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「水府の三門」◆道しるべ◆ ①

歩くこと、五里(およそ20K=一里は約4K)

半日かかって歩いてしまった
籠にでも乗りたかったわ
昔はこの道も、もっと歩くのが難儀だったわね
今だって馬が駆けて行くから、早くどかないと蹴られても文句が言えないわ

それにしても東海道五十三次
江戸は日本橋から始まって、京の三条大橋まで五十三ヶ所の繋ぎ所がある
江戸よりもっともっと前の帝の時代には、伊勢の宿から目指す『常陸の雄薩』まで、五十五ヵ所の駅宿があったと言う

律令の時代は、駅家(たんに駅とも言う)があり、
原則一つ駅三十里(現在の16KM)に設けられていた
江戸時代を経て、1里の計算が大きく変わっている

律令制度の厩牧令の中で、官吏が使う指令の伝達手段として、馬が重要とされていた
駅家から駅家を移動し、官吏と駅馬の宿舎、休憩所、替え馬の役割を持っていた
駅戸と呼ばれる、実際官吏と駅馬の世話をする職業は、決まった農家から出すことが通例である
駅長になるものはその中でも裕福で、装備品・食事・飼葉・駅船などの手配・指導をする

駅馬は、はゆまなどとも呼ばれていた
足の速い馬の意味で、早駆け・緊急の指令などもあり、伝令    伝馬と呼ばれた
この駅馬に乗る権利を駅使が持ち、公的な役目をおった官人も駅馬を使用出来た

駅家(または駅家院)は、管理費と維持費がかかるために各駅家には、牧と呼ばれる牧場と駅稲がある
牧場の管理、牧馬の育成をする牧長や牧戸の人件費、官吏の食事や駅馬の装備など
駅馬の買い替えや駅家の修繕に充てる為に、駅家で畔田を耕し、稲作をしていた
高垣の塀をめぐらせた駅家は、人馬の宿舎と畔田を併設しているので、広大なコミュニティであったと言える
官吏は休暇で駅舎を使えたようだが、食事は出していけないことになっていた

ほぼ、引用借りてます



素泊まり、昔からあったのね
でもいいわ
宿代は抑えられるもの

お団子あったかしら
お餅を焼いてきたけれど、国を出た時に持って来て
硬くなってしまうから、途中で食べてしまったのよ
串に刺してきたから、宿に着いたら汁の中で煮てもらおうかしら

道端の丁度いい石に腰掛けて、“いばら”は一服する
もうひとつ、お餅サンドがあるんだ♪
中に「きんぴら」を挟んで持ってきた
握り飯だと、傷んでしまうから、旅にはお餅が良いのだ

追い抜いて先行く人が、じろじろと“いばら”のことを見ている
“いばら”は内紐で結ぶ、白い割烹着を着ている
脚絆を巻いて杖をついた旅支度だが、どうも町医者の女先生に見えるらしい
女がひとりで・・
いぶかしげな、ねぶるような目で見られる

刺すわよーー

“いばら”は薬箱の中の切開と縫合の器具を覗かせる
単に傷口に菌や毒が入らないように、布当てを挟んだりするものだが、威嚇くらいの効力はある

さてと
又衛門様の言うような、そんな『はくじつむ』
があるのかしら
寝ぼけていたわけでもないのに・・
あんなじめじめと暗い山々と、赤萩ばかりの坂道じゃあ、化かにされて夢でも見るわね・・

“いばら”は又衛門の詰く結んだ唇の、困惑した形相を思い浮かべて、ほほほ、と笑う

さあ、日が暮れる前に

はるばる江戸から常陸の国まで、女ひとりでやって来た

彼女の名は“雨宮いばら”という




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