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「水府の三門」◆道しるべ◆⑤

『雨宮又右衛門という男』

水戸藩医に実父と実兄を持つ
次男であったためか、雨宮家の養子となる
「雨宮瑞亭」「西澤散人」の雅号を用いる
寛政三年
雨宮又右衛門(三十三歳)
水戸藩領常陸松岡郡郡奉行就任
同年水戸藩
尸罪決定後ー自死・牢死により死せる者
塩漬にした後、刑場引き出し、尸体といえど
定めにのっとり処刑の後、晒す等
見せしめの刑を廃止した
これより三年づつ
雨宮又右衛門は松岡郡・南郡・太田郡で郡奉行を歴任することとなる
空白の二年間を除いてー
そして四十四歳で太田郡奉行を退いた後の経歴は不明
その後三十余年
亡くなる年に『常陸三群地志』を短期間で書き上げている
雨宮か雨森か疑わしき筆跡が見られるが、実兄の原南陽が、又右衛門の自著を所蔵していたことと、確かな記録がないため不明

つまり『美ち艸』を書き残したということである




******


あーあ

嫌んなるわ

あらいけない

嫌になる、でございますわ

ううん

いやんだとか、いやに、とかそんな問題じゃないわ


又右衛門さま


大麦あたれ

小麦あたれ

三角畑のそば

あたれ

膨らんだ藁の先を地面で叩く棒と子どもの歌う声がする

十番目の月の十番目の夜

神様いない地獄沢

だから鬼より恐い夜叉たちがやってくる

神様出雲に行っていて

留守番鬼も沢にはいない

だって朝から晩まで食って寝て

膨れた腹が穴に引っかかる

神様いない神無月

だから夜叉たちやってくる

鬼さん神様叱られて

それから棒でずぅっと叩かれて

畑にまかれて花が咲く

神様いない神無月

神様より偉いは日光が

恐いものなんかないからさ

神様いない神無月

袋小路のむじなあな・・


“雨宮いばら”はずっとそこに立ち尽くしていた

なんてだだっぴろい・・

いえ、広大なの・・

ここで、そんなことが起きたなんて・・

風が頬を抜けていって、氷のように冷たいと思った

いばらの涙に風が触れて、一瞬で凍ったのだ

だがそれはまた一瞬で、溶けた

いばらの熱い正義感と、乙女の若い躍動する血液のために

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『雨宮又右衛門太田郡奉行』

雨宮又右衛門という男

二百余年水戸藩に隠蔽されてきたという

『生瀬騒動』

その間、常陸の人・儒学を修めた者が三人

小宮山楓軒の筆起を端に、同儒学者の岡野庄五(1795-1820)・高倉逸斎(1750-1831)が生瀬村を訪れ、調査に当たっている
調査の年は文化四年(1807)

(注)又右衛門の太田郡奉行任期明けは(1802)この時(44歳)

生瀬騒動は起きた年がはっきりしていない

①慶長十四年己酉(つちのとり)

②元和三年丁巳(ひのとみ)

③元和七年辛酉(かのとり)

④慶長七年壬寅(みずのえのとら)

これらの説がある

④の説については騒動後に前庄屋の後釜についた庄屋の邸に伝わる由緒書きによるものであり、後庄屋の体裁を考えた便宜上とも見れる

「酉ノ年之事」とは生瀬村に伝わる事で、酉ノ年で見れば、慶長十四年か元和七年かになる
酉と寅とで記載間違いておれば、後庄屋の慶長七年壬寅説が立つ

しかし高倉逸斎は慶長十四年説を採用している

それよりも以前に、太田郡奉行時代の又右衛門は村々への巡視を持って、慶長十四年(1609)の出来事と確信を得て記録していたということになる

それが『美ち艸』である



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