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「キタノマキア」

激しい雨と、それよりも荒ぶっていた風は、すべてをなぎ倒し、ひれ伏させて、嘘のように晴れ上がった空は、一日一日春に近づいている予感を抱かさせた

赤い頭巾とよだれ掛けを一新した、肩負い親子地蔵の居るカーブの後ろに、まだ雨に濡れて変色した黒い祈念石碑が一段高く見える
湖畔を思わせるダム水を覆うように、三連の山並みが品の良い冬木枯の色味になっていた
その木立ちから蒸気が湧いて、切り取ったかのようにダム湖の上に静止して見えた

親子地蔵と黒い石、背後から湧き出る白い靄と木々

目を奪われる真昼の幻想風景

逃げて来た

あの町にいることが耐えられずに
もしかしたら湯の町なら紛れ込み易いのではないかと思って
少しの聞きかじりと、少しの土地勘
町は白茶けた印象で、方向感覚を麻痺させ
初めて来た日以上に私を混乱させた
道ゆく人の目すべてが冷たく、一日二日の旅行者が本物の余所者となって、町に侵入して来た事をいち早く察しているようだった

即座に、ああここもダメだ、ここでもない…

すれ違いざま
背後から…
繰り出される咳払いに、値踏みなどと甘いものではなく、何かやったのだろう、普通じゃないのだろう、そんな一瞬睨み上げる眼つきにいたたまれなくなった

本当は黙ってどこかの町に移り住み
坂があって
小さな遊具のある小さなベンチと見晴らし台
公園の近くにこぢんまりとしたアパートでもあれば
子どもを産んでひっそりと、静かにははこで暮らせないかと思っていた
持ち出した金で数年は、小学生で言い聞かせられる歳になるくらいまで、働かずともそばにいて慎ましく暮らせるだろうと思っていた

町を出なければ
安全にこの子を産めないと思い込んでいた
そして産んで数年経った頃
あの人に会うことも叶うのではないかと思って…

夢は夢のままで終わった
激しい痛みと悲しみと絶望と裏切りだけを
体に残したまま
鋭く長い爪で肉体を抉られ
爪痕から絶えず血が吹き出していた
それでも虚ろでいられる時はむしろ幸せだった
それが正気だと言えるのか、くっきりとすべてを鮮明に思い出して、狂いそうなくらいの絶望と怒りにのたうち回る刻が、発作のように突然襲いかかる

なぜ、傷つき
貶められる者は北へと逃げるのか…
なぜ、悪者はお前だとでも言うか

キィキィと
足が近過ぎてこごめるように膝を寄せて
ブランコを漕ぐ
足で地面を何回かズリズリ行ったり来たりして
助走をつけたりして両足を浮かして
やがてガックンと後ろに跳ね上がるように
わたしは宙に出る
どうしてブランコを漕ぐって言うのだろう
思い切り首を後ろに折る
無表情な顔の女の顔はなぜか娘の頃に戻っている

シーソーが見える

ギッコンバッタンとか
ギッタンバッタンとか
呼んでいた

一人では遊ぶことが出来ない遊具
シーソー

夕飯は鍋にしようと思った
独りでいると食事を作るのは面倒だし
張り合いもなければ虚しい
だからと言って買い食いばかりは、なおさら虚しい
慎ましく暮らすはずだったのに
出産費用も育児費用も生活費も
もう残して置く意味も理由もないような
あの人への当てつけのような自棄がおこり、何を買って遣ったのか思い出せないような散財をしていた

そのうち
人肌を感じられるような
ホカホカ弁当や
熱いお湯を注ぐだけのカップ麺
コンビニのファストフードを食べていたのが
これではいけない
飽きは当然来るし、お米を炊いてカレーが食べたい
などと、だんだんと台所に立てるようになった
お米を炊くことから
最初は卵かけ
納豆、ふりかけだけ
炊きたての
温かい
湯気を見ていて涙ぐむ
母から母に
母から子に
伝わってゆくもの

寝付けない夜
真夜中にまで食べ続けても足りない夜がある
お腹の中にいた頃
物を欲するような子ではなかった
私もまた栄養も睡眠も足りないでいたのが悪かったのだろうか
食べて詰め込んでも
満たされることはなかった
どんな理由であれ
私が食べたいと欲している
長い空洞のような私の腹が食べ物を欲している
消えた私の夢の残存か
私の中に確かにいたという証しを
私が忘れたくないだけなのか
なぜか手付かずで収納扉の奥に残っていたココアドーナツは、すでに5個消えていた
残り1つを食べた後、私は1本だけ残っている魚肉ソーセージを食べるに違いない
その後は?
飽きるだけ海苔を食いちぎるだろう

細胞は記憶する
かつて私の中で起こった出来事を
そうしていつしか自分でも正確な日付を覚えていないにかかわらず
不調を来たす季節がどんどん増えて行った
辛い経験をした記憶は薄らいでも
体は覚えていて忘れるなと警鐘を鳴らして来る

今さら消えたこの子が
今も私に期待など…

坂道をのろのろと上がる
逆道
とも書く
個人宅の先祖の墓なのだろう
群接した古い墓石の上に降りそそぐように
墓の上に桜の木と、墓の一段下には枝垂れ桜が咲いていた
花弁自体は小さいようだが、枝ぶりが広く伸びていてみっしりと込み合って咲いている
桜の花の天蓋
先祖を思う深い念

私は途切れた私の道筋、血の道筋に仄かに昏く灯が灯るのを見た

アパートは坂の上にあり
高台の見晴らしには桜の並木が多い
窓から桜が見える
部屋から花見が出来るこの事が一番の贅沢で幸せかも知れない

ふたむかし、みつむかしくらいは
親元を離れ、一人暮らしをして
裁縫学校へ通ったり、ささやかな事務職などをして
花嫁修業などしたりして、穏やかに毎日を過ごす女性がいたりしたのだろうか
出窓の隙間から風にそよぐ薄いカーテン
白い小さなテーブルに足を崩して坐り
お洒落な流行りの雑誌をめくるのどかな時間
紅茶を飲むためのセンスの良いカップ
化粧台やテーブルの上に敷くコースターや
小物などを編む篭が置いてある
蜜柑を入れたり、鍵を置いたり、木製の篭がやたらと目を引く女の部屋

そうして数年経てば
結婚するためだけのために
束の間を花が咲いたような甘く華やいだ空間の中で守られていたかのように
嫁いでゆく

年頃の装い
年頃の遊び
年頃の楽しみ
何の傷も曇りもなく
あったとしても
人が納得するような成功を約束されたような結婚が出来る娘たち
それが一番普通で当たり前で自然の理

絶え間なく出るシャワーの下で目を押さえ
うずくまりながら浴び続けて泣いた

桜は儚くも散るから美しいのか
桜は満開で匂うように美しいのか
蕾であっても可憐だから美しいのか

誰にもわからない
理解されない私の陰
私にぴったりと重なってついてくる
私だけど私ではない私の影
誰ともいたくない
誰ともいられない
私の陰と影と闇と
きっといたほうが楽なのに

河原で石を積んでいたのに
えげつない鬼が来て
石を踏み壊す
私にはちっともえげつない鬼ではない
火の点いた線香で突付いて
下卑た笑い顔の嫌らしい人らのほうが
石を踏み荒らして邪魔をする
お地蔵様が来て助けてくれるというのなら
ずっと河原で石を積んでいてもいいの

面影の松の
想い松の下に
小さな舟に乗ったお地蔵様の影形

私はダメなのですか

道端でいろんな動物が死んでいる

どうかここまで連れて行くから
どうかお地蔵様、この子が良いところに逝けますように
どうかお迎えに来て下さいと願うけれど

本当に本当に、お地蔵様、迎えに来て欲しい子どもは私です

舟を漕ぐ
ブランコを漕ぐ

どちらも魂は宙を漕いでいる

ブランコは静寂の中でじっと静止している

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