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「水府の三門」◆道しるべ◆⑥

『狐の嫁入り』

寛政三年

一人の賢者が雨宮又右衛門と入れ替わるように退官した

『百姓学者として水戸藩に仕えた男』

名を長久保赤水

駿河長久保城主であった祖先を持つ
常陸松岡領赤浜村に落ち、百姓となる
水戸光圀の乳母を排出した長山家の女を母に持つ
日本地図を完成させたと有名な伊能忠敬よりも四十余年も前に、庶民に愛される日本地図『改正日本輿地路程全図』を作った
約百年の間に八版の増刷がされた
天文学・暦学・地誌を学び、自ら海岸の測量に出るなどし、緯度線(よこ線)と方位線(たて線)による方角を交じ合わせた地図を生み出した
年貢米改めの廃止を直訴し、処刑を赦された稀有な人物である
新井白石は常陸の国多珂に高天原ありと謳い
(仏ヶ浜や逢瀬であるのかは?)
長久保赤水もまた常陸の国鷹戸ヶ浜に高天原ありと謳った
(常陸松岡領高戸)
脚で歩く学者赤水と机上の学者白石の、常陸の国高天原論理が正しいか否かは置いておき
海の遥か向こう側を見ていた男の瞳には、後世の日本の姿はどう映っていたのだろうか
(新井白石もまた、稀有な生涯を送った人物である)


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あのね
又右衛門さま、けっこう絵心がおありでお上手なのよ
わたくしが小さい頃お絵かきしていたら
「落書きか?」
って、笑って・・
それから一緒に夕暮れになるまで描いていた

「いばらはもっと小さい時に、又右衛門さまに抱っこして頂いたことがある」

そう聞いたことがあるのだけれど、それは覚えていないから

『美ち艸』にも又右衛門さまは墨痕鮮やかな墨絵山の絵に、地名や川や村名を書き記している
松岡七賢人の長久保様
かのベストセラー『赤水図』とは違った、素朴な又右衛門さまらしい几帳面な、小さな字も愛らしく
そしてあえて細かく触れないのか、半信半疑するほど簡潔な地図過ぎて困っています
でもなにかわたくしは見落としているような気がしていて・・

ねぇ、又右衛門さま

又右衛門さま

いばらは小生瀬村を出て、入四間村の怪わいな坂をのぼっていたの
細川の中に鷺が一羽
大きな丸い石にとまっていたの
なにを見つめて、どこに行く途中なのでしょうね
ただ一羽、朝でも暗い山の下の繁みに留まる姿、人の世のなににとらわれることなく自由に見えた
そう思ったら
入四間村には宿があったでしょう
御岩権現様のお膝下の宿場だもの
それを思い出したら、たちまち怪わいな坂をのぼりたくなくなったの
入四間での又右衛門さまの不思議を、わたくしまったく疑ったりしないわ
本当に道を挟んで茸の笠のような、藁葺きが軒を連ねている

又右衛門さま、カポカポと・・馬に乗ってこの道をゆかれたの
それとも編み笠を指であげ、三角お山を仰ぎながら見えない姿の者を気にして振り返りながらゆかれたの

杉ぞの影形がきっと真っ暗闇にもくっきりと浮かび上がり、ぼぅ、とした提灯の明かりが戸先にかかっていて、異形のものが訪ねて来てもおかしくはないわね
美しい娘や若者に化けて契ってしまっても・・

そしてこんなに谷が渋くて赤い山の斜面なら
小さくてかわゆい子どもは、木の葉の後ろにも隠しやすいでしょうね
三角形に急斜面の山を這って登ってゆくおさなごがいるとも思えないけれど
無邪気に元気だからそれはあり得ることで、声もなく崖下に落ちて姿が見えないのを神隠しなどと言ったのかも知れないわね
とかく入四間と御岩山には天狗が住まうというでしょう
もちろんその先の立破にも天狗がいるとか

天狗隠し

天狗の太鼓つづら

天狗風、天狗疾風

天狗の姿を見た者はいない
常陸の国の五ノ山では天狗と同一視している
猿田彦神、道祖神にちなみ、使いとして猿狛
を多く建立する
狗でありながら猿の石碑だ
一本だたら
猿田彦神も道祖神も片足の大足と言われている
道祖神の祠の脇に、たいそう大きな藁草履が飾られている
魔物が入り込まないように
小字の辻堺の村人は必ず祠や碑を建ててそうしている

馬頭観音像や稲荷、そして石橋の供養塔
そして幾つかの橋
これらが揃った場所も間違いなく辻堺

冥府船頭の住むあの場所・・

両方に山を抱えた真下では、家家がある高台や平らになった所に田があったり、さらに高台に墓があるの
川を挟んで低くなった所にも田があるの
こちら側の田は川があって低いせいか、陽が当たる所に作られているのね

入四間村は豪雪の渋谷(しぶたに)
深谷ともいうわね
雪の夜は外を歩くこともままならない
夏は雷の通り道

「大木を真っ二つに裂くんですよ。いえ、まだ人が半分になった姿は見ていませんがね」

ニジマスかと思いきや、細い川魚のようなものの炙り焼きの上に山椒の葉と角切りにされたしし肉かしら?
おなじく四角にされた薄黄色の練りもの
さつまいも、というものかしら
原形のままふかしたものも、半分器に乗せてあるわ
とにかくわたくしいばらには、甘味を感じるものを頂けて幸せだわ

いばらだってこの旅はとっても怖いんですからね

「お嬢様。よく女の身でこんな山奥に・・ええッ江戸から!?おいたわしいような、神々しいような・・旦那様は御用心棒もつけずに心配ではないのでしょうかねぇ。もしさらわれて宿場なんぞに売られなすったら・・用心棒も信用しちゃなんねえですが・・ああいえいえ滅相なことを・・ここをお通りということは御岩さんにお詣りですか。えぇ、なになに・・お身内の御方がいらっしゃる常陸松岡に・・それはそれは難儀な事で・・お身内様は太田のお役目を終えられて・・また常陸松岡にお呼ばれに・・大層結構なことですなあ・・そういえば棚倉かどこか岩城藩のお殿様だったか宿場の住み込み女を御妻女にされたとか・・確か常陸松岡藩のどなたかの御養女にされて嫁ぎ直されたとか。人の口の端は嫌なものでございますな。しかし粋な殿様もあったもので・・なになに、小生瀬村に寄られた?え?いぶき山へゆかれる?鬢櫛のお城?ええ、ございますよ・・刑場へ?ギロチン?はて、絞首場のことですかな。さよう、陣屋の先の念仏橋を渡りましてね。上へ上へと登ってゆくんですよ、一本道をねぇ・・その辺りは五霊稲荷と呼ばれてますよ。記録帖にはないですよ。紙に記して残せない物忌みでしてね。口伝なのでございますよ。なんでまた・・身重の女郎に頼まれた?なんて人の良い・・え、なぜそんなに鬢櫛に詳しいかですって?・・お嬢様、わたくしめはその地で特殊人足たちを取りまとめる職にあったのでございます。こことおなじく雷の通り道。この辺りの辻や峠にも刑場が設けられたりするのですよ。雷が生まれる所には稲荷もおりまする」

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夜半ー

安良川八幡大杉の両端に結ばれた神幣が揺れる・・
空はすっきりと濃く黒く晴れている
なのにパラパラと雨粒が落ちてくる
(杉のしずくか・・?)
向こう岸の山と空はぼんのりと浮き上がって見えた

おそらく一段低いところの手前は小屋下橋
その上に所々のみ点灯しているのが非人小屋だ
さらにその奥に続くのが畦道
さらにその上をゆくのが多聞の山だ
ぼんのりとした提灯のような明かりが畦道から、多聞の山の道なりに揺らめいている
ゆらゆら、確かにゆっくり移動している

狐の嫁入り

そう呼ばれている遠くの山に見える提灯の明かりは、近づくと見えなくなる
山に棲む狐が夜に婚礼を挙げて新郎狐の元にゆく行列だと言われている

だから人は誰もその明かりを見ても、辿っては行かない

「又右衛門。のう、又右衛門よ」

「うむ」

「あれ、ではないのか」

「うむ」

「今月も亥の日だな。亥の刻か。これで三つ月だ。間違いないだろう」

「うむ」

「又右衛門。のう、又右衛門よ」

「うむ」

「おぬしのような朴念仁、よく出世するものだと思ってな。不思議に思っておる。意思の疎通、おぬしとは出来んな」

「・・うむ。面倒なのだ」

「だが、間違いないな?」

「うむ。多聞山の風穴に水晶を掘り出し、一旦隠し、横流しをしていて間違いないだろう」

「いつ、踏み込むのだ?あのように小屋の後ろから堂々と行列をなしてゆく奴らだぞ」

「数人、潜り込ませている。隠し場所と運び出す日時、取り引きの時の組分けを探らせる」

「おぅ」

「赤岡、引き上げるぞ。明日、松岡で合流だ。安良川では近すぎる」

闇の中でまた、神幣が揺れた
風は、ない

又右衛門といばらは共に多聞の山といぶき山とが背中合わせだということに、二人が知らずに近づきあっていることを
まだ知らない



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