2枚の皿洗い
さっき、
台所にいくと、いくつか洗い物が流しにあった。
昨日母が味噌汁を作るのに使った小さめの鍋や、
夕飯のお椀や箸や、コップに皿、
まあ少ないけど、
「やりたくない、面倒だな」
と、内臓あたりにしんどさ、重さを感じた。
帰ってきた母に、また文句を言われるのだろうか?
文句を言われて、罪責感や、
嫌な痛い感覚を味わうのが嫌で、
それを避けたいという恐怖心から、
自分は皿を洗うのだろうか?
いつもの葛藤を感じた。
こういうとき、
「家族への感謝を思い出して、
進んで与えるモードになって」
などと言われるけど、
そんなに都合よく気分を変えられるなら、
苦労はない。
まして、鬱になったり、自殺する人なんかいないのである。
話を戻すと、
夕飯に必要なものは、
味噌汁とかに使うお椀で、
皿や箸、コップはまだ予備があるから、
洗う必要はない。
小鍋は、面倒すぎるから、
母に任せよう。
なら、2枚のお椀だけ洗えばいいわけで、
それだけやればいいのか、
と気づいた。
やるか、やらないか、ではない、
第3の道を発見した。
それが二枚の皿洗いだった。
楽に、ストレスなくできそうな分だけやる。
ここで、
良かれと思って、
家族のためになろうとして、
奮起して全て洗おうなどと考えると、
自分の場合、ストレスが溜まって、
辛くなるのは経験から見えている。
二枚なら軽いと、
さっそく取り掛かると、
不思議と、残りの洗い物もやってもいいか、
と思えた。で、結局全部やった。
人の心はこういうもので、
皿洗いなら2枚だけでいいと決めて、
自分に無理を押し付けないで、
自分を許して解放してあげると、
不思議と、エネルギーが湧いて、
全部やってしまったりする。
また、実際にやる気が起きなくて、
一枚も洗わなくても、
実際には問題はないのだ。
子育てのコツもこれだと思う。
子どもに学校に行かせようとか、
塾に行かせようと思うと、
子どもは上から圧迫されて、
心のエネルギーが通らなくなる。
だから、無理してやらなくていいと解放してあげたら、
心が解放されるので、
チューブに水が通るがごとく、
エネルギーが湧くのだ。
人はだいたい、
頑張れば上手く行くと思いがちだが、
真実は逆で、
リラックスしたらエネルギーが湧くのである。
また、リラックスしてエネルギーが湧かないなら、今でも自分は不安になったりするけども、
やはりそれでいいんだろう。
何もしないからこそ、
湧く恐怖や闇もある。
今はそう思って生きている。
でも、この不安がなくなったら、
人はどんな心境で生きるのか、
果たしてそこに行き着けるのか、
それはまだわからない。
早くそうならないかな、とは思うけど、まだ、なかなかそうならない。
追記:母が夜に帰って来た時、
母が味噌汁などの料理をしないのがわかり(弁当を買ってきた)、微妙に腹立たしい自分に気づいた。
つまり、母にお礼を言われたいとか、
皿洗いしたことが、自分の思ったように
役立てられて欲しい、みたいな期待があったようだ。
やっぱり、微妙に「やりたいからでなく、やりたくないけど」やっていたみたいだ。