謎な人
紀伊國屋で時間をつぶそうと思ったが、本を物色して一冊買い求めても、まだ映画が始まる午後7時半までには2時間近くある。じゃあ、買ったばかりの本を読もうと、某ファーストフード店に行った。
週末の新宿は喫茶店がどこも混んでいて、席を見つけるのも大変ならゆっくり本を読むのも気が引けるし、第一落ち着かない。ところが、この店は週末でも大抵席が見つかる穴場。しかも、私が好きな奥の端っこの席が空いていることが多いのがサイコーにすてき。
で、ガラス越しに私の”指定席”の空き状況を確かめると、今日も空いている。ラッキー!これで映画が始まる時間までここでゆっくり読書ができるわな。
急いで店に入ってその席に近づくと、今まさに男の人がその席に座らむとしていた。あ〜〜〜、残念。でも、その近くの壁際の席が空いていたのでそこに陣取り、カウンターでカフェラテをオーダーして席に戻る。
壁を背にして座ると、通路を挟んでさっきの男性の左半身が目に入る、そういう位置関係。つまり、私が本から目を上げるといつもその男性を観察できる体制になってしまった。
すぐに、私は読書に集中するのは無理なことがわかった。目の前にいる男性が謎すぎるのだ。
その男性は細身で、身長は180センチくらいありそうだ。黒のタートルネックのセーターに黒っぽいジーンズ。髪はグレーというよりシルバーのおしゃれな色で、耳にかかるくらいの長さのボブにパーマをかけたような髪型。見た目はシンプルながらとてもおしゃれなのが私でもわかった。だが、一番気になったのはそこじゃない。顔が綾野剛にそっくりだったのだ。特に、あの、特徴のある狐のような切長の目が。それだけでもかなり気になるのに、この男性には謎なところがたくさんあった。
男性のテーブルの向かいにもうひとつ椅子があったが、その人はそこに「CELENE」と書かれた大きな紙袋を置き、その上に仕立てのいいコートを無造作に載せた。それで、ファーストフード店には不釣り合いな「CELENE」の大げささが隠れた。
その人がカウンターに行って戻ってくると、トレイの上に載っていたのはコーヒーフロートだった。アイスコーヒーの上にウネウネとソフトクリームがのっかっている。ちょっと意外だった。<普通のコーヒーとかじゃないんだ。甘いものが好きなんだ>。その人はハンカチを取り出してナプキンがわりに膝の上に広げると、女子高生のようにスプーンでソフトクリームを食べ始めた。時々、スマホをいじりながら。
小さなテーブルの上には飲み物以外にもいろんなものが置かれていた。
ゴムで縛ったひと束のレシート。
<それはCELINEで買ったスーツのレシートですか?今日の買い物を清算してもらうために、これから電卓で計算するのかな?>
小さめの黒いポーチ。
<おお〜あれに見えるはPRADAのロゴではなかろうか?>
紀伊國屋のブックカバーがかかった新書サイズの本が一冊。
<あら、お兄さんも紀伊國屋に行ってたんですか。奇遇ですね。何、読んでるの?気になる、気になる>
<>は私の心の声。目を上げるとそのお兄さんが否応なく目に入るので、気になっちゃってもう本を読むどころではなくなった。お兄さんをチラ見しつつも目は文字を追っているが頭に入ってこない。同じページを目が何度もウロウロと行ったり来たりするだけでちっともページがめくれない。
やがてお兄さんは一枚のレシートの裏に何やら熱心に書き始めた。<レシートの裏になんか、いったい何を書いているんだろう?>ペンは小学生が使うような、100均で売ってるプラスチック製のシャープペンシルだ。
そして、コーヒーフロートを、もはやソフトクリームは溶けてしまってミルクコーヒーみたいになっているのでストローで一口飲むと、またスマホで何やら見たり書いたりしている。すると、やにわに、私とお揃いの紀伊國屋のカバーをかけた本を手に取って数ページめくる。
このお兄さんはセーターの袖を少したくし上げていたが、そこからのぞく腕は優しげで、手首や指はほっそりと長く繊細だった。1度、手首だけを少し内側に曲げるようにして腕時計をチラリと見て時間を確認した。その仕草に、あれ?っと思った。
とても女性的に見えたのだ。なぜだろうと思った。この時初めて、男性はこういう仕草で腕時計を見ないからだということに気づいた。男性はもっとガッと肘を高く上げて腕時計を見るだろう。この男性はガサツさがちっともなくて、体つきもしぐさもしなやかで繊細だった。ただ、時々空(くう)を見つめて何か考える様子でちょっと上にあげた顎を指先で撫でる仕草は、夕方になって髭が伸びてきた男性がする仕草だった。
ファーストフード店の隅っこの椅子に置かれた「CELINE」の大きな紙袋。
PRADAのポーチの横に置かれたレシートと100均のシャープペンシル。
膝の上にきちんと広げられたハンカチ。お兄さんはハンカチが必要なくなると、それを綺麗に畳んでテーブルに置いた。
細い腕にはめた腕時計を見る優しい仕草。
女子高生が好きそうな、ソフトクリームがウネウネとのったコーヒーフロート。
男性とはこういうもの、ファーストフード店に来るような人はこういう人、というような先入観を持って見ると、この人はなんだかいろいろとチグハグだったり不釣り合いだったりするのだが、その予定調和にならなさすぎるところがとても謎めいていた。ただものではない感じがした。もっと観察して勝手な妄想を膨らましていたかったが、映画の時間が迫ってきたので私は席を立った。
その店にいたときは、あの男性が綾野剛である可能性は10%くらいのものだろうと思っていたが、あとになってあのかっこいい髪の色が気になってきた。最近ドラマか写真で、あんな色に髪を染めた綾野剛を見たような気がしたからだ。
ネットで調べてみると、髪型は違うものの、あの色に髪を染めた綾野剛の写真が出てきた。そして、これはグレージュという色らしいということがわかった。また、綾野剛の身長は180センチくらいらしいこともわかった。なんだかいろいろと付合する。私の前にいた人は綾野剛だったのではないか、という疑惑がむくむくと浮上してきた。
謎は謎のままにしておこう。でも、やっぱり紀伊國屋のブックカバーで隠された本のタイトルが気になる。綾野剛だったかもしれないお兄さんは、ファーストフード店の隅っこで一体何を読んでいたんだろう。
らうす・こんぶ/仕事は日本語を教えたり、日本語で書いたりすること。21年間のニューヨーク生活に終止符を打ち、東京在住。やっぱり日本語で話したり、書いたり、読んだり、考えたりするのがいちばん気持ちいいので、これからはもっと日本語と深く関わっていきたい。
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