「水府の三門」◆道しるべ◆⑦
『白鬼王』
名を呼ばれているような気がして
しばし、暗闇に耳を澄ます
虫すら眠る静か夜
横たわる又右衛門は、弧を描くように低く、蒼い閃光を放つ輪を視ていた
その足首から湧き出でるような、力強い煌めき
白き鼻じろに灰色と黄の立て筋
輝く白い・・狼か
蒼き双眼が、来る
狼は姿を消して久しいと聞く
里川はかつて狼の被害に村人たちは困り果てていた
太田と袋谷の間、平たく荒れた藪すこの道
果てなく
狼の成仏と供養を引き受け、はじめ行基上人が
その後信仰心を忘れた村人たちのもとへ、再び狼が襲う
狼たちの群れに修験者・祐観の三鈷杵が空を切り裂く
三鈷の碑の脇に、祐観は死して完全に狼を封じて眠る
里川は三鈷室、妙見山が近く山岳信仰が盛んであった
祐観は妙見菩薩を祀ることが、狼から里川を護れると説いた
妙見菩薩ーすなわち不動の星北斗七星
山にある者は彼の星を目印に、道をゆく
王の中の王
北辰の星は正眼の王
その頭上から尾ノ先までも蒼く点々と光る
敵を退け
ぬしの寿命、書き換えたり
はッとして又右衛門は目を覚ました
( 今のは夢か・・)
うたた寝をしてしまったらしい
いや、仮眠じゃ
又右衛門は襟元を正すと、まっすぐに目を凝らした
ぼんのりとした提灯の明かりが見える
五十・・六十か・・
数えているうちに五十の前に落として分からなくなる
まっすぐ見えるは多聞の山
非人小屋の奥向こう、洞ノ中で水晶が見つかった
その頃常陸松岡藩から、安良川組が編成されており、水晶窟は藩の管理下に置かれた
安良川の陣屋から、又右衛門が多聞山を窺うここ、安良川八幡までは四半刻(30分)かからないだろう
暗い夜でなければ今でいえば10分ほどか
今の夢ー
八幡の一宮の入り口に稲荷がある
又右衛門が寝転げていた場所がもし、この稲荷狛の二対の脇でなければ、ますます狐に化かされていると思うであろう
しかしこの稲荷狛においては、前を向けば当然
左右別れて道戻っても、なだらかに曲がる頃、かならず目の端に映り込む
石の高鳥居をくぐり坂を行けば、本殿の右のさらに奥に、爺杉と呼ばれる神木がある
男の子を授かれば連れて参り、手を幹に当て御利益を賜わう
さて杉の頭の間から多聞の山を見る
多聞の山からもしめ縄の松の辺りに、十五、六の提灯の明かりが、ぼんのり映るという
それは水晶や石英の人夫の中に紛れ込ませた、又右衛門の配下の者たちの報告にもあった
ここ安良川八幡側にも、向こう側につなぎを取るための、連絡網があるのかも知れないと、又右衛門は今宵も潜むのだが、それらしき不審者には出会わぬ
これらの提灯の明かりは、村人によれば『狐の嫁入り』『狐の祝言』と呼ばれている
近づくと消えてしまう、夢のようだというので『あやかし』と恐れられている
現に滝不動に上がる坂では生暖かい風が吹いて来て、狐に化かされた者は崖下の川へ落ちたりして死んだ
ひょうたんのくびれのような坂が続くと、夜、人々は方向感覚を違えたのだろう
実際は田んぼの土に豊富に含まれたリンが、雨の降る二、三日前に化学反応して提灯の明かりのように見えると、今ではかんがえられている
そのように『あやかし』を利用した悪どい者が、水晶の横流しを始めたという噂を又右衛門はつかんだのだった
水晶は海路を使って船で運ばれ、さらに川上へ小舟で運ばれることもあるようだ
又右衛門には事の真実を明らかにし、事の成り行きを正す使命があると思っている
ぼんのりとした提灯の明かりの最後の一つが
消えた
風穴にすべて奴等が入りきったのだ
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さかのぼること、小生瀬村外れにて
いばらは龍の子の斬られた腕が安置されているという誕生寺に向かう
むじなっぱ打ちの棒で歌を歌っていた子どもら数人に聞いた話であった
八身に引きちぎられた龍の体はそれぞれ、八つの山に眠る
それが八龍山伝説だという
時間が惜しいので、ちょっと覗くだけ
いばらはそう思っていた
いい加減、さっさと早く又右衛門に会いたかったのだ
先を急ぐわりに、いばらは左の空を見たり、右の空を見たり、後ろを見回したり
そのうち川原に続くのか一段下がった辺りに大きな日除けの木があって、その脇下に向かって道が広がっているのだった
すれ違う時、木の根コブの上に手枕で横たわる女がいた
木の傘の陰が脂汗をかく女を、いっそう重病人に見せていた
さッと駆け寄るいばら
「まあ!もし、あなた。大丈夫ですの!?」
いばらは、はッとした
苦しくてかきむしったのか、乳房がこぼれそうに、襟元が大きくはだけている
そのすぐ下には帯が丸々とせり上がっていた
「あなた、ねえ、大丈夫?赤ちゃんがいるのね!生まれそうなの!?」
いばらの顔が、きりッと引き締まった
「わたくし産婆よ!しっかりなさってね!大丈夫だから!」
女は微かに反応する
(大丈夫ね!)
これが雨宮いばらと遊女・真那雪との出逢いであった