聖職者とアダルト雑誌
(記事の前半は、批判というか他者の自我の醜さをリアルにしたいという動機・欲求から書いています。)
数年前、Youtubeで、
ある日本人男性のキリスト教の牧師?神父?
の男性が
キリスト教に関係する映画を紹介する
動画があって、
映画なら面白そうだと思って、
見てみた。
すると、閑話休題で、
その男性が
「最近は減りましたけど、
コンビニの雑誌コーナーに、
アダルト雑誌が置いてありますよね。
あれ、迷惑ですよねー。
本当に嫌な気分になる。
早く、撤去して欲しいですよね。」
と、顔を歪めて、
さも迷惑そうに話した。
その態度に、わざとらしさ、
自己欺瞞の匂いを感じた。
もしアダルト雑誌に惹かれる気持ちがなければ、
アダルト雑誌がコンビニにあっても
平気なはずだし、
嫌悪感を感じるということは、
実は無意識に興味があるのだ。
興味が無ければ、ただ無視して、
何も感じないはずではないか?
でも、その神父の男性の気持ちは良くわかる。
コンビニの雑誌コーナーにあるアダルト雑誌、
独特の性的なオーラを放っていて、
ドギマギするというか、
確かに、
人の性的欲望に付け込もうみたいな
商魂たくましいズルさ、
に対して嫌悪感を
感じる(自分の性欲への罪悪感の投影、
責任転嫁)けど、
見てみたい気持ち、惹かれる気持ちもある。
惹かれている自分に、
恥、卑しさ、自己嫌悪、罪悪感もある。
「見たいけど、恥ずかしいし、罪悪感だし、
金かかるし、イカンイカン」
と、
欲求と抑圧の葛藤が起こるから、
緊張感を感じる。
この非常に苦しいストレス感情、
「強烈な欲求、恥、自己嫌悪、
罪悪感、抑圧、葛藤」
の精神力動が引き起こされるトリガーになる、
だから、
アダルト雑誌を撤去して欲しい気持ち、
聖職者だから、
間違えても性欲があるとは言えないし、
自分の中にある性欲への
圧倒的に強烈な自己嫌悪、劣等感、
恥や罪悪感を否認/投影して、
アダルト雑誌や、
風俗みたいな仕事で
働く人に嫌悪感や差別を向けたくなる
気持ちは、よくわかる。
男性聖職者はなおさらだろう。
しかし、正直、聖職者の男ってこうなのか、
ワプニック博士がさんざん、
「キリスト教は愛と赦しではなく、
憎悪の宗教に成り下がった」
と容赦なく徹底的に話していたわけが今、
よくわかった気持ちだ。
でも、これは自他の
自我の醜さをリアルにしているだけだ。
真の目的は、
「差別や攻撃を愛を求める声として見ること」
だし、
彼の真の自己の、
清廉無垢な愛という実相を、
教えて欲しいと祈りたい。
それこそが、キリスト教の本質なはずだし、
彼をどう見るかは、
自分をどう見るかに、
直結しているのだ。