痛み
前、祖母の家に親戚が集まった時、
祖母は自分について、
「豊かな家庭で育ったけぇ」
と言った。
つまり、
時代や家庭に甘やかされて育ったから、
働けない軟弱で弱い人間になった、
というニュアンスなんだけど、
これを祖母が言った時、
痛みを感じた。
祖母は他にも、
「男は泣いちゃいけん、
そんなんやからダメなんよ」
とも言ったけど、
その時も、
自分は強い痛みを感じた。
この痛みの感覚は、
状況のせいではなく、
自分の中にある無意識の罪悪感や信念が
原因なんだろうか?
祖母はこうやって痛みを感じさせる事ばかり言うので、
今は電話する気になれない。
自分からすると、
祖母の言葉や価値観は、
そのひとつひとつがガラスの破片のように
尖っていて、
自分の心に痛みを与えるもの、
としか感じられない。
コースの理論では、
祖母に痛みの原因や責任を転嫁して、
内側に痛みや罪悪感とか無価値感の
原因を認めることから目を背けている、
ことにはなるけども、、
まあ確かに、
自分の中に罪悪感とか無価値感とか劣等感がなければ、
祖母の言動に全く反応せずにはいられるか。
祖母の近くにいると、
祖母の言動に自分を痛ませるパワーがあるように感じるので、
自分はひどく弱く脆く感じる。
コースの理論でいう
傷つき得ない真の自己とは、
全く逆。
弱くて傷つきやすい、
惨めで痛みに満ちた人間。
確かに、自分に痛みを感じさせるトリガーは、
祖母のほかにもあるわけで、
祖母だけが原因ではないけど、
何か、
「祖母は原因ではない」
と考えるのも、
ありのままの体感とか現実感を無視して
とにかく正しい理論に合わせようとしているような感じもある。
アーテンとパーサは、
家族を失った悲しみはゆっくり時間をかけて癒せばいい、
つまり形而上学の理論を当てはめて
無理矢理に修正しようとしなくていい、
と言っていたけど、
それが当てはまるかもしれない。
何か、
傷ついた自分を、ただ優しく抱きしめてあげるようなアプローチのほうが、
「正しい理論を当てはめる」
より、逆にいいかもしれない。