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完璧な選手を好きにはなれない。


誰からも愛される選手なんて魅力的ではない。


内からは愛され、外から批判されるだけでも満足しない。


批判していた者たちを最大の支持者に変えた選手こそ
私の愛する選手になる。




今回紹介するのは彼、もちろんラウールガルシアである。



彼の良さ(面白さ)はなんと言ってもプレーがはっきりしているところ以外には見つからない。


アタッキングサードでの彼にとって重要なのは


如何にボールに触らないか。如何にポジョナルなプレーをするかである。


脚にしろ頭にしろ、ボールとの関係は点でしかない。これがプレーの質、特にゴールを決めるまでの一連の過程をシンプルにする。



チームメイトにとってもメリットになる。自らのプレースタイルがはっきりとしている(パターン化されている)ので

どんな時、どんな場合にボールを彼に渡すべきか、彼の動き出しを囮に使うべきか


予測しやすい彼のプレーにより味方はゴールまでの道のりが鮮明になっていく。




秩序の中の自由は、本当に自由であるのかという問題はある。ただ、自由が無秩序を意味するとは(少なくともサッカーを観る時には)誰も思わないだろう。


チームの勝利のためという名目の結託が、個人のアナーキー的性質からの解放と他者からの信頼獲得を意味するのか。

もしくは、逆か。


特に言いたいことはありません。



ともあれ、ラウールガルシアは自由を捨てることでチームの中で自由を享受している。


エゴは何処へ行ったのか。


「俺がアシストしてやってるんだから、俺にアシストしろ」ではなく、俺を利用して活躍しろと言っているような。


これが彼のエゴか。


「サッカーが好きだからプロ選手をやっているだけ」とインタビューで述べるラウガル。

経験がプレースタイルの変化をもたらしたというよりは、自ら好んでいる選手像なのかもしれない。



彼のプレーの質は味方の存在で決まる。他力本願である。



彼は献身的な選手の鏡であり、チームに必要なパーソナリティを持つ素晴らしい選手である。


そんな彼のプレーをぜひ見てほしい。

(バレンシア戦のバックヘッドが入ってないのは解せないよ公式さん)




…………しかし、彼の魅力はこれだけだろうか。


実は、もしかしたら彼はアナーキストかもしれない。


しかし、デラペーニャのような世界中を魅了することのできるプレーを伴った存在と重ねているわけではない。



例えば、第13位のゴール。

ボールをもらうといきなり打つのである。

「なんだなんだ、どうした?」

時にはネットに入ることもある。


チームプレーこそが彼のプレースタイルのはずであるのに

突然その秩序を自らぶっ壊す。そんなプレーがアトレティコ時代には多く見られた。



彼にしか見えていないパスコース、シュートコース。


ラウガルゾーン。



試合中ほとんどボールに関与しない彼が突然秩序を乱せばファンがキレるのは当然である。


しかし、怒るあなたがそこにいるとすれば、彼を適切に捉えられていない。


目に見えるものだけが全てではない。

彼の思い描く点と点を視聴者が結んでやらないといけないのかもしれない。


しかし、接続しないように映るプレーを結ぶことで
彼が長年プリメーラで活躍してきた理由がわかるかもしれない。




それにしたって彼の点は理解できないのである。



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