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カイリキーは身体障害か


ーーーーー<自己紹介>ーーーーー


25歳、社会人3年目。


岐阜県在住、ミニマリスト。


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昼休みのデスク。

タブレット端末の画面に映し出されているのは、生まれつき四肢が無い乙武氏だ。

「身体障害とは何か」

彼は小中学生を相手に、この問いを投げかけた。

「僕のように四肢が無いのは障害?」
「じゃあ片腕が無かったら?」
「じゃあ指が1本なかったら?」

僕たちは「機能的観点」から障害を評価することが多い。

そんななか、面白い回答をする学生がいた。
四肢が無いのはもちろん、片腕がないと機能的に不便だから障害だ。
でも、指が1本なくてもそんなに不便じゃない(困らない)から障害じゃない。
という理論だ。

確かに、男の人に乳首は必要ないと聞いたことがあるし、実際になくても人体機能には何ら影響を与えないだろう。きっとそれがなくても、僕は困らない。このことを踏まえれば、僕もそれを「障害」とは認識しないと思う。

乙武氏は続ける。
「じゃあ、腕が4本あったら、それは障害?」

機能的には、腕が4本あった方が、便利だ。ポケモンで言えばカイリキーだ。
しかし、学生からはこんな意見も挙がる。
「腕が4本あると、周りの人とは違うから、非難されたり、いじめられたりする。」

この学生は、「周りとは違うこと」を障害だと捉えているらしい。
おそらくそれは「異端」であるということ。
身長が1mに満たない人も、身長が3m超の人も、彼の認識に則れば紛れもなく「障害」である。
きっと行政の判断基準もこれに近しい。腕が4本ある人も、身長が3mある人も、障害者手帳が発行されるだろう。

ところで同動画には、2ちゃんねる創設者の西村博之氏も出演していた。
乙武氏はひろゆき氏に訊く。「僕みたいに四肢が無いことは障害ですか?」
ひろゆき氏は答える。「初めからそうだから障害だとは思わない。」
彼は、後天的な「機能喪失」は障害であるが、先天的な「機能不全」は障害と認識しないのである。
つまり、「できていたこと」が「できなくなった」瞬間に障害と判断するのである。

このように、障害についての認識は実に様々であることが分かる。

僕にとって、障害とは何だろう。
昨今の社会では「生きにくい原因」をとりあえず障害のカテゴリに分類することがトレンドと思う。
落ち込みやすかったり、気にしすぎたり、忘れっぽかったり。従来からあったはずのこの状態は、HSP、ADHD、発達障害とカテゴライズされる時代である。
学生時代を思い出すと、よく教科書を忘れる人もいたし、些細なことで泣いてしまう人もいた。
僕が生きた時代では、彼らは障害とは評価されず、許されていた。
では今はどうか。
きっと彼らは何かしらの障害の方向に分類されるだろう。

僕はこう思う。
「障害のハードルが低くなった」
言い換えると、周りにいる人の目が厳しくなった。
今まで許されていたことが、許されなくなった。
飲酒運転と同じ改正が行われたのだ。一体彼ら学生が誰に迷惑をかけたと言うのか。
彼らの迷惑を拾い出すのは、いつも決まって大人だ。学生間では、そんなこと誰も気にしていない。
いつだって、先生や保護者がその芽を摘みにかかっている。
大人たちは、他の学生と違うことにマイナスの評価を下しているのだろう。
結局、当事者を支えて調和を図る立場であるべき「大人」の都合に巻きこまれたに過ぎない。

障害とは常に誰かが下す裁きであり、その境界線が曖昧になっているのだろう。
大人たちは、あらゆることが面倒になったのだろう。
生活に利便性を求めた結果、便利でないものは不要という概念が生まれ、悲しいことに、それが人間に対しても向けられるようになった。人間に利便性を求め出したのである。
そして何よりも、きっと大人たちはこのことに気づいていない。
大人たちの気持ちも分からないわけではない。不便さに不便のレッテルを貼った方が、楽だから。周りの大人たちに言い訳ができるから。

お気づきだろうか。主語も目的語も、すべて「大人」である。
「本人」は登場人物になり得ない。

乙武氏は生まれながらに四肢がなかった。彼の母は、そんな彼をはじめて見たとき「なんて可愛い子なの」と言ったそうだ。誰が見たって障害者である彼に、母はそんな言葉をかけ続けた。

その結果どうなったか。

乙武氏は「四肢がないことで、不便なことは多くあったが、なに不自由なく生きてきた」と語っている。彼はいつも自己肯定感に満ちている。誰よりも大きなハンディキャップを背負って生まれたにも関わらず、だ。

「障害とはなにか」

優しい社会が訪れる日が来るといい。

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