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有限化について/あるのがわかっている情報にたどり着けない/書斎について 備品入れ

Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~ 2019/03/25 第441号

はじめに

はじめましての方、はじめまして。毎度おなじみの方、ありがとうございます。

先週予告していた通り、ポッドキャストをスタートしました。

「うちあわせCast」という名前の番組で、私がゲストと気楽にトークする内容です。テーマは知的生産系の話が多くなると予想しています。

番組の狙いとしては、

・物書きってだいたいぼっちで作業するので、たまにこうして誰かと話すのもいいよね
・で、そうやって話すと原稿とかが進むといいよね
・でもって、定期的に知的生産系の話題を投下する番組ってあんまりないよね

みたいなところがあります。あと、こういう番組があると新しい本が出たときに宣伝できるのもあります(切実)。

とりあえず、どういう形で進めるかはまだ固まっていませんが、一週間に一度くらいのペースで続けていけたらなと考えています。ただし、本業に差し障りがない程度に、という線引きはあります。さすがにそれは本末転倒ですからね。

現状はAnchorからの配信となっていますが、ある程度時間が経てば、他のプラットフォームでも配信されるかと思いますので、しばしお待ちください。

〜〜〜書店リニューアル〜〜〜

近くのショッピングモールに入っている書店が、しばらく拡張工事のために閉店していたのですが(つらい期間でした)、先日ようやくリニューアルオープンしました。

いや〜、やっぱり大きくなった書店っていいですよね。しかも、人文書・理工書のコーナーが拡大し、さらに文房具コーナーも併設されています。楽園到来。

で、一通り店内を巡ってみてちょっと思ったのは、「投資本コーナーはすごく赤い」というもの。チャートの読み方とか、FX攻略とか、その辺の本が並んでいる一角だけ、妙に赤みが強いのです。まあ、本の性格を考えれば当然かもしれません。

他にもいろいろ感じたことはあるのですが、あんまり書いているとそればっかりになってしまうので、今回はこれくらいにしておきます。

とりあえずは、その書店を探索することでしばらく楽しめそうです。

〜〜〜公開企画案〜〜〜

発想工房プロジェクトに、以下の二つのページがあります。

どちらも企画案です。現実に、これから本を書こうとしている本の、企画案です。

出版社さんとの本作りであれば、こういう情報は基本的には機密に扱うものですが、個人のセルフパブリッシングならそんなことを気にする必要はありません。

パクられる可能性?──いやいや、こんな地味な企画をパクる人はいないでしょうし、そもそもこうしてWebに公開している以上、「あれって、私が先に考えていたんだよね」ということは証明できます(もちろんそれで裁判を争うつもりはありませんが)。

だから公開であっても非公開であっても、大差はありません。

しかも、公開しておくと、それを読んだ人から感想やコメントをもらえたりもします。これが結構効いてきたりするのです。

一つの形として、結城浩さんがやられているように、レビュアーさんを募集して原稿の下読みをしてもらう、という方法もありますし、私もそれを考えてはいるのですが、それよりももっと前の段階から、企画の種を公開していくとどうなるだろうか、という一つの実験をしているところです。

しかも、『情報社会の歩き方〜知的生産とその技術〜』 に関しては、シゴタノ!の連載において、「企画案の検討工程」そのものを開示しています。

シゴタノ!の連載は知的生産系であり、本を書くことは知的生産活動なので、企画案を立てて、それを肉付けして本にしていく過程そのものを開示することをコンテンツにしよう、という試みです。

さらにそうした締め切りを週一回持つことにより、この企画案を肉付けしていく動機付けを自分自身にも課す、という効果があります。

一体一石何鳥なのでしょうか。

というわけで、上の二つの企画案は、公開しながら徐々に進めていきますので、その過程も楽しんで(あるいは参考にして)いただければと思います。

〜〜〜分野の潮目〜〜〜

最近『無責任の新体系』という本を読んで、その感想をツイートしています。

で、その本の著者の方が私の『「やること地獄」を終わらせるタスク管理「超」入門』を読んでくださり、ツイートやYoutubeの動画で言及してくださりました。

一般的に考えて、『無責任の新体系』という思想・哲学の本と、『「やること地獄」を終わらせるタスク管理「超」入門』という仕事術・ライフハックの本は交わりがありません。書店で近くに置かれることはまずないでしょう。

で、その一般的には交わりのないものが関わりを持つ瞬間がすごく好きです。こっちからあっちへ、あっちからこっちへの道が(あるいは橋が)作られる。そんな感覚があります。

そのような領域のことを、個人的には「分野の潮目」と呼んでいます。海の潮目が豊かであるように、分野の潮目もいろいろ思考を刺激する要素が眠っているはずです。

〜〜〜読み手のハック〜〜〜

私は、誰かから「読みたいです」とか「期待してます」と言ってもらえると結構テンションがあがります。よしやろう、頑張って本を書こう、という気持ちになってくるわけです。

で、この心理的傾向がどれだけ一般的なのかはわかりませんが、自分が誰かの本を「読みたい」と感じたら、ツイートなり何なりで「読みたいです」や「期待してます」と他の著者さんに向けて発信するようにしています。

これは、先週書いた「買い手のハック」に近いものかもしれません。作り手側の心理を把握した上で、読み手として行動する。そういうアプローチです。

もちろん、そうして声を掛けることでプレッシャーに感じたり、やる気が減退したりしてしまう書き手の方もいらっしゃるでしょうから、必ずやったほうがいいとか、やったら絶対に効果があるとまでは言えませんが、案外何気ない一言が力を持つことってあります。

〜〜〜学ぶと学び〜〜〜

「学ぶ」と「学び」という言葉があります。前者が動詞的で、後者が名詞的な表現ですね。

で、よくよくこの二つの言葉の「感じ」を確かめてみると、微妙な違いに気がつきます。

たとえば「学ぶ」という言葉は、こちらから対象に向けての働きかけがイメージされます。

「私はAを学びました」

学ぶ:私→A

しかし「学び」だと、むしろ対象からこちらに向けての働きかけがイメージされます。

「Aには学びがありました」

学び:A→私

考えてみると、動詞というのは動作を表す言葉であり、動作とは主体から対象に対して働きかけることを意味します。

その動作が名詞化されることによって、「主体からの働きかけ」の要素が薄まっていく、という効果があるのかもしれません。

「〜〜ってよくわかる」と「わかりみがある」の語感の違いにも、同種の「薄さ」が感じられます。

〜〜〜見つけた本〜〜〜

今週見つけた本を紹介します。

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 概念は、人類の幸福に深くかかわる人工物であり、概念工学とは、有用な概念を創造・改定する新たなフレームワークである。本書は基礎的な理論を提示するとともに、「心」「自由意志」「自己」などを例に実践的な議論を展開し、豊饒な学の誕生を告知する。
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 本書は、今まで当たり前だと思われていた定番料理の
レシピを見直し、現代の食材に合わせて作り方を再構築。
今は必要ない調理工程や意外な料理のコツに驚きの連続!
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『流言のメディア史 (岩波新書 新赤版 1764)』(佐藤卓己)

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 流言蜚語、風評、誤報、陰謀論、情報宣伝…….現代史に登場した数々のメディア流言の「真実」を見極め、それぞれの影響を再検証するメディア論。ポスト真実のデジタル情報化時代に求められる、「バックミラーをのぞきながら前進する」メディア史的思考とは何か。「あいまい情報」のメディア・リテラシーがいまここに。
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〜〜〜Q〜〜〜

さて、今週のQ(キュー)です。正解のない単なる問いかけですので、頭のウォーミングアップ代わりにでも考えてみてください。

Q.「これは贅沢な時間の使い方」だと感じるのはどんなときですか?

では、メルマガ本編をスタートしましょう。

今週も「考える」コンテンツをお楽しみくださいませ。

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2019/03/25 第441号の目次
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○「有限化について」 #断片からの創造
 有限化について考えます。

○「あるのがわかっている情報にたどり着けない」 #整理の整理
 先日あったエピソードをご紹介。これがけっこう辛いんです。

○「書斎について 備品入れ」 #書斎について #物書きエッセイ
 書斎連載の第四回です。

※質問、ツッコミ、要望、etc.お待ちしております。

○「有限化について」 #断片からの創造

有限化について、少し長い話をしてみます。

まずは、本の書き方から。

■本を書くこと

一冊の本の執筆には、さまざまな有限が関わっています。

まず、締切りがあります。予定の期限までに本文を仕上げなければなりません。そうして仕上げられないものは、永遠に「本」としてこの世界には顕現しないのです。

もちろん、セルフパブリッシングであれば、出版社さんが決めた締め切りはありません。しかし、たとえそうであっても、もう一つの期限は厳然として残ります。寿命、という期限です。

私たちが永久なる命を持っていたら、いつまでも本を執筆していられますが、結局それも「本」として完成することはありません。なんであれ、「ここまで」という区切りがあってこそ、はじめて本は本たりえるのです。

そのような期限の締切りから、内容についての限界も発生します。使える時間が限られているのですから、すべてを完璧に詰め込むことはできません。足りない部分、及ばない部分は必ず出てきます。

一冊の本において、あらゆる内容を網羅することはできませんし、何一つ指摘しうるミスがない本に仕上げることもできません。

でも、だからこそ、私たちは「本」を書くことができます。

もし、すべてを完璧に網羅しなければいけないとしたら、そんな「本」を書き上げられる人は誰もいないでしょう。同じく、ミスが何一つ認められないのであれば、怖くて本を出版するのは不可能でしょう。

もちろん、できる限りにおいて、必要な情報が盛り込まれているべきでしょうし、ミスもゼロを目指して修正されるべきでしょう。しかし、だからといって「100%完全でなければ存在してはいけない」とまでは言えません。

むしろ、ある程度の不完全性を許容するからこそ、私たちはこの世界に「本」を送り出せるようになります。

■限界からのスタート

ここで少し視点を動かします。

「すべてを網羅することは、そもそも無理なのだ」

という前提に立てば、「だったら、この本でどうしても伝えたいことは何なのか?」という問いに向き合えるようになります。「すべて」が無理なのだとしたら、「何か」しかありません。一部、部品、断片、とどんな表現でも構いませんが、その小さなものを届けることが、一冊の本の役割となります。

この問いに向き合うことなく、あくまで「すべて」にこだわっていたらどうなるでしょうか。現実に「すべて」は無理なのですから、ひどくピントがぼやけたものにしかならないでしょう。

限界があることを受け入れるからこそ、その限界の中で何ができるのか、何をすべきなのかを見定められます。

でもって、これは「期限と中身」や「文字数とテーマ」だけに関するものではありません。たとえば、「言葉で何かを伝えること」にも限界がありますし、「書き言葉で何かを伝えること」にも限界があります。USBケーブルみたいなもので、脳と脳を接続して通信、というわけにはいきません。どうしても、完璧とは言い難い結果がやってきます。

でも、だからこそ、その限界の中で何ができるのかを考えることは有効です。むしろ、それを考えることではじめて「書き言葉ならではの伝達」が実現できるでしょう。

■尖らせる

有限化すること。

無限に拡がる対象から、その一部分を切り取ること。

そのようなやり方でしか、私たちはこの世界に何かを生み出すことができません。内容も不完全で、伝え方も不十分な方法でしか、私たちは何かを作り得ないのです。

でも、だからこそ、私たちはその役割について、鋭利に思案することができます。「なんでも」ではなく「何か」という破片だからこそ、それを尖らせていけるのです。

「無限」や「すべて」は、何かを決める必要がありません。何かを選ぶ必要がありません。それらは何もかもを包括しているからです。

でも、何かを作り出すことは、選ぶことです。「無限」から距離を置くことです。

創作を好む人間の脳には、「素晴らしい」企画案がたっぷり詰まっています。それこそ「すべての人間」を喜ばせるような、驚異的な作品のアイデアが盛りだくさんです。

でも、その完全性は、脳内という居心地のよい水槽にいるときにだけ維持されるものです。水槽から取り出し、「はいどうぞ」と誰かに手に渡ったときには、綺麗さっぱり消え去っています。

私たちが作り出せるものは、脳内にある完全な作品に比べれば、あまりにも不完全で、不十分です。そのことは、多少の落胆を発生させはするでしょう。

誰しも「少しでも良いものを」と願うことでしょうし、それは驕りではありません。しかし、その願いが際限なく再帰的に繰り返されると、やがてそれは「すべて」へと至ります。

そして、「すべて」はこの世には生まれません。どこかで有限化の線引きが必要となります。。

■切り口

先ほども書きましたが、何かを作り出すことは、選ぶことです。

たとえば、本のテーマやコンセプトを決めるときに「切り口」という言い方をします。イメージとしては、何かしらの物体に刃物を入れたときの断面が近しいでしょうか。そのものすべてではなく、ある切り口によって生み出された断面(≒断片)。それを見つけ出すことがテーマ設定では必要となります。つまり、切ること(切断)が必要なのです。

論文の書き方を教える書籍でも、だいたいは「大きなテーマではなく、小さなテーマに」というアドバイスが出てきます。大きなテーマで、何もかもを扱おうとすると、到底手に負えないものになってしまう。だから、その大きなテーマを掘り下げていき、扱えるだけの小さなテーマへと分解していく。それが論文初心者には必要になってきます。これも、テーマの切断であり、ある種の有限化だと言えるでしょう。

■選ぶこと

選ぶことは、捨てることです。

ある断片をピックアップするということは、他の断片をピックアップしない、ということです。選ばれない何かを選ぶ、ということです。

その「選ばれなかった断片」──それは可能性とも表現されます──に注目してしまえば、その行為には痛みが伴ってしまうでしょう。人間という生き物は、そういう「損失」に痛みを感じてしまうものなのです。

しかし、「選ばれた断片」に注目し、それを尖らせているならば、痛みの感覚は薄れます。ゼロにはならないにしても、別の感覚が生まれ始めます。

どうしようと「すべて」を選択することはできません。それは何も選択しないのとイコールです。

だったら、選んだものをいかに機能させるのかについてしっかり頭を働かせた方がよいでしょう。手に残った断片を輝かせるために必死に研磨した方がよいでしょう。

どれだけその研磨を続けたとしても、「すべて」の輝きに至れるわけではありません。その輝きは、常に不完全であり、不十分です。でも、不完全で、不十分なりに輝いていることもたしかです。

その本の役割、その本しかなせない役割。それをまっとうすること。不完全なりに、最高に機能すること。不十分なりに光り輝くこと。

その輝きこそが、不完全で不十分な私たちに手にできる、もっとも光度の高いものです。

■人生という作品

もう一度、視点を動かします。今度は、少し大きめに動かします。

仮に、人が生きることを、自分の人生という作品を生み出すことだと捉えたらどうなるでしょうか。

きっと頭の中には「すべて」を成し遂げるすばらしいアイデア(≒自我像)が眠っていることでしょう。しかし、それは脳内水槽の中でのみ存在できるものです。

現実の私たちが為せることは、それに比べれば非常にちっぽけで、ありふれたものでしかありません。不完全で、不十分なものです。

でも、そのことを受け入れないとしたらどうなるでしょうか。脳内にある「素晴らしいアイデア」を自賛し、しかし何一つ作品を生み出さないクリエーターと同じになるのではないでしょうか。

もちろん、選ぶことは捨てることです。何かを手に取ることは、別の何かを捨て去ることとイコールです。だから、何かを選ぶときには、多少なりとも心の痛みが伴います。可能性を捨てることは、結構しんどいことなのです。簡単に他人様に勧めることはできません。

それでも、です。

「すべて」を望む限りにおいて、その人は輝きを手にすることはできないでしょう。断片であることを受け入れて、それを磨いていなかい限りは、輝きは発生しないからです。

もちろん、輝きなんて必要ない、という態度も十分にありえます。そもそも「人が生きることを、自分の人生という作品を生み出すこと」だと捉えたのも、一つの設定でしかありません。人はただ生きていれば、それだけで価値があるのだ、というのは立派なものの見方ですし、真実の一側面ですらあるでしょう。

しかし、そうはいっても、ただ生きているだけでは、足りない感じが発生してしまう状況も起こりえます。その「感じ」を抑制し(ないしは解脱し)、苦しみから解放されるという方向性もありますが、それとは別のアプローチもあるかもしれません。小さな輝きを手にする、というアプローチです。

■不十分のジレンマ

ただし、このアプローチは厄介な問題を抱えています。

「ただ生きているだけでは不十分に感じる」という問題の対処のために、不十分さを捨てるのではなく、むしろ不十分さを受け入れるところから始めなければならないのです。これは簡単には突破できないでしょう。

逆に言えば、不十分さを埋めるために、「すべて」を求めていると、結局その渇きは永遠に満たされないことになります。そもそもその「すべて」は人が手にできるものではないからです。

一冊の本が、たった一つの大切なこと(メッセージ)を伝えるように整えられるように、一人の人間がこの世界に対して背負える役割もそう多くはありません。というか、非常に限られています。

でも、だからこそ、その役割とは何かを真摯に考えることには意義があります。そして、それが無限なものではなく、有限なものであることには、ありがたさもあります。もし、無限の役割を背負わなければならないとしたら、無間地獄にいるのと変わりません(※)。
※『魔法少女まどか☆マギカ』のアルティメットまどかのようなものです。

私たちが背負えるのは、小さな断片です。そして、私たちが背負わなければならないのも、小さな断片です。

私が書く本が、すべてを網羅していなくても、他の本がいろいろなことを書いてくれています。その時点でまだ書かれた本が存在しなくても、後の世代にその願いを託すことができます。

人が生きることも同じです。一人で何もかもを背負おうとし、また背負わなければならないと感じているのは「すべて指向」です。これは、現実とは非常に相性の悪い考え方です。

■断片として位置づける

私たちは、断片です。有限化によって切断された、小さな断片です。

その断片たちがネットワークを形成するとき、「すべて」を背負い込むことから解放されます。

外山滋比古さんは『思考の整理学』の中で、「ひとつだけでは、多すぎる」と書かれていますが、それをモジれば、「ひとりでは大きすぎる」のです。一つ上の階層にのぼり、そこに自分を位置づけることが必要になります。

それは何も難しいことではありません、という綺麗事を書くつもりはありません。たぶんこれはかなり難しいことで、多くの宗教が絶対者を持つのもそのためでしょう。絶対者という一つ上の階層があるからこそ、人間は自身を断片的存在であると捉えられるようになります。

近代西洋の「個人」という考え方は、そこにあった宗教的なバックボーンを剥ぎ取ってしまうと、簡単に「個人」=「すべて」という考え方に近接していきます。「すべて指向」を呼び込みやすいのです。そして、現代ではそのような捉え方が当たり前というか、それしかない、という感覚に近づいています。これはけっこう危ういことであり、しんどいことでもあります。

自分を断片的に捉える。「自分」というものを有限化する。

その領域を通過する際には、きっと痛みが伴います。だから、痛みを避けていると、「すべて」から距離を取ることはできません。むしろ、どんどん「すべて」に近づいていくでしょう。

一つ上の階層を持つこと。これは、理念的な話であり、実際的な話でもあります。そして、どちらであっても、とても大切な話です。

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