一穂ミチ『パラソルでパラシュート』が絶妙に良かった…みんな夏子の虜になればいい
にわか一穂ミチファンによる感想です。
これは、夏子の話だと思う。夏子は、作中で演じられるいくつかのコントに登場する定番のキャラクター。すなわち、物語の中の更に架空の人物である。
主人公兼語り部の柳生美雨(やない みう)、お笑いコンビ「安全ピン」の矢沢亨(やざわ とおる)と椿弓彦、そして終盤に嵐を起こしに現れるもう1人がメインの登場人物なのだが、その4人を中心で夏子というキャラクターがきれいに繋ぐ。そのことに4人と読者が気づいてしみじみ納得するまでの物語。
おそらく作者は、この世の枠にはまりきらず大きく逸脱するわけでもなく、だからこそ名前はないし付けられたくもないが確かに存在するもの、そしてそれらがもつ強さと自由さを描きたかったんだと思う。(BLでの活躍もそれが原動力?)
特に価値のないものが、そのままで生きていたっていいじゃない? 少なくとも周りにレッテルを貼られる謂れはないじゃない? 別に認めてくれと言っているわけではないのだから。きっとこの作品に込められたメッセージはそれだ。
まず主人公の美雨は冒頭から、チケットを譲ってもらったコンサートの最前列で靴擦れのせいで全く周囲の盛り上がりについていけない。仕事は30歳となる来年には、会社の慣例で退職が決定している派遣の受付嬢。自分の存在価値をふと問うてしまうような身の上だ。しかしそれがふらふらと流されるままに生きてきた自分のせいだという自覚はあるし、だから理不尽な社会と戦おうという気はまるでない。ただ、どうしてこのままではダメなんだろうと、ここから先を決めかねているのだ。
そんなとき、コンサート会場のスタッフだった亨とトレンディドラマくらいにはドラマティックな出会いをする。しかしお互い恋愛には発展せず、ある種の好意と興味を相手に抱き続けるという不確かな関係がそこには生まれる。
美雨は亨に思う。
この2文でふっと肩の力を抜けた人には、自信をもってお勧めできる小説だ。
また亨は語る。
リードボーがわからなくても、この「好き」論が心に刺さった方にも確信をもってお勧めする。
筋としては、美雨が亨に興味を持ち、大事件や大変革なんてなくても自分のありのままや枠にはまらない生き方を選べるようになり、それと同時に亨という人物を読み解いていく、というもの。亨のいつもはぐらかすようなつかみどころのない会話と佇まいは、美雨だけでなく読者の興味を惹くのに充分すぎるのだ。大阪城公園での運命の出会いから、届きそうで届かない彼の核心が気になってページをめくる手が止まらない。きっと美雨も同じ気持ちなんだろうと思う。
しかし近づきすぎるのは、違う。美雨と亨の、亨の相方・弓彦も交えた絶妙な距離が良いのだ。またコンビの相方というのも、他の言葉では表しようのない不思議な関係だと思う。そして3人をつなぐ“夏子”の存在も。
今更だが、夏子とは亨が舞台上で演じるキャラクターである。作中で夏子が初めて登場するのは、運命の2人が時代を超えて転生し、出会い続けるがすれ違い続けるというコントだ。このコントがシュールな笑いにあふれているのだが、どこかシニカルなペーソスも感じさせる秀作で、初めて観て泣いた美雨の気持ちがとてもよくわかる。そして少なくとも私は、このとき夏子の虜になった。
字だけなのに彼女の独特の色気が実感を持って伝わってきて、ぞくぞくした。亨を知りたいし、夏子をもっと見ていたい。あわよくば、触れたい。そして読み進めると、亨と弓彦の出会いも夏子ありきのものだったことが判明する。ああ!と、期待していたものが予想以上の角度で胸に刺さった感覚がした。なんかもう凄い。もっともっと、欲しいところに凄いのを刺してほしい。
止めることもできず一気に読み進めて、終盤。意外な登場人物が新たに現れる。亨を訪ねて。そして夏子のすべてが明らかになり、亨も弓彦も夏子にまつわるすべてを昇華させるネタを引っ提げて、舞台に上がる。このネタがまた本当に素晴らしくて、読みながら泣いた。給湯器のネタも本当に良かったけど、もっと泣いた。コントネタとしても、彼らのマイルストーンとしても、胸に迫るものが多すぎる。
是非最後まで夏子の魅力に引っ張られて、あの感動を味わってほしい。私の願いは以上です。