「モルグ」②
「えっ!男の子なの!?スカート履いてるし、顔が可愛いからてっきり女の子だと思っていたわよ」
小夜子はチーズケーキを食べる手をとめて、目を見開いて驚いた
姉の水穂子は隣でケチャップスパゲティを頬張る、あの水色のスカートの子どもの口もとの汚れを拭いてやると、新しいサイフォンの珈琲を小夜子に注いでくれた
「この水色のスカート、ロングTシャツなのですって。オムツ蒸れるからいいかな、と思って着せていたのよ。雑貨屋あるでしょ『三角巾』。この子、髪を切るの嫌がって切らせてくれないのよ。あそこでパッチン留め買って、前髪上げてやったらね、すっかりハマってしまったみたいなの。女装に」
女装に、のところは小声で言うと、水穂子は前髪のピンを直してやる仕草をした
「姉さんたら、変な癖つくよ。でもまだ『三角巾』やってるんだ。懐かしいなあ。あそこでおもちゃの髪留め見ると、つい買いたくなっちゃうのよね。後で私、連れて行くわ」
「『三角巾』の帰りに『怒涛留』で買って来たのよ、このベイクドチーズケーキ。あんたが食べていた頃より美味しいでしょう?」
「え~、これ『怒涛留』のなの!?中がしっとり半生じゃない!しかも生クリーム入ってるでしょ?『怒涛留の旦那さん』アメリカの人だっけ?イギリス?とにかく英語圏の人だったよね。東京で修行してやっぱり日本で、日本の奥さんもらってお店出して、地域に溶け込んでって理想よね。奥さんが店付きの看板娘なんて最高でしょうよ」
「ずいぶんお店の規模も大きくなったわ。おうちも新築したし。イートインもあるしね」
「波乱怒涛の人生もセンスがあるからなのね」
我ながら変なうんちくだったな、と思った
水穂子もそう思ったらしく、相づちもしない
ちらっと小夜子を見てすぐに、水穂子は目が離せないと言った顔をした
子どもの世話に余念がなさそうだ
それにしても姉さんたら、ケチャップスパゲティだなんて味が濃いもの、まだオムツ取れない子に食べさせたりして。大丈夫なのかしら
「ねぇ、お名前はなんていうの?わたし、さ・よ・こっていうのよ。よろしくね」
前のめりに覗きこむように聞いてみた
子どもは、ケチャップスパゲティを噛み砕くのに夢中で、小夜子のことは興味がないのか、知らない人できょとんとしているのか、黒目がちの目でどこか遠くを見ている
「敦彦だけど、敦子ちゃんよね。わたし、あーちゃんですよって」
水穂子はいない、いないばあ!みたいにおどけて子どもに聞いた
まったく・・
「じゃあ、あーちゃん。後でおねえちゃんと『三角巾』に行こうね」
「泊まって行けるの、小夜子」
「いいわよ、泊まって行っても。泊まっていいのかなあ?それにしても、お義兄さんはどうしたのよ。お義兄さんの親戚の子なんでしょ?お母さんはどうしたのよ。お父さんは。こんな小さい子どもを、姉さんに預けっぱなしなんて心配じゃないのかしらね。危なっかしい」
「小夜子、なによその言い草は。失礼ねぇ。姉さん怒るわよ。公雄さんは、洗濯物交換に帰って来るわ。しばらくあちらのお家に寝泊まりするの。親族会議するっていうのよ。なんでも揉めているそうよ。こんな小さい子に、あんまりだわ。産まれてからが本当に大変なのよ」
「姉さんも人がいいんだから。大方、子どもが子どもを産んだんでしょ?」
顔を下向けたまま、少し水穂子は眉をひそめたようだった
手放しで歓迎された、祝福された出産ではなかったようだ
敦彦を連れて外に出ようとしたところで、義兄が帰って来た
すぐに、洗濯物を交換して戻ると言ったのを、散歩に行きますからごゆっくり、と言って外に出た
敦彦は小夜子に手を引かれて、地面を見ながらトコトコ歩く
途中かがんで小さな石をつかんで、にんまりしながら小夜子に「うー」と突き出して見せた
「あーちゃん、アリさんがいるね。こっちは羽があるアリさん」
棒を拾って来て一生懸命何か書いて、小夜子に説明してくれる
小夜子も、これはこうかな?こんなかな?と、いろいろ書いて見せてやる
商店街に出るには、車の通りが激しいから、住宅地の中にある『三角巾』と『怒涛留』くらいがちょうどいい
『怒涛留』では生ロールケーキを買おう
パンではないが、小夜子には朝食にはなる
水路脇に田んぼが広がっているが、まるで畑に麦みたいに稲が植えられている
土は乾いているが、ちゃんと稲穂が垂れるのだろう
拓けた田んぼの間のあぜに、よすみを囲うように4羽のしらさぎが立っていた
「あれめずらしいねぇ、あーちゃん。白い鳥さんが4匹もいるよ。四角形作って何してるんだろうね」
手前側のしらさぎは、外側を向いて片足を曲げたくらいにして、遠目にも険しい貌をして見える
四角形の魔法陣の中で、なんの趣向だろう
『三角巾』に着くと、小夜子は明日の靴下とハンカチを買った
下着も欲しかったけれど、さすがに赤いチェックのパンツのゴムはきつそうで、ティーンの店『三角巾』には小夜子に似合うものはほぼなくなってしまっていた
なんとなくの気分で、ペルシャ猫の水色と青色の陶器のような、ブローチを2つ買った
青く深く澄んだガラスビーズの瞳をしていた
水穂子と小夜子にと、お揃いで買ったのだが、黒いトップスにも、帽子にも、水穂子にはショール留めにも、スカーフのアクセントにも良いと思ったのだ
雑貨屋で、自分用にでもラッピングをしてもらうのが好きで、ついプレゼントだからと言ってしまう
あーちゃんにはプラスチックの、赤ぶとう色のネックレスもどきを買って、首にかけてやった
喜んでいるのかは、正直よくわからない
引っ張って眺めたりはしている
姉さんといい、わたしといい、あーちゃんをおもちゃにして遊んでいるみたいだ
女の子だったら着飾る楽しみも、おままごとの喜びもたくさんあるのにな
帰ると水穂子は、商店街の麺喰亭からうどんを取り寄せてくれていた
義兄はとっくにいなかった
お寿司なんかよりいいでしょう?
小夜子の好きな山菜うどんだった
薬味に揚げ玉と葱をたっぷり、テーブルに盛ってくれた
仏壇にはゼンマイの煮付けと
カットされたスイカ、梨、ブドウが供えられていて、うどんを食べ終わる頃、水穂子が下げてデザートになった
その後、戦争のような騒ぎで敦彦を風呂に入れ、水穂子と代わる代わる風呂に入って『三角巾』で買って来た花火をした
赤と緑とがシュッボと焔を吐き、一瞬水穂子と敦彦と小夜子の顔を明るく照らした
なぜだか見たこともないのに照明弾のようだと思った
敦彦は初めて見る花火に、水穂子にくっついて見ていたが、さすが男の子とみえてすぐにはしゃぎ始めた
光沢のあるエメラルドグリーンのカナブンが、突然花火の中に飛び込んで来て、小夜子は驚いて「きゃあ!なに!?」と叫んでしまった
カナブンは絶命してしまった
花火の燃えかすの脇で、さみしい
あわれな背中だった
網戸にしたまま、布団に並んで寝た
子どもがいる生活
何もかもが子ども中心で、毎日が慌ただしくて、心配で一緒にお昼寝なんて出来ない気がする
敦彦は今日の昼間のように、突然ひとりで外に飛び出して行ってしまうような子どもだ
「涼しくなって来たわねぇ。暑さ寒さも彼岸までって言うけど、昼間は家の中にいて蝉が鳴いているのを、汗ばみながら扇風機に顔をくっつけて聞いているのよ。うち、クーラーないでしょう?敦彦が熱中症になったら心配だから、つけようかと思っているの。それでも夜はもう、秋の虫が鳴いているでしょ。朝夕、リリリリリ鳴いてるわ。今年はあんたもいるし。ねぇ、小夜子。うちに帰って来ない」
水穂子の申し出は最ものような気が、小夜子にもしていた
おそらく敦彦はこれからもずっと、姉の水穂子が面倒を見るであろう予感も
「わたしもいいとは思うんだけど、やっぱりお義兄さんと一つ屋根の下って変な感じだわ。わたし一応独身だもの、なんだか窮屈で嫌だわ。お義兄さんだって、わたしだって変に自意識過剰になっちゃうわよ。ドラマの見すぎじゃなくても」
「でも考えていてみてね」
「うん、ちょっとはね」
小夜子は静かな仏壇のことを考えた
あちらの世界で仏壇の中の先祖たちは、つつがなく過ごせているのだろうか
あちらの世界で苦労などしておらず、安らかに、供養は足りているのだろうか
やはり寝苦しい夜だった
ぼんわりテラス越しに見えた月
はっきりしない夜の天気と夜の虫
いつの間にかひぐらしが鳴かなくなった
姉の側にいる安心感
血の繋がりってそういうことかも知れない
盆送り盆迎え
常世のわたしたちの心も救うために
先祖と過ごす一番彼岸に近い日
悪夢の球は破れてしまったけれど
まだなんとかなりそうだと、小夜子は思った
その夜
しらさぎが黒い大きな虫を踏んでいる夢を見た
常世鳥
小夜子は彼岸に近い場所にいる
悪夢喰い
小夜子の喉が大きく鳴った
夏風邪を引いたようだ
喉が腫れて来ている
唾を何度も飲み込むが、キレが悪い
明日の朝、生ロールケーキと熱くて濃い、ホット珈琲の並んでいる姿を想像した
そして此の世で最も不思議で温かく、柔らかくて小さな生き物の肌に触れた
神様に聞きたかった
敦彦はどこから来たのだろう