外から見た日本語11 大丈夫です
学生時代から20年ほど東京で暮らした友人がかつて言っていた。生まれ故郷である福岡に帰省したときに旧友と方言で話そうとすると、「それ、いつの方言?もうそんなことばだれも使ってないよ」と言われると。
私もずいぶん前から似たようなことを感じるようになっていた。私が高校生だった数十年前はみんな方言で話していた。テレビで”東京語”を浴びるほど聞いていても、それにはおかまいなしにベタベタの方言を使っていた。でも、今はちがう。故郷に帰って在来線に乗ると学校帰りの高校生がたくさん乗ってくるが、みんなテレビで聞くようなことばを話している。ほとんど地元ことばは聞こえてこない。
ことばはどんどん変化していく、というのはいろいろな折に感じるが、私は年に1,2度帰国していたとはいえ、21年間日本を離れていたので特にそれを強く感じるのかも知れない。
数年前に気づいたことばの変化のひとつに「大丈夫です」がある。コンビニなどで「袋に入れますか?」と聞かれて「大丈夫です」というような言い方。若者に多いが中高年も使っていて、しょっちゅう耳にする。私がニューヨークに行く前はこういう使い方はなかったと思う。以前だったら「けっこうです」、または「いいえ」とか「いいです」と言っていたのが「大丈夫です」に取って代わっていた。
かつて「大丈夫です」は、顔色が悪い人を見て「具合悪いんじゃない。大丈夫?」とか、重そうな荷物を持っている人に対して「大丈夫ですか。持ちましょうか?」と気遣ったりするときに使う言葉だった。そして、そうした気遣いに対して「ありがとう。大丈夫です」と応える。それが今では、「今晩飲みに行こうか」と先輩や上司に誘われたときに、「大丈夫です」と言って断るような使い方が当たり前になっているらしい。
数年前だったか、社会学者とかそういう関係の専門家が、この「大丈夫です」の使い方を考察している記事をネットで読んで興味深く思った。その人は、若者が「けっこうです」や「いいです」ではなく「大丈夫です」を使うのは、相手に対する優しさのためだと書いていた。「けっこうです」は相手を拒絶しているように感じるので、拒絶の響きを避けるために、大げさにいえば相手を傷つけないために「大丈夫です」を使うのだと。
それはよく理解できる。私も、「けっこうです」は言い方によっては相手を拒絶するような、冷たい響きを持つ表現だと感じていた。ただ、”言い方によっては”であって、「けっこうです」で優しさや丁寧さを現すこともできると思っているので、個人的にはコンビニで「袋はいりますか」と聞かれたら、これまで通り「けっこうです」と応えるだろう。
ただ、しょっちゅう耳にしていれば、次第に、そして無意識に「大丈夫です」を使うようになるかもしれない。よほど強い主張があるか、頑なじゃない限り、多くの人が使っていることばに引きずられていくだろう。ことばってそういうものだと思う。
もうひとつ、「大丈夫です」で気になるのは、この表現に相手を思いやる気持ちと同時にそれを言う人の弱さ、傷つきやすさが隠れているような気がすることだ。私の印象では、「大丈夫です」と言う人はたいてい大丈夫ではない。「具合が悪いんじゃない?大丈夫?」と聞かれて「大丈夫です」という人は、ほとんどの場合相手に心配をかけまいとして「大丈夫です」と言っているのであって、本当はあんまり大丈夫じゃなかったりする。あなたも大丈夫じゃないのに「大丈夫です」と言ったことが何度もあるでしょう?
だから、私は「大丈夫です」を聞くと、反射的に「本当に大丈夫?」、「無理しているのでは?」と思ってしまう。若者の「大丈夫です」には相手を傷つけたくないという気遣いと同時に、相手を傷つけないことで自分も傷つきたくないという弱さゆえの優しさを感じてしまうのだが、私の気のせい?
相手を気遣って「大丈夫です」と言う若者の優しさは素敵だと思う。でも、優しいだけじゃなくて強くもあってほしいと思う。
らうす・こんぶ/仕事は日本語を教えたり、日本語で書いたりすること。21年間のニューヨーク生活に終止符を打ち、東京在住。やっぱり日本語で話したり、書いたり、読んだり、考えたりするのがいちばん気持ちいいので、これからはもっと日本語と深く関わっていきたい。
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