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ドーパミン・マネジメントとこんまり流/越境的読書/仕事術の基本/来るべき夫婦の形

Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~ 2020/11/02 第525号

○「はじめに」

ポッドキャスト、二回分が配信されております。

◇第四十七回:ごりゅごさんと読書ポッドキャストのうちあわせ by うちあわせCast A podcast on Anchor
https://anchor.fm/rashita/episodes/ep-elj4ss

◇第四十八回:Tak.さんとセルフパブリッシングで本を売るために大切なことについて by うちあわせCast A podcast on Anchor
https://anchor.fm/rashita/episodes/Tak-elnu69

第四十七回は、ひさびさにごりゅごさんとのポッドキャスト……と思ったら初めてのゲストでした。私が、ごりゅごさんのポッドキャストにお邪魔しているので、その辺がごっちゃになっております。いまのところ、二人(+α)で読書に関するポッドキャストを計画中です。

第四十八回では、前回このメルマガで書いたことも含めて、セルフパブリッシングで大切なことについて語りました。基本的には売れないが、売れないなりに継続していくと何か見えてくるものがあるよ、という話です。あんまり表に出てこない話だと思うので、一度しておきたかった話でもあります。

〜〜〜新しい執筆のスタート〜〜〜

唐突に、新しい書籍の企画案がスタートしました。セルフパブリッシングではなく商業出版の企画です。

いまのところ、「毎日コツコツ進めよう」コマンドでその企画に着手していますが、企画の立てかたや、進め方など、これまでとは違ったスタイルで進めているので、その辺をまた来週あたりにでもがっつり書いてみたいと思います。

個人的には結構なチャレンジになっております。

〜〜〜WorkFlowyのシンプルかとそこからの変化〜〜〜

最近少しずつ、WorkFlowyの構造をシンプルにしています。

情報を扱うツールがテキストファイルベースになってきたので、WorkFlowyに任せる情報が「WorkFlowyでないと」な情報に限定されてきているのでしょう。

直近では、

・デイリーのテンプレート
・週間の予定
・その日のノート
・アイデアノート
・雑多なリスト

の構成でしたが、ここから「雑多なリスト」がなくなり、さらに「週間の予定」と「デイリーテンプレート」も消え去って、最後には「その日のノート」と「アイデアノート」だけが残りました。めちゃシンプルな形です。

一方で、そうやってシンプルにしていると、森の奥で勝手にキノコが生えてくるみたいに、Home直下に新しい項目が誕生します。

現状は、「その日のノート」と「アイデアノート」以外に、「メルマガ読書週間特別号」(このメルマガ用のアウトラインですね)、「ノート本目次案」(新しい企画案ですね)、「『僕らの生存戦略』目次案」(いつものあれですね)、「zenn本アイデア」(模索中のやつです)、あたりが生えております。これも、役目を負えたらまた削除されるなりなんなりするのでしょう。

そうやって循環していくのが、たぶんWorkFlowyの「まっとうな」(というかなんというか)使い方なのだと直観します。上位構造を固定的に使うのは、たぶんFlowyではないのです。

〜〜〜失敗をどう捉えるか〜〜〜

失敗して喜ぶ人は少ないでしょうが、しかしその失敗をどう捉えるかにはやっぱり違いがあります。プログラマーなら、バグが出ても嬉しくはないですが、次なる一歩のための情報を得たという感覚もあるでしょう。少なくとも、バグが出たらその時点で挫折して手が止まる、ということは少ないはずです。

同じように、生きていく上でも失敗は避けては通れません。特に、新しいことにチャレンジするならなおさらです。

一度失敗したからといって、そこで「もうダメだ」と挫折するのではなく、そこから何か情報を得て、さらに手を尽くすこと。そうやって前に進む進みかたを覚えれば、あらゆることがらの「攻略法」を事前に入手する必要はなくなるでしょう。

なんだかんだいって、それが一番安上がりなんだと思います。

〜〜〜かーそるの進捗〜〜〜

前号が出てからいったいどのくらいの時間が経ってるんだよ、というセルフツッコミが入りますが、かーそる第4号は、水面下で着実に進捗しております。

執筆者の方からの原稿も集まりつつあり、それらをチェックし、電子書籍のデータをそろそろ作り始めようか、という心持ちになっているところです(まだ作り始めてはいません)。

こういうのも、もしかしたら「すごく遅れてしまっている。どうしよう失敗だ」と思う人もいるのかもしれませんが、私は「単に遅れているだけ、遅れているだけ」くらいの気持ちを持っています。それはあまりにも楽観的というか、非-反省的かもしれませんが、ともかく(長期的に見れば)手は止まっていないと言えますし、それこそが一番大切なことではないかな、と個人的には思います。

11月中の発売は難しいでしょうが、12月か来年の頭のどこかでは発売できそうな予感です。あくまで予感ですが。

〜〜〜ひとりではない仕事〜〜〜

個人的に、煩わしいのが嫌いです(好きな人は稀でしょう)。特に、段取りの悪い環境がイライラします。だから、ひとりで仕事をするのが一番気楽です。

とは言えです。やっぱり他の人と仕事をすると独特の面白さがあります。自分ひとりでは決して得られなかっただろう視点やアイデアが得られます。それはかーそるでも、今新しく着手している企画案でも感じます。ひとりでは得難いものが秘められているのです。

そうしたものは、「自分の感覚」だけを優先していると、高い確率で見過ごされてしまうものなのでしょう。森の奥でひっそり生えているキノコのように。

ときには、面倒さや煩わしさ(の予感)をえいやと振り切って、他の人と一緒に仕事をしてみるのも良さそうです。

〜〜〜Q〜〜〜

さて、今週のQ(キュー)です。正解のない単なる問いかけなので、頭のウォーミングアップ代わりにでも考えてみてください。

Q. ひとりと複数、どちらが仕事しやすいですか。

では、メルマガ本編をスタートしましょう。今週は読書週間特別号として、「本」を中心とした話題でお送りします。

本当は、がっつり3つの原稿で行こうかと思ったのですが、あまりに豚骨濃厚風になったので、がっつり2本+さっくり2本の構成でお送りします。今回掲載しなかったものは、また次週にでも掲載しますので、そちらもご覧くださいませ。

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○「ドーパミン・マネジメントとこんまり流」#がっつり

ダニエル・Z・リーバーマンとマイケル・E・ロングの『もっと! : 愛と創造、支配と進歩をもたらすドーパミンの最新脳科学』(以下『もっと!』)は、今年読んだ本の中でもトップレベルに面白い本でした。

二元論が大好きは私たちは、人間の性質をよく二つに分類します。内向的・外向的、知的・直情的、システム1・システム2、エトセトラ、エトセトラ。

本書は、ドーパミンとH&N(ヒア&ナウ)の二つの影響を論じます。創造と愛です。

ドーパミンは、未来や期待に関係します。「もっと」を求める気持ちが、人間を突き動かします。しかし、「今」に充足を覚える感情は、そのような駆動力を持ちません。前に進む力はないのです。進歩を促すのは、ドーパミンの方でしょう。

しかし、その「もっと」を求める気持ちには、終わりがありません。「もっと」は再帰的に繰り返され続けるのです。ドーパミンは、報酬予測誤差に反応するので、「もっと」として求めるものが手に入ると反応しなくなり、また別の「もっと」を求めるのです。

プレイボーイと呼ばれる人たちが、どれだけの美女を渡り歩いても決して満足することなく、また別の美女を求めてしまうのはこの作用だと、本書は説きます。それを劇的にしたものが、麻薬中毒です。ドーパミンに〈直接〉作用する麻薬を使用すると、常に「もっと」の欲求にさらされ続けます。終わりはありません。

それに比べれば、H&N回路(エンドルフィン、オキシトシン、バソプレシンなど)は、期待や未来ではなく、「今この瞬間」に満足を感じさせます。充足感や幸福に関係するのは、ドーパミンではなく、こちらの回路なのです。

さて、「今この瞬間」に重きを置くと言えば、最近ではマインドフルネスなどが思い出されます。GoogleなどのIT企業などが、マインドフルネスに注目しているのはよく聞く話ですが、それも納得です。

イノベーションの追求は、H&N回路によって成されるのではありません。それは、「今ないもの」を作り出す動きであり、未来と期待に関わっています。つまり、とことんドーパミン的活動を追求していくことです。

ここで思い出したいのが、人間の脳内は一つの「系」(閉じた系)であることです。よって、ドーパミン的活動を増やしていけば、その反動として他の活動、つまりH&N回路は弱まってしまいます。充足感がなくなり、幸福感が薄れる。にも関わらず、ドーパミンによって馬車馬のように働いてしまう。その結果は、火を見るよりも明らかです。燃え尽きてしまうのです。

だからこそ、マインドフルネスなのです。「今この瞬間」に注意を向けることは、期待や未来にさらされ続けた環境から遠ざかり(つまりドーパミン回路を休ませ)、H&N回路の回路を復旧させる効果が期待できます。

さらに言えば、最新のIT企業に勤めていなくても、現代に生きる私たちは、激しいドーパミン刺激にさらされています。

たとえば、考えてみてください。「今この瞬間」に満ち足りている人が、最新鋭の掃除機を欲するでしょうか。きっと興味を持たないでしょう。逆に言えば、新しい消費を促したい場合、H&N回路ではなく、ドーパミン回路を刺激する必要があるのです。つまり、広告(CM)とは、ドーパミン刺激なのです。

現代は、情報社会で大量の情報が私たちに向かってやってくる、ということは常々書いていますが、その量ではなく、むしろ質に注目すべきなのでしょう。広告的情報、つまりドーパミンを刺激する情報にさらされている環境こそが問題なのです。

たしかに人の一生では読み切れないほどの情報は、アレクサンドリア図書館の時代からありましたが、それらの情報はすべて書庫にしまわれており、私たちが意図しなければ目に触れることはありませんでした。そして、それらの情報は、決して消費を促す目的で書かれていたわけではないのです。つまり、極端にドーパミンを刺激するものではなかったのです。

精神の作用として見た場合、IT企業がマインドフルネスを重視するように、現代社会で多量の広告にさらされている私たちは、そのカウンターとして意識的に「今この瞬間」に意識を向ける必要があるのかもしれません。そして、そのための一つの方法が「日記」を書くことだと(広義で「ノート」を書くことだと)個人的には思います。
*日記については、『日記の魔力』や『日記のすすめ』などをどうぞ。

なぜ、「日記/ノート」を書くことが大切なのかと言えば、一つにはそれが広告的情報に汚染されていないからです。あなたがジキルとハイドでない限り、勝手に右手が広告敵情報をノートに書きつける、ということはないでしょう。

しかし、それだけではありません。書かれるノートは「近傍」であり、「創造」である点も重要です。どういうことでしょうか。

本書によれば、距離の近いものと遠いものは、扱うときの脳の回路が異なるようです。

オーストラリアの生理学者ジョン・ダグラス・ペディグリューは脳が「身体近傍空間」と「身体外空間」を分けて扱っていると論じました。「身体近傍空間」とは、手を使っていますぐ動かせるもので構成されていて、ようするに「近く」のことです。一方、「身体外空間」は、手の届く範囲の外に出なければ触れられないもので構成されています。この二つについて脳は別々に処理していると言うのです。

さて、ここからがポイントですが、「身体外空間」は基本的に可能性であり未来の話です。なぜなら、「手の届く範囲の外」に移動するには時間がかかり、それはつまり「今」ではないことを意味するからです。距離は時間と結びついているのです。

この気持ちはよくわかります。原理的に「距離」が存在しないデジタルツールでも、アクセスするためにいくつかのステップが必要な場所にある情報は、「遠く」感じられます。そうした感覚は、物理空間において、より顕著に現れるのでしょう。

遠いものと近いものは異なる。これは、心理的な親和性が距離を表す言葉によってメタファーされることからも伺えます。もっと言えば、物事がより抽象的になっていくときも、この距離は発生するのでしょう。

ここで「こんまり流」が思い出されます。近藤麻理恵さんのもっとも新しい著作『Joy at Work 片づけでときめく働き方を手に入れる』では、仕事における「片づけ」について言及されていますが、その骨子はこれまでの「こんまり流」と通底しています。

では、こんまり流の骨子とは何か。片づけするものを「一つひとつ手に取り、それに感謝して、捨てる決断をすること」です。

まず注目したいのは、「一つひとつ手に取ること」です。この重要性は何度も強調されています。

これをドーパミンの視点から捉えてみると、「一つひとつ手に取る」ことは、その対象を身体近傍空間に再配置することを意味します。遠くにあったものを、近くに持ってくるのです。

さらに、その対象に感謝することは、その物との関係性を過去に向けて振り返ることを意味します(未来の出来事に感謝はできません)。つまり、未来や期待ではなく、今を起点とした過去に注意を向ける行為なのです。先ほどまでの話を引き継げば、非ドーパミン的な活動と言えます。

逆に、未来や期待に焦点を合わせれば、「まだ使えるかもしれない」「いつか使うときがくるかもしれない」となって、モノが捨てられなくなるわけですが、それはドーパミン回路が活発になっていることも示唆します。

こうして考えてみると、こんまり流の片づけはよくセラピー的だと言われますが、まさしくその通りなのでしょう。マインドフルネスと同じような知的作用がそこでは発揮され、ドーパミン回路が抑制されながら、N&M回路の活性化が目指されています。

以前このメルマガでこんまり流を紹介したとき、このメソッドは徹底的に合理的な整理の理屈と、スピリチュアルな感情的味付けの合成でできているといった旨を書きましたが、さらにそこにマインドフル的な脳に作用する要素を持っているのです。非常に複雑な構成です。

だからこそ、日本で受けた以上にアメリカでこんまり流はヒットしたのでしょう。日本も相当な消費社会ですが、アメリカのそれはもっと強烈だと聞きます。クレジットカードでばんばん買い物することで、バランスシートが相当悪い家計も多いようです。ようするに、日常的にドーパミン作用にさらされているのです。

さらに『もっと!』では、移民が多い国とそうでない国で、ドーパミン的違いがあるかどうかも言及していて、それも非常に面白い議論なのですが、さすがに脱線がすぎるのでその話に興味がある方は是非本書をご覧ください。

最後に、一番重要なのは、別段ドーパミンが人間にとって敵ではないということです。「もっと」という気持ちがまったく無ければ、人類はここまでの科学技術や医療技術を手にすることはなかったでしょう。もっと豊かになりたい、もっとたくさんの人を救いたいという欲望とそれがもたらす駆動力があったからこそ、人類の発展があったわけです。それをすっかり忘れて、ドーパミンに動かされているなんてよくないと言ってしまうのは、あまりにも傲慢でしょう。

ようは、過剰にドーパミン優位になっている状況が悪いだけです。人間の創造性を駆動する力と、人間の愛を感じる力のその両方が、共に行きすぎた状態にならないように生活を送ること。それが大切なのでしょう。

そこで本書は最後に「創造」を一つのバランスメーカーとして提案しています。たとえば、日曜大工など、手を動かして何かを作ることは、ある完成形に向かって駆動するドーパミン的行動でありながら、それは常に自分の近くにあり、完成したものも自分の手元に残ります。つまり、近傍的満足感がそこにあるのです。

考えてみれば、私が「本を書く」という仕事をずっと続けられているのも、この二つの力が働いているからな気がします。書き始めるときは、未来志向であり、終わってみると、手に取れる本が生まれる。それに実際に読んだ人(リアルに存在する人)からの感想もいただける。近傍的喜びがある。

プレイボーイは、狙っている女性がものにできるとわかった瞬間に、もう思考は次の女性に向かっているそうですが、執筆作業はそうではありません。一つの本を書き終わる度に、言い様のない満足感が、(だいたいは遅れて)やってきます。近傍的満足感です。

このように、最初はドーパミン駆動であっても、結果としてH&N的満足感が残るものであれば、私たちはこの二つの力とうまく付き合っていけるのでしょう。つまり、それが「創造」であり、「日記・ノート」を書くことの有用性にも通じています。

振り返ってみれば、私たちはそのような手仕事によって、ここまでの文化・文明を築いてきました。そうした手仕事に親しんできた期間は、コンピュータが発達した期間に比べればあまりにも長く、私たちの脳に染みついているのではないかと創造できます。言い換えれば、私たちの進化において、そのような行いが適応的であり、脳はそれに順応しているのでしょう。

だからこそ、直近のIT企業の仕事は、(現在の進化具合で言う)「人間の性質」に合わない部分があるのだと想います。脳内のドーパミン系を駆動しっぱなしで、調和をフィードバックしない仕事が多いのです。

その意味で、ドーパミンから見る情報社会論や文明論も考えられるのではないでしょうか。それはそれで面白そうな話です。

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