地元民に地名を言っても知らないような土地で暮らすことに。田舎暮らしラプソディーその②
*茨城の人に地名を言っても知らないような田舎で暮らすことになりました。それゆえに、貴重な、言い換えると取り残された古さがすべて残っている土地でもありました。
そんな場所で、信じられないことに、同い年の同郷出身者が工芸家としてその村に住んでいたのです。共通の知人がいたりして、ありえない偶然が存在していました。ちなみにその方の住んでいた家は、私のところよりもう少し現代的ww
思いもよらない展開で東京→茨城の山奥へと引っ越すことになった今から30年前の人生備忘録。
「田舎暮らしラプソディー」は1992年の暮れから1996年に体験した30代前半の時の田舎暮らし経験を、2001年にあるミニコミ誌からインタビューを受けて記事になったものに追記して書いたものです。
最初は自分の頭に〝田舎暮らしってこういうもの” という、
雑誌などで得た色々と勝手な情報をくっつけ過ぎていたし、
お金をかければ雑誌並みの田舎暮らしになったんでしょうけれど、
お金もない状況で始まった田舎暮らしなので、そういうこともまったくわからなくて、
「なんでこんなに自分に合わないんだろう」と思いながら最初は暮らしていました。
それでも試行錯誤しながら、なんとか生活していこうと奮闘しているうち、今まで東京や札幌で会っていた人たちとはまったく違う人たちが、私たちの生活ぶりを見に面白がって訪ねてくるようになりました。
その中には別の地域で田舎暮らしをすでに何年もやっているような方もいて、そういう人たちと交流する中で、
「自然の中で暮らすってこういうことなのか」
と、少しづつわかるようになっていったのです。
家のまわりは本当に何もないところだったので、全部自分たちで工夫をしてその場所に合わせていかなくてはなりませんでした。
*一番驚いたのは、ゴミの収集がないこと
国立で先に田舎暮らしを決めていた友人から、日本はすごいと。
どんな田舎でもゴミの収集は最低限あると言われていたから油断していました。
だから本当にゴミの収集がないと知ったときはどんだけ田舎なの!?と驚愕しました。
車が家の前まで乗り付けられないから、
途中で車を乗り捨てて玄関まで歩かないといけない。
ということは、トイレの汲み取りも来ない。
全部自分たちの手で、生活したものを後始末しなくてはいけない暮らしでした。
私たちが入った家は、本当にもうまるで私たちを試すみたいな家で、
ここで続くのかなぁと思うような、陽の当たらない潰れかけた家。
逆に、昔のものがそのまま残ってもいました。
囲炉裏が切ってあったり、かまどもそのまま。
はじめはかまども知らなくて「それなんですか?」っておばあちゃんに聞くと
「かまどだよ。ついこの間まで使っていたんだよ」って。
驚きました。
それまでの私たちのように都会で普通の生活をしているのと同時進行で、こういう田舎で昔の生活をしている人がいたのね・・・と。
そういうのを初めて間近かで見て、ちょっとショックでした。
*自主保育が国立に残っていたことが奇跡。
一橋大学の敷地が自主保育の定番の遊び場で、子供たちが飽きるまでそこで自由に遊ばせるというスタイルです。
東京で子供が生まれたとき、
何を食べさせたらいいのかわからなくて「生活クラブ」に入っていました。
そこでは食べる物は自分たちが考えている以上に
大事にしなくてはいけないと気づくきっかけになりました。
また、国立では幼稚園に子供を行かせない母親のグループに入っていて自主保育をしていました。
国立は一般的に教育意識が非常に高いところだったので(1990年頃の話ね)、
あえて幼稚園に行かせないで子供たちを小学校に上がらせるのはとても勇気がいることだったのです。
その中で活動しているお母さんたちはその先をいく、もっと意識が高い人たちでした。
そこにいて私も環境のこと、食のことなど、
要するに子育てを通して見えてくるもの、
そういうオルタナティブで自然に近い感覚の素地だけはできたようです。
田舎に入って、それが具体的に自分の前に事実として現れてきて、
いろんなことを考えさせられて、
なおかつ行動していかなくてはなりませんでした。