下げた。
「お邪魔しました」
小百合が連に挨拶をする。
綱川は、彼女を自宅まで送り届け、車で戻りながら、小百合の目にウチはどう映ってるのかな、と考えた。父親は不動産会社の社長だ、と、ごまかしているが、小百合は何も聞いてこない。
今まで付き合った事のある女達はみんな、綱川の親の職業や、彼の背後を知りたがったものだ。小百合が変わっているのか、それとも、長く付き合いを続ける気がなくて、彼に関心が無いのか……。
親がヤクザだという事実を、ネガティブに受け止めた事が全く無いと言えば嘘になる。
それでも後を継ぐつもりでいたが、彼女は俺がヤクザになったらどう感じるんだろう。
……どう転んでも『喜ぶ』は無いよな。
『驚く』『悲しむ』『慌てる』……一番ありそうで、しかも最悪なのは『怖がる』。
考えれば考える程、憂鬱になる。いつものように綱川は考えるのを止めた。
家に戻ると、部屋住みの若衆が数名、屋内の掃除をしていた。彼らは小百合の滞在中、なるべく姿を見せないよう綱川から申し渡されている為、遅れた分の掃除にかかっているのだった。
出自を隠さなくてはならない屈辱感から、先程、胸の奥に押し込めたモヤモヤがまたしても湧き出してくるのを感じて、綱川は舌打ちをする。連を探すと、声をかけた。
「お前さ、俺の彼女の事、どう思う?」
連は慎重に対応する。
「どう、とは?」
「色々あんだろ、タイプだとか好みとか、ヤクザから見てどう思うか、とか」
「……これでタイプだって答えるとぶっ飛ばされる、なんて事はないっすよね?」
「ねーから。正直に」
「まずは……めちゃくちゃ綺麗な人だな、と。……けど、俺のタイプじゃない、です」
連は綱川の様子を伺う。綱川は無言で先を促す。
「俺は逞しくて面倒見がいいって感じの女が好きなんで……そういう意味では、彼女さんは、まぁ、真逆っつーか。ガラス細工みたいな? 俺だったら怖いっすね。すぐぶっ壊しちまいそうで」
綱川の眉間に縦皺が入る。連は口を閉じた。数秒間の沈黙の後、再び口を開いた。
「ヤクザとしては……女房には、向いてないかな、と」
「…………」
再び重い沈黙。連はいたたまれない気分で解放を待った。
綱川は連の肩を軽くはたき、自分の部屋に向かった。連は無言でその背中を見送った。
青山墓地の上に広がる春空は晴れ渡り、雲雀の声がする。
迷路のような広大な敷地の中を、小百合は慣れた足取りで歩いていた。片手に一輪の花の包みを持って。
都会の真ん中とは思えない程に静かだ。大きさや形が様々な墓石の間を傍目もふらずに歩いてゆく。
ある墓の前に来ると、しばらくその前に佇む。墓の前に置かれた、干からびた一輪の花の入った包みを取り上げると、持ってきた花を置く。小百合は墓の前に佇んだ。
『小百合』
健(たける)の声を、彼女に呼びかける顔を、思い浮かべる。自分と同い年、同じ誕生日の双子の兄。
いつも一緒だった。時々、彼にせがんで本を朗読して貰い、それを側で聴いている時が、小百合の至福の時間だった。
誰より愛していた……でも。
時々、歯痒くて堪らなかった。彼女にとって自明の事実を、健は認めようとしなかった。最後まで。
薄暗い廊下。ドアの向こう。白い布で覆われた遺体。小百合は目をぎゅっと閉じ、手の中の干からびた花を握りしめる。
顔は綺麗でしょ後ろ向きに落ちたから頭の後ろは見ないで眠ってるみたい本当に……両親は泣きながらそう言った。小百合の涙は出ない。ただただ混乱していた。
置いていかれた。私は、置いていかれた?
……こんな残酷なこと健が私にするはずない。
小百合は静かにその場を離れた。戻ってゆく彼女の姿を、墓石の影からそっと見送る男がいた。天羽だ。
小百合の姿が完全に見えなくなると、そこから出て、小百合が花を置いていった墓に近づき、先程、置かれた花を携帯で撮影した。
棹石には「越智家之墓」の大きな文字が刻まれている。天羽は傍の法名碑を見た。墓に入っている人々の名前が刻まれている。その左端、一番最近の処の文字もまた、携帯で撮った。
釋 健導
昭和六十四年四月八日没
俗名 健 行年 十七才
律動と高まる快感の中で、小百合がうわ言のように囁いた。
「……な、まえ、……呼んで」
「さゆり……さゆり」
綱川は小百合の髪に手を差し入れ、何度も彼女の名前を呼んだ。セックスの時はいつもそうだ。
目を閉じ、揺さぶられて喘ぎながら小百合は綱川にしがみついた。綱川の動きが早まり、小百合の喘ぎ声が大きくなる。
「あ、あっ……た、ける……っ」
綱川はふいに動きを止めた。快楽で白く濁った意識が急速にクリアになってゆく。自分の腕の中の彼女の顔を至近距離から見た。小百合はうっすらと目を開けた。
「ど……したの?」
「いや……今の。……たけるって……」
「え?何?」
「……」
彼女の中に入っていたものが力を失い、身体から熱が引いてゆく。綱川は躰を離した。小百合の隣に移動すると上体を起こし、大きく息を吐き出す。小百合は横になったまま、物憂げな声で言った。
「……もう、おしまい?」
綱川は声に苦さを滲ませた。
「よりによって、してる時に……他の奴の名前とか……」
「さっきから、何を言ってるの?名前って?」
綱川は彼女の顔を、今度こそマジマジと見た。小百合の顔には罪悪感らしきものはカケラも見当たらない。彼と目をしっかり合わせ、微笑んだ。
薄ら寒い違和感が急激に膨らんでゆく。覚えてないの?と、聞きそうになって、綱川は言葉を飲み込んだ。代わりに、ずっと聞けずにいた質問が口をついて出た。
「俺の……声、以外の、どこが好き?」
「……嘘つきなところ」
小百合は微笑みを浮かべたまま言葉を続ける。
「嘘つきは好き。私も、嘘つきだから」
綱川は言葉を失った。顔から血の気が引くのが分かる。彼の横に寝そべる彼女の裸体は変わらず美しく、全く別の女に見えた。
大学の構内にある、芝生の敷き詰められたスペースには、幾つかのグループがその上に腰を下ろして、食事をしたり、会話を楽しんだりしている。
五月の下旬、晴れた日の昼間だ。あと数週間もすれば、戸外でのんびり過ごすには暑すぎる気候になるだろう。
天羽と綱川は、冷たい飲み物を持ち、座って話をしていた。辺りのうららかな雰囲気に似合わず、二人とも浮かない顔だ。
会話というよりは、綱川が一方的に喋るのを天羽はひたすら聞いている、という方が正しい。一区切りついたところで、天羽は口を開いた。
「……確かに気分は良くないかもしれないが。お前だって最中に他の女の事を考える位、たまにはあるんじゃないのか?」
「別に……ただ、最初の印象とは違ってた。なんか……意外と闇が深い感じっつうか」
「そもそも、お前が彼女と知り合うきっかけになった本と栞。大事な人の形見って彼女は言ってたんだよな? で、お前に読み聞かせをせがんだ、と」
綱川は渋い顔でストローを啜った。天羽は言葉を続ける。
「お前の声をしきりに褒めてた、と。……順番に考えれば、お前の声が彼女の大事な誰かの声に似てたのかも。って結論に行き着くな」
「……んなこたぁお前に言われなくても分かってんだよ、俺は!……ただ、クソっ、めちゃくちゃムカついてんのに、あの女を全然嫌いになれない。『たける』って糞ったれの事が憎くて堪らねぇ!」
綱川はギリギリと歯噛みしながら拳で何度も芝生の地面を叩いた。草を千切り、辺りにばら撒く。天羽は眉間に皺を寄せる。
「たける?」
「うるせえな、そう聞こえたんだよ!」
天羽は数秒間、何かを考え込んだ。綱川は天羽の様子に気が付き、顔を近づけた。
「何か知ってんのかよ」
「……別に」
「知ってるんだな」
綱川は天羽の胸ぐらを掴んで引き寄せた。天羽の顔が険しくなる。
「離せ」
「教えろ」
「人にモノを尋ねる態度か、それが」
「澄ましてんじゃねぇよ、てめぇはいつも!……こんな風に女に惚れて舞い上がったり、腹わた煮えくり返ったりしたことが一度でもあんのか、このクソ鉄面皮、童貞野郎」
天羽の顔が怒りで青ざめた。綱川を睨む目は氷のように冷たかった。
「ヤルだけなら猿でも出来るだろうが。それがそんなに自慢か? その程度の器量で組長の跡目を継ぐつもりなら辞めとけ、ついてゆく組員が死ぬだけだ」
綱川の顔は怒りで紅潮した。天羽はなおも嘲るように
「お前にはヤクザは荷が重い。公務員にでもなって嘘つき女と幸せに暮らせ」
綱川は手を離すと天羽を殴りつけた。二発目は空を切り、その腕を天羽は掴むと、身体を捻り、片膝を立てて綱川を背負うように投げ飛ばした。
綱川の身体は宙に弧を描き、地面に叩きつけられる。怒りの中でも天羽は無意識に手加減し、綱川の頭を地面から浮かせ、直撃を防いだ。綱川は衝撃にうめいたが、数瞬もがいた後、立ち上がると、先に立っていた天羽に駆け寄り、掴みかかった。
二人とも何発か殴り、殴られた処で、学生に呼ばれたらしい警備員が仲裁に入り、周りに居た学生が二人に組みついて引き剥がした。
顔に絆創膏を貼った綱川が、学食のテーブル席に一人で座っている。二階堂 華はその後ろから近づくと、肩に手を置いた。
綱川はギョッとしたように振り向き、華の顔を見て力を抜いた。
「何だ。華ちゃんか」
「誰だと思った?ユリ姫?天羽君?」
「……」
「派手に喧嘩したって?ビックリしたぁ。今まで口喧嘩はあっても殴り合いは無かったよねぇ」
「……」
「喧嘩してから天羽君に会った?三日は経ってるよね。もしかして怪我が酷いとか」
「俺より軽症だよ、アイツは。けど、大学に来ねえ。……俺も待ってんだ。奴には聞きたい事がある」
華は綱川の向かいの席に腰を下ろした。綱川は腕を組み、眉間に皺を寄せたまま目を伏せた。
「お姫様は? 一時期はあんなにベッタリだったのに、ここんとこ一緒に居ない気がするけど。彼女とも喧嘩した?」
「違う……けど、少し離れてる。ちょっとクールダウンしたくて」
「へぇ〜」
華は昨日施したばかりの、自分のネイルを眺めた。ピンクのグラデーションで、小さな白い花の形のスパンコールが散りばめられている。
「……桜ってさ、綺麗だけど、なんか死のイメージあるよね。根元に死体が埋まってる、だっけ? ……彼女に似てない? 綺麗だけど、何か怖い」
綱川は視線を上げた。二人の視線がぶつかる。
「華ちゃん、何か知ってんの」
「天羽君、もしかしたら、迷ってるのかもなって。……あたしも迷ってんの。多少のワケ有りなんて、夜の世界じゃよくある話だし、二人が幸せならそれでいいじゃんって」
綱川は身を乗り出した。
「何か知ってるなら教えてくれ」
華はしばらく沈黙した後、ゆっくり口を開いた。
「ヤクザになったら人を殺す?直接でも、間接的にでも」
綱川の顔が僅かに険しくなった。
「……何が言いたい」
「ちょっと興味あんの。人を殺す事をあなたがどう思ってるのか。……噂しかない、証拠もないけど、もしかしたら、ユリ姫は、人を殺してるかもしれない。そう聞いたら、どうする?」
綱川は目を見開いた。
→【後編】へ続く
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