「陽炎の人」
薄暗い列車の中で、女は席に腰を下ろすとすぐさま、本を取り出し読みふけった
まだ発車時間に間がある
この駅は始発運転だ
稼働音を感じる
そろそろ発車時刻が近づいているのだろう
ふと顔を上げた
そして何気なく窓の外を見た
黒い人影がいた
煙草を吸っているようだった
目が合った
女はけっこう長らく、その人影を見ていたにちがいない
まるで自分が『見られていた』ような気がした
冷静さを欠いていたら、他から見たら自意識過剰だろう
ふと顔を上げて振り返って見たら、視線が合った
これまでも幾度かあった
振り返ったら相手が視線を落としたので、ああ自分は見られていたのかも
そう気づくのだった
見られている気がする、や
無性に気になって、ではない
あくまで、ふと顔を上げたら
何気なく振り返ったら、目が合ったに過ぎない
こちらを見ている人が放つ『気配』など感じたわけではない
本当に『ふと顔を上げて振り返ったら』が、しっくりする
列車の中は薄暗いが、始発と行ってもここは駅である
そのホームに立つ人が黒く見えるほど、照明が真っ暗なわけではない
だから女の目を引いたのだろう
いったいどんな人なのだろう
黒いコート?
あまりに全体が黒過ぎてわからない
着物に長コートだと思う
肩についているであろう肩当てが、蝙蝠を連想させた
体格はあまりガッチリはしていない
若いのだろうが、そんなに中年ともいえない雰囲気がある
服装は若者のするようないでだちではないが、華がある
髪型のせいか
撫で付けた髪型でも若い人はいる
中年で蓬髪みたいな人もいる
佇まいが労働者の感じがしないのは、生まれついてのブルジョアなのかも知れない
とにかくもその真っ黒な人物は、煙草を燻らせていた
体の向きから、女を見ているように見えた
一番近くの窓際に座る乗客が女で、乗車の間合いを窺っているに過ぎないのだろう
それにしても、その吸った煙草の殻はどこに捨てるつもりなのだろう
柱の脇に煙草の吸殻入れなど置いてあるのかしら
気になることがあっては読書も集中出来ない
こうして座ったことだし、弁当でも膝の上に広げて食べようか
胡麻をまぶした梅干し入りの握り飯
たくあん
昆布の佃煮
同じものがあとふたつ
長い道のり
半分ほど食べて、ふとまた顔を上げる
まだ列車は出ないのかしら?
反射的にまた窓の外を見る
忘れていたが、あすこには男がいた
真っ黒い影の男が煙草を吸っていた
男はいなかった
煙草とともに消えていた
幻だと思っただろう
立っていたその場所に、赤い何かが落ちていなければ
ガタリ
膝から弁当を落としそうになる
慌てて柱に駆け寄り、そのひとひらを拾い上げた
赤い椿
瞬間、郷里の椿の庭木を思い出す
大晦日の頃、幾らか蕾を持っていた
風の中で晒されながら
寒い中花開いて
今はもう萎れているにちがいない
はッとして席に乗り込む
デッキに足をかけるとベルが鳴り出した
席に腰をおろすと、まじまじとそれを見た
傷ひとつない美しい花びら
花粉をしっとり纏わせた黄色の雌しべ
どちらもはッと息をのみ
魅入るほど可憐だった
なにか包めるもの
柔らかな衣はしでも
ガーゼのハンケチを思いだし、荷物を探る
列車が動き出したことも、たいして気にとめなかった
はッと思った時には幾つかの柱を過ぎ、列車は駅を出ようとしていた
黒い影を探したがわからなかった
きっとあの奥のほうの柱の陰にいて見ていたとしても、全ての意図を理解できない
諦めて座り直した
膨らんだハンケチを開いて見る
赤い椿の花があるという事実
女は着物の下に隠された
赤い下履きをふと思い出した
外は凍った風と土の世界
冷たい体と心だけれど
その下を流れる赤い地脈は温かい
きっと自分が思っているほどぬるくはない
それは恐ろしく
感動すらする
熱い血なのだと思った
また黒い闇の中に
赤が溶けていることを実感するのだった
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