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矢代③〜ねじれた男〜

(※原作を最終巻まで読んでいない方、映画のみで原作未読の方、イメージを壊されたくない方は読まない事をお勧めいたします)
※[囀る鳥は羽ばたかない 二次創作]

 銀座のお洒落な一角に、控えめながらも品の良さを漂わせる老舗喫茶店。
『季節の限定スペシャルパフェ』が運ばれてくると、女の子は目を輝かせ、矢代は複雑な思いで美しく盛られたスイーツを見上げた。これ一つの値段でそこそこ豪華な定食が2回食べられる……しかしこれは必要経費だ。どうせなら堪能しとくか。

「ちょっと写真撮っても良いですか?」
 女の子はスマホを取り出し、撮る前に矢代にお伺いを立てた。
「どうぞー。あ、俺のも撮る?」
「是非」
 矢代はスイーツを並べると、写真に映らないよう、座席の端に寄った。そびえ立つツインタワーといった風情の写真を角度を微妙に変えて何枚か撮ると、女の子は少し慌ててパフェの一つを矢代の方に動かした。
「ありがとうございます! ここのパフェ食べるのなんてきっと最初で最後だから。さ、溶けちゃ台無し、早く食べましょう!」
 彼女はパフェにスプーンを差し込むと、ひと口含み、至福の表情になった。矢代も飾りの一角を手で摘んで口に入れ、思わず顔が綻ぶ。
……甘いもん食うの久しぶり。

 一見、同世代の若いカップルが高級スイーツをつつく平和な光景。だが、女の子はかつて『三角の半身』と呼ばれた伝説的なヤクザの姪だ。そして矢代はというと、ヤクザ未満という中途半端な位置に居る、まだ何者でもない男だ。

 パフェの次に運ばれて来たコーヒー(これも安い店の3倍はする値段だ)で腹の中を温めて、ようやく落ち着いて話をするモードに切り替わった。
 彼女から黒羽根の話を聞くために、矢代は今、ここに居るのだった。

 黒羽根の姪……トモちゃんは、過去を見つめる眼差しで窓の外を眺めた。最初はポツポツと、次第に途切れなく、話を始める。
 親からネグレクトを受け、親戚や周りの大人達も見てみぬふりをする中『ヤクザの叔父のケンちゃん』だけが優しく、自分を気遣ってくれたこと。
ろくにお小遣いも貰えず、皆んなの持っているゲームや本が羨ましい、と何気なく口にした翌日、デパートに連れていかれ、色んなものを買って貰ったこと。
……そして、ある時から、時々連れて来るようになった、若くて無愛想な部下の事。

「平田さん、元気ですか?」
「はい。ウチの組の稼ぎ頭です。オレも側について勉強しろって言われてて」
「今は偉い人なんですねえ」
 トモちゃんは懐かしそうに笑った。矢代は頭をかいた。
「偉すぎて、直接話すこともめったに出来なくて。……昔の平田さんってどんな人でした?」
 トモちゃんは少し考え
「……顔はちょっと怖かった」
 矢代は吹き出した。
「今も、顔は怖いっす」
 彼女も笑うと「でも」と言葉を挟んだ。
「ウチで一緒に留守番する機会が増えると、見た目ほど怖くないなって思うようになりました。そりゃ喋らないし、笑わないし、話しかけても短い返事しかしないし、たまに無視するし」
トモちゃんは微笑んだ。
「でも……例えば、平田さんがテレビ見てる時、そばで私が本を読み出したりすると、さりげなくボリューム下げてくれたりとか。あと、自分のと一緒に私の分も紅茶をいれてくれたりとか。……何か、さりげない気遣いをしてくれて」
 矢代は内心、驚愕する。今の平田からは全く想像できない。
「叔父さんも、平田さんの事は、気に入ってるみたいでした。ウチに車で来る時、叔父さんの部下の人は家にあげなかったのに、平田さんだけは違ったし」
「へえ、そうなんだ……」
「叔父さんに聞かれた事があります。平田さんの事が怖いか?って。怖くない。絶対怒らないし嫌な事もしないからって答えた気がします。……叔父さんは言いました。そうか、トモは人を見る目があるなって。アイツは目つきは悪いけど、嫌な目はしないって」
「嫌な目?」
「えっとね……確か、例え話で説明してくれたんですよ」


 黒羽根は視線を上に巡らせ、説明を試みた。
「これは俺の意見で考えだ。他の人は違うかもしれない。俺が思うに、重すぎる秘密というのはね……」
「秘密に重さがあるの?」
 トモはもっともな疑問を挟んだ。
「ええと、重いってのは、比喩で、つまり……その秘密がバレると、物凄く大変な事が起こる秘密の事を、重い秘密って表現するんだな」
「大変な事って?」
「例えば秘密がバレた時、誰かが死ぬほど傷つくとか、凄く大勢の人が事件に巻き込まれるとか。そういう結果になるような場合だな」
「そうなんだあ……」
「そういう秘密が心にあると、心の芽みたいなものの上に乗っちゃって、芽が、真っ直ぐ伸びなくなっちゃうんだ」
「アサガオの双葉の上に石が載っかるみたいに?」
「そう、そういう感じ。……秘密が大きくて重い程、芽は真っ直ぐ伸びることが出来なくて曲がってしまう。で、時間が経って、曲がったまま大きくなっちゃうと、石を退けても、元に戻らなくなってしまう」
「うん」
「そうなると、心の具合が悪くなる。心が健康じゃなくなると、病気になってしまう」
「心も病気になるんだあ」
「なる。身体よりも、心が病気になった方が治るのに長くかかるし、大変なんだ」
「……」
「心が病気の人はね、一見、普通に見えるけど、目に出るんだな。……これはね、見えるようになる為に、練習が必要だ。叔父さんは、そういう人を沢山見て、判るようになった」
「うん」
「嫌な目っていうのは、そういう目の事だな。目つきが悪いってのは、生まれつきの顔の事だから、しょうがない。分かるかな」
「分かる」
 黒羽根は姪の頭をポンポンと軽く叩いた。
「秘密を持つ事が悪いんじゃない。誰でも十や二十、人に言えない事はあるもんだ。
……でもさ、トモ、大きくて重い秘密は持っちゃいけない。そういう時は、誰かに相談する事。トモだったら、俺とか。仲がいい友達とか、未来の恋人とか」
 黒羽根は優しく笑うとトモの目を真っ直ぐに見た。
「トモの目はほんとに綺麗だ」
「心が健康だからかな……今のお話、覚えておくね。ねえケンちゃん、お腹空かない?」
「腹が空くのは身体が健康な証拠だな」
 黒羽根はまた笑った。

 矢代はトモを電車の改札の前まで送った。笑顔で別れた後、いつものモードにチェンジして溜息をついた。まともな男のフリは疲れる。
 暮れゆく銀座の街を歩きながら考える。幹部から聞く黒羽根の人となりは、今日の話と一致した。黒羽根という男は、温厚で優しい常識的な一面と、眉一つ動かさずに人を殺す残虐な一面とを併せ持つ男だったようだ。私欲の無さゆえだろう。自分を数に入れない男なのだ、良くも悪くも。だから一途で、限りなく残酷になれる……。
 そんな男が、命の保証の無い修羅場に、気に入ってる若い部下を連れていくだろうか。無理に平田がついて行ったとしても、足手まといだと、外で待たせるんじゃないだろうか。

 平田が現場に踏み込んだ時……平田が言うように、乱闘の末に黒羽根は死に、平田だけが生き残ったか、あるいは。
……もし、黒羽根だけが部屋の中で立っていたとして。
……そこに平田が武器を持って踏み込んでも疑問は持たないだろう。
……平田は黒羽根に信頼されていた。どの部下よりも。大事な姪っ子と部屋で2人きりにする程に。

 平田は咄嗟にチャンスを利用したのかもしれない。傷つき疲れている黒羽根。ここでヤツを殺せば、それを知る者は誰も居なくなる。そうすれば三角の隣は俺のものだ、と。

『重過ぎる秘密は、心の芽を歪ませ、ねじれさせる』
 矢代の予想通りなら、今ごろ平田の心の芽は、積年の後ろめたさと片想いとで、ねじれにねじれ絡み合って、大変な事になってるだろう。

 矢代は書店の前までくると、人を避けながら中へ進み、投資についての本を手に取り、目を通した。こういう事を高校で教えてくれれば良かったのに、と、最近は良く考える。てか、卒業してからの方が真面目に勉強してるよなぁ、俺。
 近くの児童書のコーナーに流れるマザーグースの映像と音に、矢代はふと、興味を惹かれた。

ねじれた男がいて、ねじれた道を歩いて行った。
There was a crooked man and he went a crooked mile.

男はねじれた垣根で、ねじれた銀貨を拾った。
He found a crooked sixpence beside a crooked stile.

男はねじれた鼠を捕まえる、ねじれた猫を持っていた。
He had a crooked cat which caught a crooked mouse.

そしてみんなと一緒に小さなねじれた家に住んだ。
And they all lived together in a little crooked house.

 ……ねじれた男。crookedman。なんてタイムリーな詩。
まあ、ねじれっぷりなら自分も負けない自信がある。俺の場合はアレだ、育った土が悪かったとか日陰だったとか、そういう理由なんだろうな。
 三角にも、平田の『嫌な目』は見えているだろう。なのに若頭に据えている。少々不思議な気もするが、その辺が上に立つ者の「器」なのかもしれない。


 そこから十六年の月日が経った。

 天井が高く、差し込む日の光に埃が舞い、ゴミが散らばる空港近くの倉庫の中。
 矢代は平田に襟首を掴まれ、床に尻をつき至近距離で平田と向かい合っていた。ポケットの中で密かにスマホのボイスレコーダーを起動し、頭を猛スピードで回転させる。ここで平田の我を忘れさせる事が出来れば勝機はある。

 「ああそうだ。俺が奴を殺した。何度も腹抉ってやった。こいつさえいなけりゃ…こいつの場所さえ奪えば出世出来ると踏んでなぁ!
それの何が悪い!? 極道はそうやって人から奪う生きモンだろうが。俺はガキのころから奪われてきた」
 平田は矢代の襟首を引き寄せた。矢代は抵抗せず、平田の目を覗き込んだ。かつて聞いた童謡の一節を思い出す。ねじれた男……
「てめえだってそうだろうが。なのにあいつはまるで正しい人間みてぇに真っ直ぐで、涼しい面して綺麗事を恥ずかしげもなく語りやがる。足元は汚物だらけなのによ。てめぇだけは綺麗でいようなんて図々しいだろうが……そのくせ、俺がヤクザになって唯一欲しいと思ったモンを持ってやがった」
 平田の勢いは止まらない。矢代には分かる。いま、平田は長い間心の芽を押さえつけた重石を除けようとしている。
「俺がアイツを殺してようやくだ。ようやく三角は俺を視界に入れやがった……それでも組に認められりゃこっちのもんだと思ってた。そんな時てめぇが現れた」
「親父がお前を愛人扱いしてた時はお前を「女」だと思ってりゃ済んだ。なのに若頭にまでして次は本家の盃だと!?どこまで俺を無視しやがる。……あいつを引きずり下ろすために竜崎焚き付けてお前を襲わせて、豪多の連中まで殺してやった」

 はい、言質頂きました。
 矢代はポケットの中のスマホを握りしめる。
「俺が三角に愛されたいだと?寝言言ってんじゃねぇ。決して俺を認めねぇアイツが憎くて仕方…」
 平田の言葉は途切れた。目は、矢代の右手にあるスマホに吸い寄せられた。矢代はスマホを放り投げる。チラッと見えた画面はボイスレコーダーだ。平田は蒼白になった。

「盛大な愛の告白ですね」
 スマホは硬い音を立てて地面に落ちた。平田は思わず駆け寄り、スマホを拾い上げる。背後で矢代はゆっくり立ち上がった。
「俺がなんで手ぇ出さず紳士的にお喋りしたか分かります?拷問してウタわせた物、組に廻したところで信用されないでしょ?俺は本家に信用されてないからアンタに罪を着せてると思われる」
「__誰に送った」
「分かってるくせに」
 形成逆転。既に三角は平田の絵図を解明し、平田を見限っているが、会長の座に就くためには、動かない証拠が必要だった。
「ちなみに警察にある証拠品なら既に処分済みです。足元見てきやがったんで相当ふんだくられましたけど」
 矢代は駄目押しした。既に警察内部には金で動く協力者がいる事を平田に告げる。
「暴対法で締め付けてる割には抗争だと手抜きするからあいつら。これで多少マシな捜査すんだろ」
……さあ、あんたの逃げ場はいよいよ無くなった。組も警察もあんたを追うだろう。行き先はどちらに転んでも地獄しかない。せめて、長年あんたを苛んできた心の重石が消えたのが救いか。
今はさぞやスッキリしてるだろうね。

 平田の沈黙が何かを孕む。足元に転がる鉄パイプを再度、拾い上げた。
「生きたいと思ってないと言ったな?」
 低い平田の声から抑えきれない毒が漏れる。彼は鉄パイプで地面に線を引いた。ガリガリと耳触りな音が不穏に響き渡る。
「殺さないでいたぶり続けてやる。殺してくれとお前が懇願するまで何度も」
 殺気が急激に膨れ上がった。その目は語っていた。……全て失った今、ただ。お前だけは殺す。息絶えた後も擦り潰し叩き潰して、床を真っ赤に染めてやる。こんなにも、なんの計算も打算もない、純粋な憎しみを他人に抱くのは初めてだと。矢代は歪んだ微笑みを浮かべた。
「いいね。俺のこと良く分かってるじゃないですか」

 ……さあ、こっからがねじれた男同士、俺とあんたの第二ラウンド。
あんたは全力で否定するだろうが、俺達は似てるよ。決して手に入らない相手の心を死ぬ程求め続けて。相手の目に映る姿が自分でない事に絶望し続けて。

 ひび割れた鏡に映る鏡像、歪んだコインの表裏……お互い長かったよな、おまたせ。

 平田の容赦ない一撃が矢代の腹にめり込み、倒れた拍子に隠し持っていた拳銃が床に転がった。自供が取れる前に殺されてはマズいと、念の為に持っていた銃だったが、既に音声が向こうに送られた以上、矢代もその存在を殆ど忘れかけていた。平田の目が拳銃を追い、みるみる怒りが顔を染め上げる。
「おい……なんだそりゃ。こんなもん持っていながら丸腰のフリか」
平田は勢いよく鉄パイプを振り上げながら絶叫した。
「どこまで馬鹿にしやがる」

 平田の怒声。鉄パイプが空を切る音。漏れるうめき声。
 矢代はただ、風に舞う枯れ葉のように翻弄される。身体の各部で炸裂し、爆発する痛みに、息をするのが精一杯だ。遊びの痛みとは全く違う。
殺される。
殺される。
殺される。
情け容赦なく死の実感を伴う痛み。
身体の細胞全てが軋み、悲鳴を上げている。
自分の息遣い。
心臓の音。

 ぼやけた意識の中で、脳裏に色んな映像がちらつき始める。

母親。 義父。 学校。 影山。 夕焼け。 窓辺。 涙。 コンタクトケース。 三角。 天羽。 冬の路地裏。 竜崎。 セックス。 煙草。 車。 七原。 杉本。 久我。 雨。 映画館。 レモンジュース。 病院。 冷たいシャワー。
────百目鬼。

……子供の頃から俺には自明のことだった。

人は生きることで喪ってゆく。

生き続けることは、喪い続けること。

少しづつすり減り、風に吹き払われてゆく。

留める事はできない。

………終わりが近づき、普段は見ようとしなかったものが見えてくる。

哀しかった。
俺は、ずっと哀しかった。
本当に欲しいものは与えられなかった。
喪い続け、奪われ続けた。
俺のナカにはもう何も残ってない。壊れた心の残骸が転がってるだけ。

壊さないとあいつは言った。
もうとっくに壊れていた。

綺麗なものは汚したい
大事なものは傷つけたい
幸せなものは壊したい

擦り切れてく

生きることは

途方もない

ああこれで

ようやく俺は

俺を終わらせることができる

   ………慈悲深いひんやりした深い闇が全てを包む………


足音。
争う物音。
怒声。

 ……一度は沈みかけていた闇から少し浮かび上がったそこでは、光の中で、二人の男が闘っていた。両方ともボロボロで血にまみれていたが、片方が片方を押し倒し、馬乗りになって殴りつけている。上で殴っていた方の男が矢代の様子に気付いた。百目鬼だ。
「頭…っ」
 思わず馬乗りを解いて、矢代の側に駆け寄ろうとしたその時、下にいた平田が素早く跳ね起き、転がっていた拳銃を拾い上げると
「死ねや!」
と百目鬼に弾を撃ち込んだ。撃たれた衝撃で膝をつく百目鬼。
「かし…」
 百目鬼はゆっくりとその場に崩れ落ちる。矢代は目を見開いた。
「このくたばりぞこないが」
 平田は更に弾を撃ちこもうとしたが、弾切れだった。舌打ちし、百目鬼を蹴りつけ、そこでようやく気付いたように、倒れた男の顔を覗き込む。
「誰だコイツ」
 出し抜けに後頭部を硬いもので殴られ、平田は倒れた。
 矢代だった。大きな石を手に持ち、執拗に何度も殴りつける。血が飛び散り、矢代に降りかかる。

 いつの間にか降って来た雨の中、平田が動かなくなると、矢代はよろめきながら百目鬼に近付き、うつ伏せに倒れた男の側に跪いた。矢代の膝に、雨水と共に百目鬼の血が染みこんでゆく。
 百目鬼は傷のある左頬を上にして目を閉じ、雨に打たれている。ピクリとも動かない。矢代は震える手を伸ばし、中指でその傷をなぞった。溜息とも声ともつかぬ音が矢代の口から漏れた。
「……お、まえは  俺 を」
 彼の口はその後、何かの言葉を形作ったが、上空を横切る飛行機の轟音に掻き消される。

 鈍い音がした。今度は矢代の後頭部に、何者かが石を打ち下ろしたのだった。矢代は百目鬼に寄り添うように倒れ、意識を失う。
 横たわる二人の上に、雨が激しく降り注いだ。

 次に矢代が目を覚ましたのは病院で、一瞬、すべては銃で撃たれた後の夢かと錯覚した。だが安堵のあまり泣きそうな七原と杉本の顔を見て、横たわる百目鬼の顔が記憶の中で閃いた。百目鬼もこの病院で手当を受けていること。命に別状は無く、足の怪我も障害が残るものでは無いこと。一通り説明を聞いた矢代は、再び眠りに引き込まれていった。
 壮絶な反乱の末に破滅した平田は、密やかにその最後の様子が漏れ伝わってきた。
三角は平田をよく知っている。おそらく無慈悲に虫けらのように殺したのだろう。ねじれた男の1人は死に、もう1人は生き残った。

 退院当日の早朝。
 矢代は夢から醒めた。いつもの悪夢は、夢の中に突然現れたヒーロー、百目鬼によって鬼が退治されるという新展開になった。
……夢の中で、百目鬼は笑っていた、気がする。

 病室で、七原、杉本と、退院後の打ち合わせを済ませ雑談していると、影山が入ってきた。矢代は呆れたように言った。
「また来たのか、よっぽど暇してんだな」
「るせえな休診日なんだよ」
 矢代は退屈でしょうがない。二人で喫煙所に向かう。

「所払い?」
 喫煙場で影山はオウム返しに言った。矢代は深く煙草を吸って、煙を吐き出した。
「そ、シマはとりあえず他の組に分配して、別のとこで暫く何かしてろって」
「なんか?組は持つのか?」
「ないない組長とかメンドクセーし。金はあるから会社でも作ろっかなー」
「足洗っちまえばいいじゃねーか」
「多分俺、性に合ってんだわ。部下蹴りまくってもパワハラ認定されない職業ってないだろ」
「バカ言ってんな。お前みたいなヤクザ、周りが迷惑だ」
「えー俺みたいってどんなよ…あーはいはい、男とやっちゃうようなね」
矢代は頭をかいた。すこし間をあけて、口を開いた。
「なあ影山」
「あ?」
「お前はなんで俺じゃなくて久我だったんだ?」
 口に出してからハッとした。しまった、口が滑った。てか、今まで散々言おうとして言えなかった言葉があっさりと。
 影山は怪訝な顔をした。
「…なんでお前か久我の二択なんだ?」
「細かいことは気にすんな」
「気にすんなって言われてもな…」
 それ以上深く追求されず、思わず矢代はホッとする。
「考えたことねえ」
「ヤリてえなとかは?」
「あるわけねえだろ」
「今度俺をハメ撮りさせたやつ見せてやるよ」
「やめろ、身内のAV見せられるなんて苦痛でしかねぇ」
『身内』……今までは苦い気持ちになっていたこの言葉も、今日は何故か、するっと抵抗無く矢代の中に入り、腹の底でじんわり暖かくなった。

 帰る影山の後ろ姿を見送りながら、奇妙に晴れ晴れした気分で矢代は実感した。
……そうか。
……これが終わったって事か。
 俺の中の影山が居た場所に、今は、別の人間が居る。

 スマホが震えた。甘栗からだ。あんな凶悪な顔でドルオタらしい。伝手を辿って会わせてやる、と言ってから頻繁に連絡があった。
矢代は適当にいなし、電話を切った。

 エレベーターに乗り込むと、矢代は自分の病室がある五階を一度押したが、少しためらい、六階のボタンを押しなおした。
 明るい病院の廊下の先に、百目鬼の病室があった。百目鬼には入院以来一度も会っていなかったし、退院した後も会うつもりは無かった。
 七原、杉本に『頭を打って百目鬼の存在を忘れた』と告げた時、二人はショックを受けていたが、同時に矢代の意図を察してくれた。不幸な偶然が重なり、矢代達の元に来る事になった新人は、どう考えてもヤクザには向いていない。彼は日の当たる世界で生きるべき人間だった。

 百目鬼の病室が遠目に見えて来た時、ドアが開き、矢代は足を止めた。その場でガラス窓越しの風景を見守る。
 百目鬼と、妹、母親らしき人物が、病室の入り口で会話している様子が見えた。彼の顔は穏やかで、家族と居る時のリラックスした表情をし、微笑みを浮かべていた。初めてみる顔だった。
……そうだ。あいつには待っている家族と、帰る場所がある。

 誰にも言っていなかったが、矢代の視界の右側は闇に閉ざされていた。矢代は右手をその闇の上に重ねた。
 明るい世界の中で唯一、そこだけは永久に闇のままだ。俺はこの闇を抱えて生きて行く。生き残った代償と思えば安いものだ。

 百目鬼の姿を左目に焼き付けるように彼の姿をじっと見つめる。

 ────あいつにはこちらの世界は相応しくない。
 夜の都会の路地裏で、ゴミと血と反吐にまみれて息絶え、親戚も家族も来ない寂しい葬式の後、適当に墓に放り込まれる……そんな未来には断じてさせない。
 そんなのは、俺たちだけで充分だ。

 俺の道は今後、地獄へと続く。……でもあいつは。一度として自分の為に他人を傷つけた事はない。いつも、いつだって誰かのため。

 なあ神様。居るなら聞いてくれ。

 あいつは、日の当たる場所で、あいつのように優しい誰かと出会い、結ばれてガキを作り、家族を守って暮らしていくのが似合いだよ。そうして歳とって、無愛想で頑固なジジイになって、死ぬ時は沢山の息子や娘や孫達に囲まれて、頑固だけど優しい人だったねなんて言われながら、あの世に旅立つべき人間なんだ……。

 俺は今までの人生で誰かの幸福を祈った事はない。
———でも。苦しい時の神頼みっていうけど、本当は、誰かの幸福を祈る時、神様に祈りたくなるんだな。
 そんなことも、初めて知ったよ。

 あまりにも飢えすぎて……
一度でも近くなりすぎると、もう元には戻れない。それだけは確信していた。

 だから、遠ざける。

 俺はお前を忘れる。お前も俺を忘れてくれ。

……神様。
あいつが、暖かい風がふく明るい場所で優しい誰かを見つける事ができますように。

最初で最後のお願いだ。
どうか、神様。

頼むよ。


<fin>

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