「人の死」は避けようにも避けられない~原千晶さんのブログ文謝罪に思うこと
原千晶さんが謝罪
女優の原千晶さんが自身のブログの中で知人の死を報告したことが批難され、謝罪コメントを発信したそうです。
ここで私は「原千晶さんが軽率だった」とか「批難する人がおかしい」とか、そんな風なことを書くつもりはありません。
ただ、生きていく上で「人の死」と遭遇するということは、本来はごく自然なことであるはずなのに、ことさらに「人の死」に対してナイーブになってしまうことで「人の死」を自分の人生から遠ざけていくこと、「人の死」を忌避してしまうこと、そうした実情に触れる度に少なからず苛立ちにも似た感情が抑えられなくなってしまいます。
フューネラルの仕事
私は長く花を扱う仕事に従事していました。
結婚式や盛大な企業パーティ、厳かな国際会議や国賓接遇施設の装飾まで、本当に様々な現場で花を扱ってきましたが、こうした現場が常に緊張感に満ちた環境でありながら、多くのフローリストにとって「自分も関わりたい」と思わせる舞台であったのに対して、緊張感がある上に全てのフローリストが「関わりたい」とは積極的な気持ちを持ちえない領域の仕事があったのです。
それはいわゆる「フューネラル」の仕事。
つまり、お葬式やお別れの会に代表される「人の死」に関わる仕事です。
「人の死」を自然体で受け入れられた
私自身、「フューネラル」の仕事を任される前までは、仕事現場に「亡くなった人の遺体」があるという状況がどんなものであるのか、それを想像することも難しかったですし、そんなシチュエーションで果たして平然と仕事をすることが出来るものなのか、答えの出ない問答を繰り返していたように記憶していますが、実際に現場へ入ってみるとそんな心配は無かったことかのように、ごく自然に「遺体が置かれた仕事現場」を受け入れることが出来てしまっていました。
そこに遺体があるというだけで現場へどうしても行けないと訴える同僚や、何度か現場に入ってみたものの耐えられないと訴える同僚が少なからずいたのに、私は棺に入った全く知らないおじいさんやおばあさん、場合によっては幼い子どもや自死した若者の顔を拝むことに抵抗を全く感じることもなく、時には葬儀屋さんの手伝いで遺体を抱っこして運ぶことすら出来てしまっていた。
そして大切な家族を亡くしてしまった遺族と接することがあっても、どこか冷静でありながら、時には一緒に涙したりしながら、本当に自然体で対応することが出来ていたのです。
「人の死」は避けようにも避けられない
ただ、こうして私が仕事とは言えども「人の死」に対して抵抗なく自然体でそれを受け止めることが出来ていたのは、私がその年齢(40代前半)の割に家族の死に遭遇した回数が多かったからだろうと、今にしてみれば思うことも出来ます。
20代で働き盛りだった父親が急死し、30代前半に同居していた祖母が亡くなり、40歳の時にはガンで亡くなった母親の葬儀で喪主も経験済みです。
父と母の死については、その臨終にも立ち会い「生きている人間が死んでいく」そのあまりにあっけない時間の流れを2度も体験していたことで、非常に言い方が難しいのですが「人の死」は避けようにも避けられない、忌避したところで必ず降りかかってくるものであると、どこかで開き直れてしまっているのかも知れません。
人に「命」があるとすれば、その数と同じだけ必ず「死」がやってくる。
「死」を畏れ、忌避し、どんなに遠ざけようとしたところで、自らの「死」が消えてなくなることは絶対にない。
ならば「人の死」を受け入れることも、人間が生きていく上で必要な器量であるのではないかと、私は思うのです。