手放すくらいなら、死ぬ
筋トレで、
減量をやり過ぎて亡くなった有名な
ボディビルダーの方がいた。
先日書いた、
マラソンの円谷という選手もだけど、
「頑張るのをやめて、
役割や地位を手放して、
自分の無意識に抑圧された、
あまりにも強烈で圧倒的な
無価値感や劣等感、自己醜悪感、
自己嫌悪、自己憎悪
恥、罪悪感、喪失感、絶望感に
直面して苦痛を味わうくらいなら、
死んだほうがマシだ」
という感じだと思う。
その圧倒的な苦痛の感覚や、
それを生み出した信念の向こう側には、
自由や解放があるんだけど、
自我は、
自己概念や自己イメージを手放すくらいなら、
死んだほうがマシだと
本気で思っているんだな、と思った。
そのくらい、無意識に強く握りしめている。
だから、なんとなく苦しいし、重いし、
生きづらいんだな。
ガリガリに痩せ細って、
それでもダイエットをやめられない状態とかも、
マラソンや筋トレで亡くなった人と同じで、
「自分はまだ充分じゃない、足したり引いたりしないといけないものがある、自分を改善して完璧な状態に近づけなきゃ」
っていう信念を文字通り死ぬまで握りしめ続ける。
信念や役割、地位、自己イメージを失ったら、
「負け」というか、
貴重な何か、
努力や苦しみを支払って築き上げた
何かの具体的な成果、
特別性や地位/ポジション、
を失ってしまう、
そしたら、満足感とか充実感、
安心感、自分が意味ある存在である感覚、
を失ってしまう、
そうなったら絶望感、喪失感、
手放さなければよかったという後悔、
欠乏感に苦しむしかないから、
握りしめ続けるしかない。
手放すわけにはいかない。
自分はBrawl Starsという
スマホゲームのデータに
この執着がまだあるけど、
本当に、
手放したら不幸せになる、後悔する、
喪失感に苦しむ、
優越感や、自己満足感、ある種の楽しみや
快楽、やりがいや達成感、勝利感、今にいる感じ、相手を攻撃する罪悪の魅力、
やってやった感、
が得られなくなる、
それは重大な損失で、それがなくては、
自分は何か足りない、
欠乏感を感じるしかない、
別の道や可能性はない、
と信じている。
そこからだけ得られる、特別な満足感や
楽しみが実在していると。
この信念を手放さないのは、
無条件に自由で幸せであることへの、
抵抗なんだろうか。
そう言えば、
ゲームのデータに執着して、まだデータを
増やそうとする衝動は、
自分個人の人生が実在して、
その過去の体験や経歴がリアルで、
その経歴を増やしたり、
他者より優れたものにしたいという欲求と
同じだな。
これが手放されたら、やはり自由になるんだろう。