カード法とメタ・ノート/なかば閉じた環境の豊かさ/アウトライナー論とは何か?という問題提起
Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~ 2020/06/08 第504号
はじめに
はじめましての方、はじめまして。毎度おなじみの方、ありがとうございます。
体調が復活して、徐々に元気になってくると、休憩時間が煩わしく感じられるようになります。ゆっくり休んだり、長時間散歩したり、ストレッチしたり、仕事以外の作業をするのがうっとうしく感じるのです。
もちろん、よろしくない傾向です。自分がやりたいことを優先するのではなく、自分がやるべきことを優先させるべきでしょう。でないとまた体を悪くしてしまいます。
よくインターネットで「自由に生きる」とか「やりたいことをやる」が礼賛されていますが、それが究極に達成されている状況って、結構やばいことなんじゃないかなと思います。
〜〜〜評価の収穫逓減〜〜〜
以下のようなツイートしました。
そうしたら、(この原稿を書いている段階で)451個の「いいね」をいただいています。歴代最高記録かもしれません。
で、「いいね」が20個〜30個くらいまでのときは、「おぉ、結構ウケてる」と嬉しい気持ちが強かったのですが、それが50個となり、100個となり、150個となりと、どんどん増え続けてくると、だんだんしんどくなってきます。
第一に、Twitterの通知欄がその「いいね」で溢れかえります。その上、ツイートしてから1日以上経っても、通知欄を見るたびに、過去の自分にぐいっと引き戻される気持ちがしてくるのです。これはなかなか堪えます。
10個の「いいね!」が20個に増えるのは嬉しいものですが、150個のいいねが160個になったり、300個とかになっても、嬉しさは増えず、むしろそのことによる弊害が強まってきます。
有名な方たちは毎日こんなTwitterをしているのでしょうか。たいへんそうです。
〜〜〜交通整理員の不在〜〜〜
今日も今日とて、インターネットではさまざまな話題に対する議論が巻き起こっています。基本的には良いことなのでしょう。
ただ、Twitterやそこに流れてくる記事の全体的な傾向として、「自分は自分の言いたいことを言う。以上」という言説が多いような気がします。つまり、他の人はこういう場所でこういうことを言っていて、別の人はああ言う場所でああ言うことを言っていて、で、自分はこう思う、という言説をあまり見かけないのです。
はるか昔のブログ界では、さまざまな意見が出てきたときに、それらをいったん整理した上で、自分の議論を展開される方がいて、その人の記事を読めばそれまでの流れが大体把握できたのですが、現状そういうブロガーさんはあまり見かけません。とにかく、自分の言いたいことを言う、以上という方が多い印象です。
そうすると、たまたま見かけた話題に興味を持っても、二、三記事を読んだだけでは全体像がぜんぜんわかりません。そうなると、それ以上突っ込んで知ることも難しくなります。
さらに、議論が整理されていないせいで、同じようなことが散々言われていて、しかも基本的な前提が共有されていないので、どれもこれもとんちんかんな内容になっていることもあります。資源の無駄遣いこの上ありません。
まあ、PV至上主義で自分のコンテンツさえ見てもらえればそれで目的が達成されて、建設的な議論を行うことが目的でないのならば、そうなってしまうのも仕方がないのかもしれません。
〜〜〜そこじゃない〜〜〜
ショッピングモールにある小さな書店をぶらついていたら、電気系の棚(「電気のちから」とか「配線入門」みたいな本が置いてある棚)の中に、『ライト、ついてますか?』が並んでいるのを見つけました。ドナルド・C・ゴースとG.M.ワインバーグによる問題発見学の古典的な一冊です。
おそらくはタイトルだけを見て陳列したのでしょう。もちろん、『ライト、ついてますか?』には、電球の配線を効率的に行う術などは書かれていませんから、この時点で第一の「クスッ」が発生します。
で、もう少し時間が経つと、『ライト、ついてますか?』という本が、「いかに問題を定義するか」「いかに考えるべき問題を見つけるのか」という内容であることを思い出します。本書が述べるのは、人は考えるべき問題を適切に見つけられずに、「急いで」問題を解こうとしてしまう、という問題の扱い方についての指摘です。
つまり、『ライト、ついてますか?』という本が電気系の棚に並んでいることが、問題視されないという、まさにその状況を問題視している本なのです。これで第二の「クスッ」が発生しますね。
それはそれとして『ライト、ついてますか?』をどこに並べるのかは難しい問題ではありますが。
〜〜〜記録によって進む改善〜〜〜
最近、作業記録をこまめにつけているのですが、そうすると作業毎に自分が何をしているのかを自覚することになります。状況を把握し、やっていること・やるべきことを言葉にするので、自分の理解が進むのです。
そうなると、「あっ、これはこうした方がいいな」「あれはこう変えたほうがいいな」と思いつきやすくもなります。ちょっとした業務改善、つまりインクリメンタルな業務改善が進むのです(*)。とても良い傾向です。
*もちろん、その業務改善についても記録を残します。
作業記録を残すことは、手軽に始められる仕事術としては、かなり費用対効果の高いメソッドだと言えるかもしれません。その辺の知見もまとめて、また本にできたらいいですね。
〜〜〜今週見つけた本〜〜〜
今週見つけた本を三冊紹介します。
『WIRED UK』の創刊編集長が書いた本ということで、シリコンバレー礼賛な内容かと思いきや、"シリコンバレー発の「科学的にイノベーションを起こす方法」を徹底的にこき下ろすところから"本書は始まるようです。イノベーティブな変化が、どのような行動によって起こされたのか。それを分析する本です。
ソシュールは有名ですが、イェルムスレウやザメンホフはご存知でしょうか。私は知りませんでした。ルイ・イェルムスレウは、デンマークの言語学者でソシュールの記号学をさらに発展させた言理学を開拓した人のようです。ルドヴィコ・ザメンホフは、あのエスペラント語の考案者ということで、なかなか面白いメンバーです。
タイトルが素敵ですね。"「風景」の中で生きることは「生きる」ということ一般においてどのような、あるいは、どのように意味をもつのか"という一文が内容紹介にありますが、なかなか興味深い問いです。
〜〜〜Q〜〜〜
さて、今週のQ(キュー)です。正解のない単なる問いかけですので、頭のストレッチ代わりにでも考えてみてください。
Q. 「この本、この棚ちゃうやろ」と笑ってしまった経験をお持ちですか。
では、メルマガ本編をスタートしましょう。今週は、少し長めの記事が一つと、短めの記事が二つでお送りします。
今週も「考える」コンテンツをお楽しみくださいませ。
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2020/06/08 第504号の目次
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○「カード法とメタ・ノート」 #知的生産の技術
○「なかば閉じた環境の豊かさ」 #やがて悲しきインターネット
○「アウトライナー論とは何か?という問題提起」
※質問、ツッコミ、要望、etc.お待ちしております。
○「カード法とメタ・ノート」 #知的生産の技術 #メモシステムの探究
■set up this document
Mac for Evernoteで「tag:"作業記録" ルーマン」と検索してみます。14個のノートが見つかります。
ルーマンのカード法に興味を持つ人にRoam Researchをおすすめするツイート、ルーマン関係の文献を読んだときの自分のメモ、カード法に関する自分の着想メモ、たとえとして「ルーマンのカード法のように」と書き込まれた作業ログ。
自分の脳内を通っていったもので、「ルーマン」というキーワードが含まれているものが、すべてここにあります。
そのうち「2020年4月27日の作業記録」にあった一つのメモが「お目当て」のものでした。
>>
こういう風に、二つ以上の着想をとりまとめていくこと。ある着想と、別の着想のつながりを探索・強化していくことが、ルーマンのカード法の肝であり、梅棹の「カードをくること」の骨子でもあるのだろう。こういう話を書きたい。 #知的生産の技術 #知的生産の風景
<<
さて、set pu はここまでです。本編を始めましょう。
■メモシステムに関する混乱
私の頭の中には、片方にこれまで摂取してきたカード法・ノート法に関する知見があり、もう片方には自分が実現したいであろうメモ管理システムについての欲求があります。
しかし、前者の知識が多すぎて、後者の姿が見えにくい状態でした。
簡単に言えば、混乱していたのです。糸がたくさんあり、どれとどれを結びつければきれいな一本の筋になるのかがわからず、途方にくれかけていました。
とは言え、新たな知見を生み出すためには、一度混乱をくぐり抜けることは避けられません。獣道を通ってこそ、新規ルートが開拓できるのです。
だから混乱することはやむを得ないことでした。たくさん情報を仕入れれば、誰だって次第に混乱してきます。特にそれらの情報がそれぞれ別のことを言っているならなおさらです。
しかし、その混乱のスープ、いや混沌のスープは、徐々に沸騰を終わらせ、静かに冷えながら、ある種の固形物を生み出そうとしています。まだそれは十分に固まっていないプルプルしたゼリー状のものでしかありませんが、そこには一本の筋が生まれるかもしれない、という期待が宿っています。
つまり、今回はそういうお話です。プルプルしたゼリー状のお話。
■Roam Researchは話をややこしくする
ある時期から抱えていた問題がありました。難問です。なんなら知的生産三大難問と呼んでもいいくらいです。
それは何かと言えば、「アイデアを管理するのは、Scrapboxがいいのか、アウトライナーがいいのか」というもの。どうです。難問でしょう。
どう考えても、どちらにもメリットがあり、簡単に結論を下せるものではありません。「ある用途に合わせた使い方が良い」とまでは言えるものの、その用途がはっきりしていません。言い換えれば、「アイデアを管理する」とはどういうことなのかが明確でないのです。
逆に言えば、そこが明確になっていないから、「Scraobox or アウトライナー」に答えが出せないのです。
そんな状態で、「Scrapbox的なことも、アウトライナー的なことも両方できますよ」とアピールするRoam Researchが出てきても、話がややこしくなるだけでしょう。あたかも両方使えればハッピーな解決が訪れる気がしてきますが、「アイデアを管理する」とはどういうことかという問いに取り組まない限り、ハッピーエンドは訪れません。
そしてこの難問は、カードかノートかという古典的な知的生産上の問題とも呼応します。
■カード法とノート法
現代でも多くの人に読まれている知的生産系書籍と言えば、梅棹忠夫の『知的生産の技術』と外山滋比古の『思考の整理学』でしょう。この二冊の本では、それぞれに異なる情報整理の技術が紹介されています。
梅棹の『知的生産の技術』では、京大型カードというやや大きめの(具体的にはB6サイズの)厚めの紙を使った情報整理法が登場し、外山の『思考の整理学』では複数の綴じノートを使った「メタ・ノート」という着想管理法が登場します。
梅棹のカード法は、一枚のカードごとに一つの着想を書き込み、そのカードを何度も読み返したり、組み換えたりすることで、思考を発展させていくメソッドです。その際、着想は完全な文章の形で書くことが推奨されます。梅棹はそれを「豆論文」と呼びました。走り書きのメモではなく、読める文章で書くのが梅棹のカード法の特徴です。
また、梅棹はこのカードに着想以外のあらゆる情報も(もう少し言えば自分が管理すべきあらゆる情報も)書き込んで管理できると述べています。つまり、梅棹のカード法には、アイデア管理だけでなく、包括的的な情報整理術としての側面もあるわけです。
一方、外山のメタ・ノートには、そのような包括的な視点はありません。何か面白いことを思いついたらそれをノートに書いておき、時間が経ったらそのノートを読み返して、まだ面白いと思えることを別のノートに書き写す、という手順によって着想の選別・育成を行うメタ・ノートは純粋に着想を扱うためだけの手法です。
ここで対比関係をハッキリさせておくならば、梅棹のカード法はより包括的な情報整理を含むので、以下のような構図になります。
一案件一枚でカードを作る情報整理法(←カード法と呼ばれる)
・着想を書き留めたカード(豆論文カード)を利用して思考を発展させる(←A)
・その他の情報を書き留めたカードを利用する
一方で外山も、メタ・ノート以外にノートを利用していたでしょうから、以下のような構図になるはずです。
ノートを使った情報整理法
・段階的にノートを移行して思考を選別・育成していく(←メタ・ノートと呼ばれる)
・その他の情報をノートに記録する(←特に名前はない)
このように捉えると、梅棹のカード法の中でも、着想を扱うための手つき(Aの部分)には何かしらの名前が与えられてしかるべきだと感じますが、残念ながら『知的生産の技術』ではその言及がありません。単に「カードはくることが大切だ」と述べられているだけです。その他の手法については魅力的な名前を与えている梅棹にしては珍しいと言えるでしょう。
ともかくここでは、梅棹のカード法と外山のメタ・ノートは手法的に粒度が異なる、という点だけを確認しておきます。
■カード方とメタ・ノートの要点
さて、この二冊の本を勢いよく読んだ人間は、「カードがいいのか、ノートがいいのかどっちだよ」という気分になります。正確には、『知的生産の技術』を読んだ直後は、「そうだカードがいい」という気持ちになり、『思考の整理学』を読んだ直後は、「やっぱりノートだよね」という気分になるのです。で、時間が経つと、「どっちやねん」とツッコミたくなる状況になるわけです。
さらに、板坂元は『何を書くか、どう書くか』の中で、本を書くためにノートとカードの両方を使うと述べて話をややこしくしています(この本は他の二冊ほど人気ではなかったようですが)。結局、ノートを使ったらいいのか、カードを使ったらいいのかに結論は出ません。混乱は深まるばかりです。
そこでいったん情報を整理してみましょう。二つの方法の、要点だけを述べれば、以下になります。
カード法:情報をアトム(原子)として扱い、その組み合わせによって思考を促す。
メタ・ノート:いらないものを過去に送り、よいものは肥え太らせていく。
この二つを眺めてみると、単に異なっているだけでなく、むしろ逆向きの価値観を持っているようにも思えます。
というのも、情報をアトム化することは、それらを選別せずに長く残すことを意味するわけで、そこではメタ・ノート的な取捨選択は行われないことになります。一方メタ・ノートでは、「なくなってもまあいいか」の姿勢で情報(着想)を扱うので、既存の情報と別の情報の組み合わせが時間とともに増えることがありません。
だとすれば、この二つは相容れない別様の情報管理スタイルなのでしょうか。
と、早急に断じるまえに、もう少しだけ二つの管理法について探究してみましょう。
■二つの書き方
先ほども書いたように、梅棹のカード法ではカードは「豆論文」として書かれます。それ自体で独立して読むことができる文章として表されるのです。
では、メタ・ノートはどうでしょうか。あまり言及はありませんが、『思考の整理学』を読み込んでみると、箇条書きが用いられていることがわかります。実際は、まず心覚えとしての短いメモ(見出しのようなメモ)を書きつけ、それを書き写すときに、追加で思いついたことなどを、箇条書きで書き足していくのです。つまり、以下のような形でしょう。
「まだ言葉がない獣道に出会ったら、それはあなたが歩くべき道なのかもしれない」(メモ)
↓
「まだ言葉がない獣道に出会ったら、それはあなたが歩くべき道なのかもしれない」(ノート)
・タスク管理における新しい言葉の発見
・知的生産における新しい言葉の発見
↓
「まだ言葉がない獣道に出会ったら、それはあなたが歩くべき道なのかもしれない」(メタ・ノート)
・タスク管理における新しい言葉の発見
・知的生産における新しい言葉の発見
・学問における言葉の役割
・専門知と用語
こうした書きつけ・肉づけでまず思い出されるのが、アウトライナーです。見出しと内容をそれぞれ箇条書きで表すのは、他のどんなツールよりも強くアウトライナーを想起させます。
では、なぜ箇条書きで表すのかと言えば、それはノートを見返す必要があるからでしょう。玉石混交なノートをざっと見返して、その段階で光るものをピックアップして書き写すためには、箇条書きが最適です。以下の二つのメリットがあるからです。
・読み返すための時間が短くて済む
・書き写すための時間が短くて済む
アウトライナーであれば、下位項目を閉じて、見出しの項目だけをスキャン(=走り読み)できるので、さらに読み返しの時間が短縮できるはずです。また、書き写すという動作も不要で、項目を別の項目下に移動させるだけで済みます。よって、このメタ・ノート的な管理手法は、すこぶるアウトライナーと相性が良いことになります。
一方で豆論文群の扱いは、アウトライナーよりもたとえばScrapboxのようなツールが向いています。情報をアトム的に扱うことは、それらが混じり合って別のものに変異することが起こらないことを意味するので、項目を自由に移動できるアウトライナーよりも、むしろそれぞれが個別のページとして存在し、リンクを作れるScrapbox(なりRoam Research)が適しているのです。
よって、ノート法かカード法かという問いは、アウトライナーかScrapboxかという問いに重なってきます。
*もちろん重なるだけで等しいわけではありません。
■情報カードと、メタ・ノートの担う役割の違い
では、ここからがいよいよ核心です。
梅棹のカード法と、外山のメタ・ノートは、なぜここまで違うのでしょうか。そんな問いは、これまでまったく持ったことがなかったのですが、何度目かとなる『思考の整理学』を読んでいたときに、ふと私の脳裏をよぎりました。
外山は、自らの思考を書き留めておいたノートを持ち、何か原稿や講演の依頼があったらノートを見返して、よさそうなテーマをピックアップして使用し、それが終わったら、赤ペンで印を入れておくと述べています。二回同じネタを使うのを避けるための工夫です。
そのとき、巨大な隕石が私の腑に落ちました。
外山滋比古が管理している情報は、一度使用されたら役割を終えるたぐいの情報なのです。つまり、それは「ネタ帳」なのです。
一方、梅棹のカード法は、たしかにそれを使って論文を書けば一つの役割は終わるでしょうが(次回はその論文を直接読めばいい)、だからといってその情報の価値が欠損するわけではありません。たとえば、モンゴル民族の文化についての考察は(適当な例です)、そのための論文を書き終えたとしても、まだ価値を有しているでしょう。また別の知識と組み合わさることで新たな着想を呼ぶかもしれません。
つまり、豆論文はネタ帳ではないのです。
梅棹も外山も、学者・研究者の仕事を忙しくこなしながら、執筆者としての仕事もきっとこなしていたのでしょう。梅棹はそのすべてを情報カードで対応していたはずですが、外山はどうでしょうか。外山は、メタ・ノートによって自らの「研究」を進めていたのでしょうか。どうにもそんな感じはしません。
もちろん、研究における新しい着目点や疑問や仮説がメタ・ノートによって生まれたことは十分考えられます。しかし、学問的探究における情報置き場としてメタ・ノートを使っていたとはとても思えません。なくなってしまっても「まあいいか」という態度で情報と接してはいけないのが学問や研究活動でしょう。よって研究のためには、カードやあるいは取捨選別をしないノートを使っていたはずです。
ここで、ようやく私のメモシステムに光明が見えてきました。ようは私が管理したいのは、ネタ帳なのか、それとも研究における情報置き場なのか、という問いが立てられるようになったのです。
■アウトプットとメモのスタイル
考えてみると、メモの管理というのは、それだけを取り出して検討できるものではありません。当人の、(おおげさに言えば)情報生態系の一部として捉える必要があります。
たとえば、数年に一度新刊を書くタイプの作家(たとえば村上春樹)と、毎月次々に新刊を書くタイプの作家(たとえば赤川次郎)が、まったく同じメモの管理法を実践しているとしたらかなりの驚きでしょう。
実際、村上春樹さんはメモのたぐいはほとんどとっていないとおっしゃられていますし、赤川次郎さんの手法はわかりませんが、たとえば毎週コラムの締め切りを持っているような書き手の場合は、メモをこまめにとっているはずです。
春樹さんは、日常的な情報摂取を続けていき、それが一定量脳内に溜まり、物語の方から「書いてくれ」と訴えかけるようになったら書き始めるというスタイルであり、締め切りなどの要素はなく長編を書かれています。だから、メモどりは必要ないのです。
また、その春樹さんもエッセイや連作短編のようなものを書くときは、あらかじめ書くことをストックしてから臨むと書かれていました。やはり、連載という外部的な要請に応えるためには「出せるものが溜まるまで待つ」というスタイルではやっていけないわけです。
結局、アウトプットのスタイルとメモの管理は関係しているのです。
つまり、私のメモシステムをどう構築していくかを決めるためには、私が今後どのようなアウトプットスタイルを目指すのか、というより大きな目標を決める必要があります。
それがどのようなものなのかはまだ明確には見えてきませんが、少なくともフォーカスすべき問題が明らかになったのは大きな前進です。
■さいごに
本当はここまでを前置きとして、さらにメモシステムについて言及していくつもりでしたが、前置きがかなり長くなってしまったので、以降はまた回を改めて書くことにします。
とりあえず、ここ数ヶ月ずっと考え続けていたメモシステムについてしばらく書いていく予定なので、よろしければお付き合いください。
(つづく)
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