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ポピュリズムと「トランプ現象」を位置づける

(*本記事は、2017年02月15日にシミルボンに投稿された連載「僕らの生存戦略ブックガイド」からの転載です)

今回のコラム「僕らの生存戦略ブックガイド」では、最近世界で生じつつあるポピュリズムのうねりに関する本を三冊ピックアップします。

2016年後半から2017年前半に発売された、比較的ホットな三冊です。

世界的なポピュリズムの流れ

一冊目は、『ポピュリズムとは何か』。2016年12月に中公新書から発売されています。

イギリスのEU離脱を決定づけた国民投票、そしてヨーロッパ各地で起きている反イスラムなどの排外主義。これらを生み出した「ポピュリズム」とは一体何なのか。その源流を北南アメリカで生じた社会改革運動に位置づけ、ヨーロッパ型のポピュリズムと対比させながら、現代における「ポピュリズム」が丁寧に解説されています。

ポイントは、デモクラシー(民主主義)への脅威として見られがちなポピュリズム(大衆迎合主義)を、むしろデモクラシーの機能不全が引き起こした現象と見ていることです。簡単に言えば、エリート層に「民意」が無視されていると感じる人が増えると、強いメッセージを発信してその「民意」を集める政治集団が一定量の力を持ち始める、ということです。

もちろん、その現象がヨーロッパに限られた局所的出来事でないことは、トランプ大統領の登場によってまざまざと証明されています。本書の記述はラテンアメリカ、そしてヨーロッパの話が中心となりますが、アメリカでも同じようなことは生じているのでしょう。

「現場」で今起きていること

二冊目の『ルポ トランプ王国』は、まさにそのアメリカの実情が報告されています。こちらは岩波新書から2017年2月の発売です。

大統領選が終わり、実際にトランプ氏が大統領になっても、いまだにメディアに流れてくるのはトランプ批判の声ばかりです。しかし、彼に投票した人が(圧倒的多数とは言わなくても)たくさんいたことは紛れもない事実です。その人たちは、どのような希望を託して、彼に投票したのでしょうか。

本書ではそれが徹底的に報告されています。ラストベルトと呼ばれる凋落した工業地帯で暮らす人々へのインタビューは、読んでいて胸が苦しくなってくるほどです。どこにもいけない閉塞感、未来に希望を感じられない状況。それを打破してくれる象徴としてのトランプ。ここでも見事に強いメッセージがその効果を発揮しています。

彼の発言に現実性がないことは問題にはされません。むしろ現実的な発言は、閉塞感を思い出させるだけなのでしょう。「この町の産業には、もはや未来はありません。新しい仕事をしましょう」なんて言葉には耳をふさぎ、決して取り戻すことができない過去の栄光にすがる人たちにとって、トランプ氏の強いメッセージは特に心に響いたのでしょう。

逆に言えば、これらの工業地帯が今でも栄えていたのならば、今頃大統領の椅子に座っていたの別の人だったのかもしれません。しかし、現実は現実としてそこにあります。

一つ言えることは、閉塞感や経済的困窮は、人々の心から寛容さを奪う、ということです。追い詰められた人々(あるいはそう感じる人々)が、「他国や他人のことは知らないが、俺たちのことをなんとかしてくれ」と望むのは、特別におかしなことではないでしょう。

そして、先進国もいずれかは経済的発展にブレーキがかかり、発展途上国に追いつかれる日がやってきます。つまり、どのような国であっても、同じようなことが起こる可能性は常にある、ということです。

歴史に位置づける

そのような視点に立ったとき、押さえておきたいのが三冊目である『アレント入門』です。2017年1月にちくま新書から発売されています。

ハンナ・アレント(Hannah Arendt)は、1900年代に活躍したドイツ出身の思想家。彼女は、自身の体験を踏まえながら、ナチスや全体主義について深い考察を展開しています。とは言え、彼女の本はなかなか噛み応えがあるので、まずは新書から入門してみるのがよいでしょう。

ここで考えたいのは、全体主義とポピュリズムの関係性です。全体主義とは、権威主義(「王様は偉い。皆言うことを聞きましょう」)の極端な形であり、全体のために個々人が隷従させられている状態を意味します。とすると、ポピュリズムが「民意」のストレートな発露であるならば、全体主義とは相容れない気がします。しかし、そうではありません。

ポピュリズムは、人々の不満を強いメッセージで寄せ集め、それを力の背景として既存の体制に攻撃を加えます。そこで行われるのは理知的な議論ではなく、「私はこう感じている。今すぐこうすべきだ」という感覚的な行動と判断です。

そのような意思表明が、民主主義の中で行われているのであれば、「なるほど。そのような意見もあるのだな。ちょっと施策を見直そう」と議論が改められることもあるでしょう。しかし、ポピュリズムしか勢力が存在しないなら、そこでは一切の議論が消失します。「民意」の依託を受けた人が、すべての施策を恣意的に決定できるのです。

これは、構図としてみれば全体主義と変わりありません。ようするに、問題のコアは多様な意見に基づく議論がそこにあるかどうかなのです。現代のポピュリズムが(システムであれ、物理的であれ)壁を作り、異物を排除する方に動いているのも、そのような議論の消失を予感させます。

もしもポピュリズムが、既存の体制に対するアンチテーゼに留まるのならば、それは議論に新しい風を加えてくれるでしょう。しかし、ポピュリズムが「当たり前」になってしまうと、議論そのものが消えてなくなります。そのような状態では、「民意」の依託を受けた人間が歪んだ思想を持っていたとしても、もはやブレーキはどこにも存在しません。

さいごに

少し怖い話かもしれません。しかし、これはほんのさわりです。上記の話はすべて、「じゃあ、日本はどうなのだろう」という問いを引き連れてきます。ヨーロッパとアメリカで生じたことが、日本では生じないと考えるのはさすがに楽観的すぎるでしょう。

そのような問いと向き合うためにも、世界的な政治の流れ、現実の人々が陥ってる状況、歴史で起きたことなどに触れておくのはよさそうです。そしてそれは、自らが落ち着いた議論に参加するためにも役立ってくれるでしょう。

もちろん、熱狂的な集会に参加したいのならば、まったく不要かもしれませんが。

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