タイムトラベラー 子供時代へ
私が住所録代わりにしていた年賀状の束が15年ぶりに見つかって、去年のお正月にご無沙汰していた人たちに久々に年賀状を送ったことはずいぶん前に「タイムトラベラー 高校時代へ」で書いた。
秋田に住む高校時代の友だちから年賀状の返事のメールが届いた数日後、今度は名古屋から「エッコ様」というメールが届いた。そのメールは一瞬で私を半世紀も前の小学生時代に連れて行ってくれた。
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小学5年生の冬休みのお正月もすぎたある日。突然、知らない人から私宛に手紙が届いた。名前やかわいい封筒の感じ、筆跡などから同じくらいの年齢の女の子らしいと思ったが全く心当たりがない。母が「雑誌のペンフレンド募集欄にでもはがき出したんじゃないの」と言った。
あ〜〜っ!す〜っかり忘れてた。その通りだった。私はその2,3ヶ月前に当時小学生の女の子がよく読んでいた「りぼん」(「なかよし」だったかな?)のペンフレンド募集欄に「お姉さんみたいな人と文通がしたい」みたいなことを書いたはがきを送っていたのだった。私には姉妹がいないので、特にお姉さんにあこがれていた。
それからというもの手紙が来るわ来るわ。全国津々浦々から毎日数十通ものの手紙が届く。あまりに数が多いので、郵便配達のお兄さんが、ゴムで束ねた花模様やらスヌーピーやらねこやらの女の子女の子したイラスト満載の封筒の束を、玄関にどさっと置いていくようになった。
最終的には200通か300通くらいになったんじゃないだろうか。最初のうちはせっせと返事を書いていたが、こうなるともう、全ての人に返事を書くなんてムリ〜。あのとき返事を出さないでしまった皆さん、こめんなさ〜い。
手紙に写真が同封されていることもあった。その中に1枚とてもかわいい女の子の写真を見つけた。ぱっちりした大きな目に背中まである長い髪、短めのかわいいワンピースを着たほっそりした美少女が、ちょっと首をかしげて、まるで雑誌の少女モデルのようなポーズでこっちを見ていた。
私の周りの女の子は私も含め、ほとんどみんなどーでもいいようなショートヘアで、放課後は家に帰ってランドセルを放り投げると速攻で校庭に戻ってドッジボールやってます、みたいな子が多かった。長い髪の女の子たちはおさげか三つ編みにしていたので、背中まであるストレートヘアの美少女なんてそれこそ少女漫画でしか見たことがなかった。
私はその少女のかわいらしさと写真全体から放射される洗練されたオーラにすっかり参ってしまった。田舎者の私には都会的なものへの強いあこがれがあった。
それからふたりの小学生の文通が始まった。手紙の中で私は彼女を「お姉ちゃん」と呼んだ。彼女は私を「エッコ」または「エっちゃん」と呼び、自分を「お姉ちゃん」と呼んだ。私はお姉ちゃんが欲しかったが、お姉ちゃんはお兄さんとふたり兄妹だったので、逆に妹が欲しかったのかも知れない。お姉ちゃんといっても1学年上なだけでしかも早生まれ。私は遅生まれだったから歳は数ヶ月しか違わなかった。それでも、私たちはお互いになりたいものになれて大満足で、仲良く文通を続けた。
私はお姉ちゃんのマネばかりしていた。お姉ちゃんがエアメール用の封筒で手紙をくれたときは、「きゃ〜、おっしゃれ〜」と思って文房具屋に飛んでいってエアメール用の封筒を買ってきた。お姉ちゃんが緑のインクで手紙を書いてくると、またお小遣いを握りしめて文房具屋に飛んでいって緑のインクを探してきて手紙を書いた。
あるとき、私は「そうだ!他の色も使って手紙を書こう」と思いついて、なんと赤のインクで手紙を書いて送った。おバカだったので赤で人の名前や手紙を書くのはものすごく失礼なことだなんて知らなかった。で、その手紙の返事でお姉ちゃんにえらく怒られた。
お姉ちゃんはよく「〜〜なんだけド」という書き方をした。「ド」を少し小さめに少し下の方に書くのがポイントで、めちゃくちゃかわいいと思った。おそらく田村セツ子か水森亜土の影響で、「〜〜ネ」という書き方はそのころからけっこう流行っていたけど、みんながやっていることはしたくなかった。お姉ちゃんの「ド」を少し小さめに書くスタイルは他の人はやっていない。私はこれも真似した。大好きなお姉ちゃんの真似ばかりしている妹という役どころにすっかりハマっていた。
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ふたりとも手紙を書くのが好きで、月に数回手紙をやりとりしていた。お姉ちゃんはいつもきれいな字で、自然な語り口調で手紙を書いてきた。私たちは年子の姉妹が二段ベッドの上と下で「あのね、あのね」、「聞いて、聞いて」と親には言えない内緒話をするみたいに、好きなアイドルのこととか、気になる男の子のこととか、手紙でいろんな話をした。たいてい私が「〜なんだけド、どうしたらいいと思う?」みたいな相談をする役で、お姉ちゃんが「〜してみたらどう?」みたいなアドバイスをくれる役。今にして思えば、お姉ちゃんは小学生にしてはとても的確なアドバイスをくれた。
あるとき、私は好きなアイドルにファンレターを出したいと思った。でも、山のように来るファンレターの中では小学生のファンレターなんか目に留めてもらえないだろう。そこでお姉ちゃんに相談するとーー
「毎回同じ目立つ封筒で手紙を出すようにするの。そうすれば、『ああ、これはあの子からの手紙だ』って覚えてくれるから」
このアドバイスは何通もファンレターを書くことが前提なのでハードルは高かったが、私は「なるほど〜」と思って一生懸命ファンレターを書いたところまでは覚えている。でも、多分そのファンレターは出さなかったと思う。今のようにネットで簡単に検索できる時代ではない。小学生の私がジャニーズ事務所の住所なんか調べられるわけがなかった(汗)。
学校にも仲良しの友だちはいたけれど、進学して学校が変わったりクラスが変わったりすれば友だちも変わる。でも、お姉ちゃんはいつもお姉ちゃんでいてくれ、2人の文通は大学に入っても続いた。学校の友だちとももちろんたくさんおしゃべりしたけれど、少女時代の内緒話をいちばんたくさんしたのはお姉ちゃんだろう。
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お姉ちゃんと1度だけ実際に会う機会があった。お姉ちゃんが高校の修学旅行で私の住む県にやってきたのだ。私の家からは遠かったけど、父が車でお姉ちゃんたちが宿泊していたホテルに連れて行ってくれた。ロビーに現れたお姉ちゃんは想像通りのあか抜けた都会のお嬢さんだった。数年後、小林麻美をテレビコマーシャルで見たとき、お姉ちゃんによく似ていると思った。そのくらいきれいな人だったので、お姉ちゃんは気さくに話しかけてくれたけれど、私はキンチョーしまくってろくに話ができなかった。
私は前日の夜、お姉ちゃんにあげようといっぱいクッキーを焼いて持っていった。お姉ちゃんは金色の素敵なネックレスをくれた。私はそれに合うような服は持っていなかったけど、時々机の引き出しから出して眺めるのが好きだった。
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大学を卒業する頃になると、次第に手紙のやり取りは減っていった。お姉ちゃんはずっと名古屋に住んでいたが、私は上京して大学に入ってから何度か引っ越した。ズボラな私はすぐに住所を知らせなかったので、手紙のやり取りは途絶え気味になった。お姉ちゃんは私の引っ越し先がわからなくなると実家に手紙をくれたので、そのおかげで大人になっても文通は続いた。
やがてお姉ちゃんは結婚して2人の男の子のお母さんになった。私はライターになり、フリーランスとして働くようになった。私たちは違う人生を歩み始め、共通の話題は少なくなり、私たちのやりとりはいつしか年賀状だけになっていた。東京と名古屋だから会いに行こうと思えばすぐに会える距離。私は出張で関西方面に行くこともあったし、名古屋に立ち寄ることもあった。連絡してお昼を一緒に食べるくらいのことはできたのに、なんとなくしなかった。
もうすっかり大人になっているのに小学生の頃のまま「お姉ちゃん」と呼ぶのも照れくさいような気がしたし、妙に大人ぶった話し方をするのもなんだか変だし。子供時代と大人になってからのギャップをどうやって埋めたらいいかわからなくて戸惑っていた。
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私のせいでまたまた途絶えていたお姉ちゃんとの関係が、私が失くしていた連絡先を見つけたことで去年のお正月に復活した。そして、つい先日、ふとカレンダーを見て気がついた。「今日はお姉ちゃんの誕生日だ!」さっそくお姉ちゃんにメールを送った。私は落ち着いたら名古屋に会いに行くと伝え、お姉ちゃんは東京に息子さんが住んでいて時々訪ねるので、そのとき東京で会うこともできると伝えてきた。
「エっちゃんが名古屋に来るのが早いか、私が東京に行くのが早いか、どっちかな」
私たちは高校生のときに会ったきり。でも、会えば一瞬で相手がわかるに違いない。会ったときどんなことばを交わすんだろう。気持ちは半世紀前の小学生に戻っていくだろうか。私は、今度はキンチョーせずに話ができるだろうか。
らうす・こんぶ/仕事は日本語を教えたり、日本語で書いたりすること。21年間のニューヨーク生活に終止符を打ち、東京在住。やっぱり日本語で話したり、書いたり、読んだり、考えたりするのがいちばん気持ちいいので、これからはもっと日本語と深く関わっていきたい。
らうす・こんぶのnote:
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