執筆の計画/断片的な思いつきに押しつぶされる/さまざまなタスク管理ツールのシンプルな渡り歩き/やるおわがやるおわになった瞬間
Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~2019/08/05 第460号
はじめに
はじめましての方、はじめまして。毎度おなじみの方、ありがとうございます。
ここ最近は、毎日Scrapboxでデイリータスクリストを作っているのですが、8月1日にふとそのデイリータスクリスト用のページを眺めたら、その関連ページに「08/01」という無骨なタイトルのページを見つけました。
クリックしてみると、去年の8月1日の日記ページです。その日の出来事がつれづれなるままに書いてあり、07/31へのページリンクがありました。さらにそれをクリックすると、やはり日記が書いてあり、それ以上のリンクはありませんでした。
つまり、こうしてScrapboxをガッツリ使うようになって、そろそろ一年経つということなのでしょう。
Scrapboxには、こうした過去情報との出会いがあります。
私のデイリーページには、その日の日付がリンクとして添付されているので(2019年8月5日なら、#08/05というリンク)、使い続けていけば、毎年の同じ日付のデイリーページが関連ページに表示されます。
すると、「去年はこの企画案を進めていたんだ」とか「去年の電気代に比べると今年はちょっと安かったな」なんてことがわかったりするのです。それは知的生産の役にはあまり立たないかもしれませんが、ちょっとした発見があることも確かです。
とは言え、少し思ったこともあります。それは、書き残される情報の違いです。一年前にScrapboxにデイリーページを作り始めたときは、デイリータスクリストは別のツールを使っていました。だから、Scrapboxに書き残していたのは日記でした。
一方で、現状はScrapboxでデイリータスクリストを運用し、日記はEvernoteに書いています。
で、「デイリータスクリスト」と「日記」を見比べてみると、一年経った時点で情報的価値があるのは日記だということがわかりました。どの作業を何時に終了したか、という情報だけが並んでいるデイリータスクリストを、一年後に見返しても、得られるものはほとんどありません。
しかし、何があって、どんなことを思ったのかが書かれている日記は一年経っても、というよりも一年経ったからこそ、面白さが出てきます。
たぶん、この差異も、Scrapboxを楽しく使っていく上での大切なポイントになるのでしょう。
〜〜〜うちあわせCastでうちあわせ〜〜〜
先週はうちあわせCastを二回放送しました。
両方とも執筆関係の話で、言い換えれば「著者と著者の雑談」といった趣です。で、まさにこういう感じが、うちあわせCastに求めていた一つの雰囲気でもあります。
物書きというのは、基本的に一人で作業をするもので、執筆について気楽に誰かと話せる機会は多くありません。それが、悩みを袋小路に閉じ込めてしまう危険性があります。
そういうときでも、ちょっと雑談程度に考えていることなどを話せば、案外新しい風が吹いてくることは珍しくありません。それをオンラインで実現できたらいいな、というのがうちあわせCastの狙いでもあります。
もちろん他にもいろいろな狙いがあるのですが、こういう雑談も増やしていけたらいいなと思います。
〜〜〜ただ本を読むこと〜〜〜
本を読むことは、ほとんど日常生活に密着していますが、それでもときどき、まったく読めなくなることがあります。小説を開いてもだめ、ライトノベルを開いてもだめ、実用書もビジネス書もまったくだめ。一行を追いかけることすら、できない。そんな状態です。
そんなときであっても、哲学書など「日常」とまったく無縁の、ただただ形而上学的な論理の探究を企てている本だと読めることがあります。
そして、そうした本を読んでいると、精神の何かが沈静(あるいは鎮痛)されている感覚が芽生えてきます。ヒーリングというのではなく、調律というのが近しい感覚です。
私たちは、──あるいは、少なくとも私は──、感情であったり実利に触れすぎていると、摩耗してしまう(あるいは惹起しすぎてしまう)何かを持っているのかもしれません。
みなさんはいかがでしょうか。
〜〜〜#WaifuLabs〜〜〜
Twitterで、#WaifuLabs というハッシュタグを知りました。以下のサイトで作られた画像についていたハッシュタグです。
ここで言うWaifuとは、「俺の嫁」ということで、アニメ作品などの自分のお気に入りのキャラクターを指す言葉です。それを、いくつかクリックするだけで自動的に作成してくれるという、すごいサービスになっています。
・最初にさまざまな絵柄から好みのものを選び
・カラーリングを選び
・詳細を選び
・ポージングを選ぶ
たったこれだけです。これで、自動的に「それっぽい」キャラが描写されるのですから、技術の進歩というのもたいしたものです。
もちろん、キャラクターだけで「作品」は成立しませんが、キャラクターの立ち上げなど、創作の一助になってくれるかもしれません。
〜〜〜矢面に立つ〜〜〜
とある理由によって私の洋服はすべてユニクロなのですが(ヒント:妻の職業)、そのおかげで、キャラクターがプリントされたUT(ユーティー)をいくつも持っています。
で、その中のお気に入りの一つが、前面にでかでかと「殺センセー」がプリントされたTシャツです。歴代のジャンプ漫画の中でも『暗殺教室』はお気に入りの一つで、「殺センセー」というキャラクターも大好きなので、店頭でこのTシャツを見かけた瞬間に「これだ!」という勢いで買い込みました。
で、40手前にもなって、そのTシャツを喜んで着ているわけですが、たまたまよく行くカフェの新人の男性スタッフさんに、会計の際に「あっ、殺センセーですね。僕も好きです」と声を掛けてもらえました。
そこから、『暗殺教室』話で盛り上がった、ということはないのですが、それでも、そういう「通じ合う瞬間」というのはなかなか嬉しいものです。でもって、それは前面にデカデカとプリントされたTシャツを着ていないと発生しないイベントでもあります。
〜〜〜自分で旗を立てる〜〜〜
私は長らくブログで知的生産技術系の情報を発信していますが、その話題で雑誌に寄稿しませんか、というオファーをもらったことはありません。なぜなら、知的生産技術系の雑誌が存在しないからです。
一方で、仕事術や小売店経営の話題では、寄稿のオファーを頂いたことがあります。なぜなら、そういう情報を扱う雑誌が存在するからです。
このような状況を考えたとき、知的生産技術系の雑誌に寄稿しようと思うなら、自分でそうした雑誌を立ち上げるのが最短ルートです。少なくとも、「そういう雑誌ができないかな〜」などと夢想しているだけの状況よりは、はるかに可能性は上がるでしょう。
そのような思いから、電子雑誌「かーそる」は生まれました。自分で、自分の旗を立てたのです。
はっきり言って手間のかかる仕事ですし、通常の寄稿のように原稿だけ書いて、後は送信したらOK、しかもそれで原稿料がもらえる、のような楽なものではありません。でも、雑誌が存在しないのだから、そうした楽さを求めるのは詮無いことでしょう。
多くの雑誌が、そういう面倒さを引き受けてくれる人がいるから成立していることを考えれば、自分で自分の旗を立てるなら、その面倒さも引き受けなければなりません。
私の書籍の執筆動機は、「こういう本が読みたいのに、存在していない。だから自分で書く」というものが多いのですが、「かーそる」も基本的には同じです。欲するものがないならば、自分で創ってしまう。少なくとも、電子メディアはそれを可能にしてくれます。
今のところは、主要メンバーだけで原稿を書いていますが、ある程度落ち着いてきたら「かーそるに寄稿してみませんか」と声を掛けようとたくらんでいます。声を掛けられるのを待つのではなく、自分から声を掛けるようになるわけです。
あるいは、もしかしたら次号くらいからそれをやってみるかもしれません。興味ある方は、心の準備でもしておいてください。キーワードは「ノート」です。
〜〜〜今週見つけた本〜〜〜
今週見つけた本を三冊紹介します。
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我々が〈現在〉の外へ出るために、いま〈内在の哲学〉の哲学的基盤が必要とされている。カヴァイエス、シモンドン、ドゥルーズ、バディウ、メイヤスーらを射程に、エピステモロジー、シミュラークル論、プラトニスムといった複線を展開、「内在」と「外」、そして「脳」へと、哲学界の俊英が思考の臨界に迫る。
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聖書から〈ハリー・ポッター〉まで、古今東西、
人の暮らしには絶えず物語が息づいている。
なぜ私たちは、物語なしではやっていけないのだろう……
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文学や映画、音楽など芸術とそれらをとりまく言説によって、都市にはさまざまなイメージが付与されてきた。現実の都市に作品世界と紐づけられたさまざまなイメージが生成・変容してゆく過程を追うとともに、あわいに生じた文化のありようを描き出す。文学散歩(無縁坂)や映画のロケ地巡り(小樽)といった事例に、世界遺産となった軍艦島、さらには壁崩壊後の東ベルリンと音楽観光都市ウィーンについての論考を加えた全5章。
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〜〜〜Q〜〜〜
さて、今週のQ(キュー)です。正解のない単なる問いかけなので、頭のウォーミングアップ代わりにでも考えてみてください。
Q. 本を読めなくなるときはありますか。それはどんなときですか。
では、メルマガ本編をスタートしましょう。
今週も「考える」コンテンツをお楽しみくださいませ。
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2019/08/05 第460号の目次
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○「執筆の計画」 #これから本を書く人への手紙2
○「断片的な思いつきに押しつぶされる」 #知的生産の技術
○「さまざまなタスク管理ツールのシンプルな渡り歩き」 #BizArts3rd
○「やるおわがやるおわになった瞬間」 #物書きエッセイ
※質問、ツッコミ、要望、etc.お待ちしております。
○「執筆の計画」 #これから本を書く人への手紙2
こんにちは。その後の進捗はいかがでしょうか。うまく進んでいるとよいのですが。
さて、執筆においては、大切なことがいくつかあります(大丈夫、数点ですよ)。そのことについてぜひともお話しておきたいのですが、その前に「計画」について少しだけお話させてください。何をどうやって進めていくのか、というちょっとした段取りの話です。
もし、あなたが執筆の計画を「締切日までの日数で、全文字数を割ることで、一日の平均的な進捗目標を立てる」のようなやり方で立てているなら、とりあえずそれはいったん白紙に戻しましょう。つまり、10万字を40日で書くのだから、一日2500文字書けばOK、というような計算は破棄するのです。
そのような計算は、厚めにオブラートに包んでも、机上の空論としか言いようがありません。そのように執筆が進むことは、極めて稀です。特に、まだほとんど何も書き始めていない段階なら、なおさらその計算は成り立ちません。
逆に、ある程度執筆が進んで、その本のコアのようなものが見えたら、そういう計算もいくらかは成り立ちます。しかし、それはある程度進んでからの話です、最初の段階では、あまり綿密な計画を立てないことをおすすめします。
もちろん、「全文字数/締切日までの日数」という計算をすること自体は、感触を掴むためには有効ですが、それをそのまま「盤石の計画」にはしないでください。後でひどい目にあります。ええ、経験談ですよ。
執筆される本は、一直線のリニアな形状をしていますが、執筆のプロセスは決して真っ直ぐには進みません。たいていは行ったり来たりを繰り返します。はい、繰り返すのです。
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大雑把に言えば、執筆は、アイデア出し→アウトラインの作成→本文執筆のように、ステップを踏んでいく形で進みます。図式化すれば、このような単純な構図になってしまうのは仕方がない面はあるでしょう。
しかし、アウトラインを作成してたら新しいアイデアが出てきたり、本文を執筆していたらアウトラインを変更したくなったり、ということがごく普通に起こりえます。コーラを飲んだらゲップしたくなる、くらいにナチュラルな自然現象としてそれは起こります。
よって、線形な考え方で計画を練っても、それは常に破綻の憂き目に遭います。それはあなたが劣っているからではなく、執筆につきまとう一つの避けがたい現象なのです。なんといっても、これからあなたが書こうとしている本は、この世にまだ存在していない本です。そこにはお手本もなければ、サンプルもありません。このようにやっていれば、こうなるというマニュアルなど作りようもないのです。だから、精緻な計画は成立しません。せいぜい言えるのは「立てた計画は、書き換えられるだろう」という予想だけです。
だからまずは、かなり時間がかかる覚悟だけはしてください。作り込もうとすればするほど、良いものにしようと思えば思うほど、必然的に時間はかかります。なにせ、一通り本文を書き上げてなお、作業は残っているのです。
もちろん、そんなものはまるっと無視して、ただ10万字の文字を提出する権利があなたはあります。それが自分の仕事だと思えば、そうすれば構いません。
私がここで言いたいのは、質のことは気にしなくて良い、ということではなく、時間の関係上どこかで諦めなければならない部分が必ず出てくる、ということです。その量が大きくなるのか、小さくなるのかは、割こうとする時間の大きさと関わってくる、ということです。まずはそのことを覚えておいてください。
本は残ります。時間を超越します。だから、時間をかけることは、悪い投資ではありません。少なくとも、私はそう思います。
(つづく)
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