メモとその蓄積的な価値/メソッドと文字数/本を売る場所の広がり/本をじっくり読むこと
Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~2020/07/27 第511号
はじめに
はじめましての方、はじめまして。毎度おなじみの方、ありがとうございます。
ポッドキャストの最新回が配信されております。
最近作っているサイトの話から、Webや情報共有ツールについていろいろ話題が展開しているのでご興味あればお聞きください。
〜〜〜addless letter〜〜〜
上のポッドキャストで紹介した、最近作っているWebサイトです。
一応ブログと言えばブログですが、R-styleとはぜんぜん違うテンションで運営しております。まだ調整中なので、各記事のURLなどは変わってしまうかもしれませんが、とりあえず、トップページにアクセスしたらいろいろ読めると思うので、適当にご覧ください。
サイトの作り方などは、またブログかこのメルマガで紹介したいと思います。
〜〜〜マイバッグ〜〜〜
私は、我が家の夕食担当大臣かつ買い出し担当大臣でもあるので、スーパーによくいきます。で、7月に入ってから、マイバッグを持っている人を多く見かけるようになりました。やはり有料化の影響は大きいですね。
私は背負っているカバンの中に小さく畳めるエコバックを入れているのですが、スーパーに買い物にくるお姉さま方(婉曲表現)はかなり大きめの買い物バッグを肩に掲げておられます。もちろん、有名ブランドのカバンとかではなく、「ザ・物がたくさん入りますよ」的なカバンです。
で、そういうカバンは前面のサイズも大きいので、キャラが大きく描かれたキャラグッズも作りやすいんじゃないかな〜と個人的には思います。これからのキャラグッズの選択肢の一つになりそうです。
あと、あのスペースってちょっと広告的に使えるのでは、という気もします。各メーカーさんは質の良い買い物バッグを、自社のロゴマークつきでバンバン配ったら広告効果がありそうです。
さすがに日常使いの買い物バッグを高価なブランドものにする人は少ないでしょうから、案外非高級ブランドメーカーにも参入の余地があるのではないかと、そんなことをスーパーの列に並びながら考えておりました。
〜〜〜雑なものに対するイライラ〜〜〜
ほんとうに自分勝手なイライラなのですが、たまにタイムラインに流れてくる「雑な意見」のツイートを見かけると、言い様のないイライラが湧いてきます。別に自分に向けられたメッセージでもありませんし、見なかったことにしてスルーすればマインドヘルスは保たれるはずなのですが、どうしても心がひっかかります。
「いやいや、これこれこういう状況だったら、どうなのそれ。それでもまだ同じこと言える?」
みたいなツッコミが発生してしまうのです。このイライラというか気持ち悪さは、約分されていない分数を見かけたときに感じる気持ちに近いかもしれません。どうしても放置しておけないのです。
もちろん、もう40歳なのでそのイライラをインターネットにぶつけることはありませんが、なぜそのようなイライラが湧いてくるのかには興味があります。意見は精緻に検討されていなければならないのような規範性が私に根付いているのでしょうか。あるいは、単に発言者のことが嫌いなだけなのでしょうか。実に不思議です。
それとは逆に、精緻に組み立てられた意見を目にすると、静かな快が湧き上がってきます。これも不思議な感覚です。だって、どう考えても生得的に身に付いている快ではないですよね。論理が整っていることが有利になるとDNAに刻まれているとは考えにくいものがあります。とすれば、生きてきた経験の中で開発された回路なのかもしれません。
でもって、そのような快の回路があるから、逆に雑なものに嫌悪感を感じるのかもしれません。快の回路を手にすることは、嫌悪の回路も手にすることであるならば、完璧な快への道は閉ざされているのでしょう。
〜〜〜カウンターとアナリスティック〜〜〜
上で紹介した自分のサイトを作っているときに、Googleアナリスティックのためのコードを入れようかどうか少し迷いました。使用しているテンプレートに、コードを入力するための欄が設けられているので、あとはただそこにコピペすれば完了なのですが、今後一切チェックする見込みがない機能をつけるのもなあ、という気持ちになったのです。
だったら代わりに、昔懐かしいアクセスカウンター(訪問者カウンター)をつけてみてはどうかとひねくれものの私は思いつきました。PVは管理者だけが閲覧するものですが、訪問者カウンターは訪問してくれた人にも開示され、もっと言えば訪問者の人も楽しめるものです(「キリ番記念にカキコ」)。
そういえば、そうしたカウンターがついていたころのWebは、運営者と読者が一体となってサイトを作り上げていくような感覚がありました。こぢんまりとしたら小料理屋の女将と常連客のようなものです。一方、今では、読者は一つの数字でしかなく、間違っていろいろな場所をクリックしてくれたら望ましいというまるでラットのような存在に変わっています。
そう考えると、同じ「Webに文章をアップする」という行為でも、ほとんどまったく別のことが行われているのだなとしみじみした気持ちになりました。どちらが良い悪いという判断はできませんが、少なくとも私は昔の方が楽しかった気がします。過去を美化しているだけかもしれませんが。
〜〜〜今週見つけた本〜〜〜
今週見つけた本を三冊紹介します。
「壁」というと私はすぐに村上春樹さんを思い出すのですが、本書は人類が築いてきた数々の壁を巡りながら、私たちがなぜ土地を切り分けようとするのかを考察しています。内容紹介にある「環境は人間の思考にどのように影響するのか?」という問いは実に興味深いものです。
激しい戦争があって、その後に平等が訪れる。いささか悲しい構図ではありますが、ピケティの『21世紀の資本』を参照すれば、ごく当然の帰結でもあります。時間が経てば経つほど、資本収益率 > 経済成長率の状態が続くわけであり、経済的不平等は拡大していきます。ということは、一番不平等が少ないのは、資本主義の市場が開始したその瞬間なのです。そして戦争は時計の針をリセットする効果をもたらします。だからといって、戦争が肯定されるわけではありませんが。
演繹でも帰納でもない、第三の推論の方法。それがアブダクションです。今結果bを手にしていて、「aならばbである」という規則を知っているとき、「もしかしてaだったのでは?」と仮説を立てることがアブダクションです。当然これは、真である保証はまったくないのですが、その分「かもしれない」という仮説(あるいは問い)を立てる力を有しています。本書はパースの思想を追いかけながら、このアブダクションが持つ力を考察していくようです。
〜〜〜Q〜〜〜
さて、今週のQ(キュー)です。正解のない単なる問いかけなので、頭のウォーミングアップ代わりに考えてみてください。
Q. キリ番という言葉の意味はわかりますか?
では、メルマガ本編をスタートしましょう。
今週も「考える」コンテンツをお楽しみくださいませ。
――――――――――――――――
2020/07/27 第511号の目次
――――――――――――――――
○「メモとその蓄積的な価値」 #知的生産の技術
○「メソッドと文字数」 #やがて悲しきインターネット
○「本を売る場所の広がり」 #エッセイ
○「本をじっくり読むこと」 #知的生産エッセイ
※質問、ツッコミ、要望、etc.お待ちしております。
○「メモとその蓄積的な価値」 #知的生産の技術
今回は、メモとその蓄積的な価値について考えてみます。
■メモを残すか残さないか
知的生産に関わる人は、大きく二つのタイプに分類されます。一つは、メモを残すことに意義を見出すタイプで、もう一つのタイプはそうでないタイプです。
小説家の中でも、メモ魔とそうでない人がいて、それぞれに成果を挙げられているのを見ると、メモなんて書いても書かなくてもどっちでもいいじゃんという気がしてきますが、ある意味でそれは正しいのでしょう。
でもそれはメモの価値が皆無であることを意味するわけではありません。残すことにはたしかに意義があるのです。
たとえば村上春樹さんは、思いついたことを手帳にメモするような習慣は持ち合わせていないと書かれています。極端なことを言えば、書き留めなければ残せないものよりも、体の奥に自然に残っている記憶の方が大切であり、それをマテリアルにして小説を書くスタイルが自分には合っている、という話です。
一方で、春樹さんはちょっと思いついた話があれば、それをさらさらと書いておき、それを引き出しにしまっておくとも書かれています。そうしたものを取り出しては、たまに手を加えたり、形を整えたりもされるようです。
この「引き出し原稿」は、手帳を持ち歩いて着想をすぐに書き留めるタイプのメモではありませんが、それでも知的生産の技術が視野に入れる「メモ」の一分類ではあるでしょう。
どのような形であっても、「メモ」は知的生産に役立つのです。
■知的生産の現場
にも関わらず、メモを書かなくてもいいじゃん、という話が成立するのは、結局のところ、知的生産の現場はいつだって「自分の頭の中」だからです。
書き残したメモAと書き残したメモBを、フードプロセッサーならぬメモプロセッサーにつっこんだら、成果物がポロンと出てくる、というわけにはいきません。書いたメモを読み返し、つまり、その内容を脳内のメモリにロードし、それを素材として知的作用を走らせるから、知的成果物が生まれてくるのです。
時制の話をすれば、何のメモも見ずに生み出した知的成果物と過去に書いたメモを読み返して生み出した知的成果物は、共に「現在」作ったものだと言えます。過去に書いたメモであっても、それを処理したのが現在であるならば、それは「現在」の成果物なのです。
だからこそ、過去に書いたメモがあったとしても、さっぱりそれを(現在の)知的生産に活かせないことが起こりえます。現在の自分の処理系によってうまく処理できなものは扱えないのです。
この視点を取れば、「メモを残すことに意味なんてない」という主張も一定の理があることがわかります。たしかに、処理できないメモを大量に残しても、知的生産に役立つことはないでしょう。
また、翻って考えれば、現在の私が思い出せるもの(記憶から取り出せているもの)は、現在の処理系によって扱えているものとイコールですから、それを使って知的生産を行えるのは至極当然の話です。
メモは、その処理系にとって「異物」になりえるわけですから、排除される思想が出てくるのもやむをえません。
■アイデア地層
話を変えます。
拙著『ハイブリッド発想術』では、Evernoteを情報の地層作りのツールとして見立てました。動物の死骸が地中に深く埋まり、長い時間が経過したときに、別の価値をもたらす変化が起きるように、書き留めたアイデアも時間が経った後に新たな価値を帯び始めるので、積極的に保存しておきましょう、という話です。
これは一種の理念の提示だったわけですが、実際のところその理念通りにはいっていません。たしかに時間が経った後に「保存しておいてよかった」と思える情報はありますが、それはタイムカプセルようなもので、化石や石油のような別の価値に変じたものではないのです。
では、なぜEvernoteが地層作りに役立たなかったのかと言えば、一つには検索で多くのものが見つかりすぎて、そもそも発掘されないという点もあるのですが、それ以上にデジタル情報が変質しない点も関わっています。
動物の死骸が地中で別のものになるのは、圧力や温度の変化を受けるからです。そうした変化を拒絶し、「完全な状態」で保存されるなら、100年経っても1000年経っても、死骸は死骸のままでしょう。そして、Evernoteにアイデアメモを放り込んでおくことは、まさにそのような保存だったと言えます。それで何かが変化が起きたとしたら驚きです。
デジタル情報の劣化しない性質が、むしろアイデアの性質を変えないという結果を引き起こしたのです。
たとえば、あくまで思考実験ですが、あるノートブックにアイデアノートをどんどん保存していくとしましょう。それが、100件となり1000件となると、最初の方に保存したアイデアノートが「圧力」を受けて、アイデアノート001番と002番のノートが混ざり合う、なんてことが起きたとしたら、それはアイデア地層になったかもしれません。
以上は、遊びのような思考実験ですが、実際に2008年に保存したアイデアノートがEvernoteには残っているので、ちょっとやってみましょう。
001番
「いつでもきっかけは本当にささいな事から始まる。」
002番
「インターネットの登場により
自分発表の場が増え、自分という認識の境界線がかなり拡がったものの、自分自身の中身がそれに対応して増えていないのでそこにギャップが生じているのではないか。」
この二つがぐちゃっと混ざり合って、無意味なテキストに生成変化(たとえば一文字ずつ隣り合う形で混ざる)する可能性もありますが、ごく単純に下のように混ぜ合わせることもできます。
001&002番
「インターネットの登場により、いつでもきっかけは本当にささいな事から始まる。」
少し意味不明な部分はありますが、何か新しいことを言わんとしていることは伝わってきます。アイデアの生成です。
ついでに003番も混ぜてみましょう。
003番
「「ゴールから決める」は本当に有効か?
ビジネスライクで直線的に仕事を進めていく場合には非常に有効な方法だが、新商品の開発や芸術的分野あるいは科学的発想でもそういったルートを
たどる思考方法はあまりにも直線的すぎて広がりにかけるのではないか。
人間の脳のスペックをフルに活用するならば、まとまりのない思考から意外な発想が出てくるのを待つとういのもそれほど間違ったものではないと思う。
人の脳の無意識の力というのは私たちが考えるよりもはるかに強力でかつ影響力があるように思う。」
001&002&003番
「インターネットの登場により、いつでもきっかけは本当にささいな事から始まる。ならば、「ゴールから決める」は本当に有効か?」
なんとなく、これも一つのメッセージが成立していますね。今の私が解釈すれば、以下のようになります。
インターネットが普及し、人々が盛んに情報交流を行うようになり、また情報流通のためのコストが劇的に下がったおかげで、新しい出来事はささいなことからスタートする。何気なくつぶやいたツイートから、新企画が生まれることも珍しくない。それは偶発的なイベントと言える。だとすれば、よくある「ゴールを決めてそこから逆算で計画を立てる」というのは現代でも有効だと言えるだろうか。
はい、一つの知的成果物(の骨子)が生まれました。三つのメモがバラバラに保存されていただけでは存在しなかったアイデアが生成されています。
ちなみに、この三つのアイデアノートは私が恣意的に選んだものではなく、本当にEvernoteの「アイデアノートブック」に保存されていたものを冒頭から三つ持ってきただけです。その三つが「圧縮」されると、新しいアイデアとなるのです。
■メモの時間的価値
上の節を注意深く読んだ方ならば、「今の私が解釈すれば」という部分に引っかかったかもしれません。実は、そこが大切な部分です。
まず、単純に言って10年前に書いたメモと、今日私が書き残したメモは等価ではありません。人権的にはもちろん等価なのですが、知的生産的には後者の方がよほど価値を有しています。なぜか。
それは、10年前の私と現在の私では、脳内の概念ネットワークの大きさや接合度合いに違いがあるからです。当然、今の方がネットワークのサイズは大きく、リンクの密度も増えています。
言い換えれば、10年前に書き残されたメモに込められていたコンテキストの濃度(密度)と、今日私が書き残すメモに込められているコンテキストの濃度(密度)は、後者の方が高いのです。知的有用性が広い、という言い方もできるでしょう。
だから、昔のメモには価値がないのだと単純な結論に導くこともできますし、それがいわゆる反メモ派の理屈でもあるのですが、そこで終わらせておくのはあまりにもつまらないでしょう。少なくとも、上の節のように新しいアイデアが生まれる事例があることも考えれば、話を止めておくのは建設的ではありません。
■メモの価値を上書きする
もう一度確認しておくと、「そのメモの価値」だけを秤に乗せれば、10年前に書いたメモと、今日私が思いついたことは後者の方が圧倒的に価値を持ちます。それは事実です。
しかし、知的生産の現場は、私の頭の中なのでした。そして、10年のうちに、私の概念ネットワークは成長しています。
よって、10年前には見つけられなかったつながりを、今の私は見つけることができます。おそらく、2008年に書き残した三つのメモは、2009年の私ではそのつながりを生み出せなかったかもしれません。しかし、さきほど確認したように、2020年の私はそのつながりを、ごくスムーズに(2分で書けました)見つけることができます。ネットワークの成長が背景にあるからです。
つまり、重要なのは10年前に自分が書き残したこと(≒そのメモのコンテキスト)ではありません。そうして書き残されたメモから、今の私が何を考えるか、です。そして、今の私が考えたものならば、それは現在的価値を持ちます。過去のネットワークのサイズではなく、今のネットワークのサイズで考えているからです。
これが、何度も「カードをくる」ことの価値です。「カードをくる」ことは、過去の私として考えることではありません。過去の私が考えたことを、今の私が考えることです。結局それは、今の私が本を読んで何かを考えることと、本質的に変わりないのです。
だから、PoICでも以前に書いたカードを読み返して、何か新しいことを思いついたのなら(そのカードに追記するのではなく)、新しくカードを書くことが推奨されています。言い換えれば、過去の思考を「取り込んだ」、現在の思考を展開していけ、というのです。
これも知的生産の現場は、常に今の自分の頭の中である、という話を参照すれば頷けることでしょう。情報を常に、新しいネットワーク下に配置していくのです。
また、先ほどの事例のように、単純に一枚だけを見返すのではなく、複数枚を見返して、それを「圧縮」するのも有効です。結局それは、情報に新しいつながりを生み出すことにつながります。その意味でも、ぱらぱらと「カードをくる」ことは有用だと言えるでしょう。
■さいごに
そうして「カードをくって」いくと、出てくるのがパターンなのですが、これもまた大切な話なので、次回改めて続けるとしましょう。
(つづく)
ここから先は
¥ 180
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?