「モルグ」①
玄関のドアを開けながら
「姉さ~ん?」
と、奥を窺おうとした
濃い茶色の廊下が見える
左手にある棚が死角になっていて、もっとドアを押さないと声が聞こえないかも知れない
「きゃっ!」
なにか水色の小さいものが、太ももにぶつかってきて、わたしはドアノブをつかんだまま後ろに弾かれた
「なに・・?今の」
開いたドアの脇に立って水色のものを目で追ってみると、それは子どもだった
「女の子?・・。親戚の子かしら」
でもあんな小さい子がひとりで危ないわね、そう思ってすぐに追いかけた
道路がすぐ目の前だ
車が通らなかったのが不思議なくらい
それにしてもすばしっこい
黄色いプラスチックの車みたいなものを、長い取っ手で押しながら、ガラゴロ走って行く
水色のワンピースなのかしら、まだオムツしてる
スカートのおしりからオムツ出してパタパタ走ってる
内股気味に可愛いな、そう思った
子どもが苦手になって、何年だろう
未婚を咎められるように、口うるさく親類縁者から言われるうちに、人の子どもにまで遠慮するようになった
お姉さんはね、ではなく、おばさんはね、って腫れ物に触るみたいに、友人の子にまでびくびくしていた
「やめてよー、まだ30前じゃない。あたしまでおばさんじゃないのよ」
友人はすでに二人産んでいる
数年前会った時などは
「やだ、そんな地味な恰好して。ひっつめ髪なんて、ほんとおばさん」
そう言いながら細身のジーンズを履きこなしている小夜子に、明らかに機嫌が悪そうだった
「結婚してないから若く見えんのよ。子ども産んでいないから若く見えても、ただのおばさん。子ども産んだらみんなおばさんだけどね、子どもいる、いないとじゃ苦労が全然違うの。あんたは気持ちが負けてんの。だから陰気なのよ、結婚出来ないの」
小夜子は子どもを産んでいないのに、自分もおばさんなんだな、と思ったが、言葉の端々に友人の嫉妬と蔑みを感じた
夫と子どもと仕事があって家があって
子どもを面倒見てくれる親も舅もいて
小夜子に小言を言いたくなるわけか
小夜子の何かと比較したとしても、言うべきことだろうか
友人とは、このようなことを言うべき存在なのだろうか
結果、友人には小夜子は要らないもの
小夜子も自分は友人に不要と判断して、ずっと疎遠である
小夜子は戸惑いながら、水色のワンピースの子どもを追いかけた
小さなピンク色の、穴のあいたクロッグシューズを履いている
それが黄色のオモチャの車につまずいて、取っ手を片手でつかんだまま、転びそうになった
小夜子は後ろから両脇に手を入れて抱き起こした
なんて平たくてつぶれそうな体なんだろう
「だいじょうぶ?川井さんのところの、親戚のおじょうちゃんなの?水穂子さん、わかる?わたしのおねえさんなの」
キョトンとしている
抱っこはもう、卒業しているのかしら
あ、知らない人にいきなり抱っこされたら
固まるわね
「あっあ!」
黄色いオモチャの車を指差して、どうしてくれるんだ、みたいな感じで声を出した
まだしゃべれない年頃なんだ
「危ないよ。ひとりで道に飛び出しちゃ」
それにしても誰も心配して、探しに来ない
姉さん、いないのかしら
「おねえちゃんね、水穂子さんにごようじがあるの。おうち、帰ろうか」
手を繋いで歩こうとした
「え?車に乗るの?」
もう黄色い車に乗っかってご機嫌だ
すんごく押しづらいんですけど
小夜子は苦笑いしながら、腰をかがめて、マキシスカートをがに股みたいにして、子どもと車を押して歩いた
いちいち車に乗りながら、自分では乗っても進まない車を、自分の足でもふんばって押している
そのうち抱っこをせがまれて、小夜子は片手に黄色い車をぶら下げて、川井家の前にたどり着いた
パタパタと子どもが、家の中に上がって行く
どうしよう、上がろうか
生まれ育った実家だけれど・・
お義兄さんもいないようだし・・
気まずくて後ろを見たら、姉が道路を越えて柵の手前にいた
「あ、姉さん」
「小夜ちゃん、あんたどうして」
「お盆だから、父さんと母さんにお線香あげよう思って」
「あ、あ、小さな子見なかった?水色の服着た子・・」
「ああ、いたわよ。ちょうどここに来た時、玄関の外に行ってしまって・・追いかけて連れて来たわ。いま、家の中に入って行ったわよ」
「ああ、そう。そう、ああ、良かった・・」
姉の水穂子は柵につかまりながら、頭を押さえてため息をついた
「姉さん・・?あの子だあれ?姉さん?」
消耗しきって柵に寄りかかっている姉を見て、小夜子は不安になった
「良かった。あんたが来てくれて・・。さあ、中に入って」
「あ、うん。お邪魔しま~す」
「ただいま、でいいのに。いらっしゃい、よく来たわね」
「あ、これ。ちょっと庭に置いて来るわね」
小夜子は黄色い車を、居間のベランダに繋がっている庭に置くために、後ろに回ろうとした
グシャ、という音と、左足に嫌な予感を感じた
そしてまたたく間に立ち上る腐臭
「いやっ!なにこれ!」
思わず小夜子は叫んでしまった
玄関から少し段差になった、柵と小さな花壇の間の小径に郵便受けがあるのだ
気がつかずに踏んでしまったらしい
鳥の卵だった
どうしてこんなところに・
まるで誰かがわざと置いたかのように、郵便受けの下に・・
だから塀に備え付けのポストでもいいって言ったのに、手紙やお知らせを入れるふりして敷地に入っていたずらされたら、元も子もないじゃないの
ああ、それにしても気持ちの悪い
小夜子は吐き気と眩暈を起こしそうだった
なんなの・・これ
小夜子が踏み砕いた鳥の卵は孵化しかけていた
その途中で何らかの原因で成長が止まり
雛にはなれなかったのだ
羽が・・内側からへばりついていた
どす黒い臭い汁が溢れていた
もう死んでいた
なのに小夜子の足の裏には確かな、生々しい感触が残された
小夜子の細胞が記憶してしまったそれは、現像としてこの先も、小夜子の肉体を支配する
(大丈夫よ、小夜ちゃん。姉さん、お塩で清めておいたから)
水穂子の声が聞こえて来るようだった
「姉さん、いつだってあの人は・・」
損な役回りを担う
穢れを祓う存在は、いつだって
今度のあの子のことも、きっと何かあるにちがいない
小夜子は悪いと思いながら、庭の草に靴の裏を擦り付けて、腐った汁を何度もぬぐった
手にぶら下げた
黄色いゾウのオモチャの車は
シールの剥がれた無感動な目で、どこかを見ていた
上海玉子
よくうでておくれよ
上海玉子
むかし歌っているのをどこかで聞いた
割ったら悪夢を見るってわかっていた