対談の効能 あるいはそこから広がる話/準備運動としてのアナログノート/間違ったノートのはじめかた/拡張し続ける管理欲求を抑制する
Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~ 2019/05/06 第447号
はじめに
はじめましての方、はじめまして。 毎度おなじみの方、ありがとうございます。
第二号の発売からほんと〜〜〜〜に、長い時間が経っていますが、かーそる第三号は鋭意制作中でして、いよいよ完成が迫っております。
発売、お楽しみに。
〜〜〜自虐試験紙〜〜〜
もし、自分の行為を、自虐的に表現したくなったら、こう自問してみてください。
「まったく同じ行為を他人がしているとしたら、あなたはその自虐のことばを相手に投げかけますか?」
投げかけないとしたら、自分にも使わない方が賢明です。
〜〜〜叡智とは選択〜〜〜
「兵は拙速を尊ぶ」という兵法があります。私の好きな兵法の一つで、みっちり叡智が詰まっている(感じがします)。
しかしです。とある軍師がいて、その軍師が「兵は拙速を尊ぶ」を信奉して、常に最速の進行しか行わないとしたら、そこに叡智があると言えるでしょうか。
叡智とは、選べることです。あるいは、真なる叡智とは、叡智の中から適切な叡智を選べることです。
〜〜〜コーディングな気持ち〜〜〜
ライティングとコーディングは似ているところと、異なるところがあります。気になるのは、異なるところです。
たとえば、本の執筆はだいたい1時間ほど続けていると、急激に脳がレッドランプを点灯させるのですが、コーディングは延々とやっていられる感覚があります。
しかし、最近気がつきました。Scrapboxの発想工房で「メモを書き起こして」いると、延々やっていられる感じがするのです。プログラムのコーディングとまったく同じ感じです。
こうなると、比較対象がもっと精緻にできます。
・本の執筆
・メモ起こし
・プログラムのコーディング
つまり、「本の執筆とメモ起こしで異なる点」「メモ起こしとプログラムのコーディングで似ている点」を考えられるというわけですね。
で、その線に沿って考えてみると、発想工房のメモ起こしでは、「そのメモ」とせいぜい「関連するメモ」についてだけ考えればよく、それ以外の大きな構造については思慮する必要がないという特徴が浮かび上がってきます。
コーディングに関しても、今作っている関数部分の処理について考えればよいことが多く、毎回毎回「このプログラム全体はどうなっているのか」みたいなことは思索から省けます。非常に似通った構造です。
でもってこれは、思考の省エネでもあり、飽きにくさの担保でもあるのでしょう。
となると、発想工房的なやり方の積み重ねで本が書ければ一番簡単なのですが、なかなかそうはいかないところが本の難しいところでもあります。
〜〜〜ごまかしのフィードバック〜〜〜
中学生の頃、よく学習参考書を買っていました。「よく」というのは、一冊の参考書をやりきる前に新しいものを買ってしまう、という状況を指しています。
不思議なことに、参考書を買っただけで、何かしらを達成した気持ちになってくるのです。この辺は『無知の科学』を援用すれば多少説明がつけられるでしょうが、ここでは割愛しておきましょう。
とりあえず、「ちゃんと勉強しなければいけない」という気持ちが、なんと参考書を買うだけで埋められてしまうのです。なんだか、テレビショッピングの宣伝文句みたいですね。
もちろん、買っただけで実際に問題を解かなければ、学力があがることはありません。当然しばらくしたら、「ちゃんと勉強しなければいけない」という気持ちが復活し、それをなだめるために、再び参考書を買って気持ちを沈静化させる、というループがスタートします。
もちろんこれは、参考書以外でも、非常によくあることでしょう。
で、ここにある一番の問題は、参考書を買うことがまったくの無駄ではなく、一時的であるにせよ、気持ちが落ち着いてしまうことです。それが、フィードバック・サイクルを固定させる因子となるのです。
もし何の効能もないのならば、二冊目の購入が促されることはなく、「しゃーないから、今ある参考書をやるか」という行動の動線が生まれる可能性がありますが、なまじ気持ちが落ち着くので、その行動が再現されてしまうというわけです。
しかも、そのループが「当たり前」だと感じているので、そこから抜け出すために「もっと良い参考書を求める」という誤った指針が発生してしまう危険性もあります。そうなると、もう泥沼ですね。
だからこそ、自分の心の状態を観察しておくことは大切です。どういうフィードバックがあるのか、自分がどんな心理的報酬に応じて行動を選んでいるのか。
それに注意を払っておけば、多少は変えられる可能性を確保できるかもしれません。
〜〜〜見つけた本〜〜〜
今週見つけた本を三冊紹介します。
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幻想の家族から新たな共同性へ。家=人間と社会を調停する器、はいかに可能か。歴史を貫く共存の条件を探り、時空間を踏破して掴まれた経験知からその先のヴィジョンへ。独自の回路から放つ新たな社会思想!
<<
>>
本書は、東京大学教養学部で行なわれた講義「グローバル化時代の現代思想」をもとにしている。きっかけは、2011年の東日本大震災と原発事故だった。 この災害を近代の必然ととらえたとき、「人文学」はいかなるあり方が可能なのか? 日常の感覚から思考を再出発し、学問の世界にもう一度、人間を取りもどすこと――その試みが本書ということになる。
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>>
逆説の思想、飽くなき批判精神の射程。人間と社会における不変の真理とは何か。“現実”を見つめ直すとき、時代を超えて読み継がれてきた不朽の名著。
<<
〜〜〜Q〜〜〜
さて、今週のQ(キュー)です。正解のない単なる問いかけなので、頭のウォーミングアップ代わりにでも考えてみてください。
Q. 知的生産系雑誌「かーそる」で読んでみたい特集は何かありますか?
では、メルマガ本編をスタートしましょう。
今週も「考える」コンテンツをお楽しみくださいませ。
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2019/05/06 第447号の目次
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○「対談の効能 あるいはそこから広がる話」 #エッセイ
○「準備運動としてのアナログノート」 #物書きエッセイ
○「間違ったノートのはじめかた」 #物書きエッセイ
○「拡張し続ける管理欲求を抑制する」#BizArts3rd
※質問、ツッコミ、要望、etc.お待ちしております。
○「対談の効能 あるいはそこから広がる話」 #エッセイ
最近、のきばトークや、うちあわせCastといった番組で、対談をよく行っています。激論を交わす、みたいなことではなく、単なるおしゃべりなのですが、これはこれで文章を書くのとは違った面白さがあります。
梅棹忠夫さんは、対談について以下のように述べられました。
>>
ひとつのアイディアを、くりかえし、さまざまな場面にぶつけてみる。それによって、思想というものは、すこしずつ、こえふとってゆくのではないか。対談とか座談会というものも、そのような成長のための稽古場みたいなものともいえまいか。
<<
あるいは、こんな表現もあります。
>>
相手に触発されて、おもいもかけないことをしゃべてしまう。その新鮮な感動が、対談や座談会に出席することの魅力なのである。
<<
どちらも共に頷ける話です。
自分の中に何かしら「言いたいこと」があるとしましょう。それはアイデアであっても構いませんし、問題提起や疑問であっても構いません。大切なメッセージということもあるでしょう。
何にせよ、その「言いたいこと」について自分ひとりだけで考えている場合は、その「言い表され方」(≒表現)は、かなり狭い領域に限定されます。そのときの自分が想定している文脈の範囲内に留まってしまうのです。
あるオブジェクトがあり、それを立って眺めている自分がいる。自分がどれだけ首を動かしても、そのオブジェクトを見据える視点はそう大きくは動かない。そのような感じが近しいかもしれません。
これがひとたび対談となると、ぐるりと大きく動き始めます。
自分とは違うところに立っている人からの疑問が発せされれば、自分もその立ち位置に引きずられることになります。
自分とは違う領域で活動している人に、自分の考えをなんとか伝えようとしたら、それまで使っていた「たとえ話」とは違ったものをなんとか考えようとするかもしれません。それもまた、自分の立ち位置を変えることにつながります。
そんな立ち位置の変更の結果、自分自身のオブジェクトの見方が変わり、新しい発想が生まれる。対象を、より立体的に捉えられるようになる。そのような効果がたしかにあります。
■対談的発想法
以前のメルマガで解説しましたが、「文章を書くこと」が発想法の一つであるならば、対談することもまた発想法の一つだと言えるでしょう。しかも、文章を書くのとはまた違った効能を持つ発想法です。
たとえば、以前のうちあわせCastで、ゲストのTak.さんから、
「言ってみれば、これは倉下さんのこれまでの著作の集大成のようなものですね」
と言われたことがあります。『僕らの生存戦略』という本の企画案について話していたときのことです。
私はそのとき、ものすごく大きく目が開かれたような気がしました。「ハッと気がつく」という表現がありますが、この「ハッ」とfont-size:256pxくらいで表示したら、そのときの私の感覚をうまく表現できているでしょう。
言ってみれば、自分ひとりで考えていたときの私は、象の鼻だけを見ていたのです。ブラブラと動くそれを見て、「フムフム、良さそうじゃないか」とは思っていたのですが、その鼻を支える巨大な体躯については全然目に入っていませんでした。
でも、たしかにその体躯はそこにあったのです。他者から指摘されてみてはじめて「それ」を目にすることができました。そして、一度見えてしまったものは、「見なかった」ことにはできません。
認識が変わり、感覚が変わり、世界が変わっていきます。
結局それ以降、『僕らの生存戦略』の舞台のようなものはぐっと広がりました。それまでは国技館の土俵サイズだったものが、一気に国立競技場のサッカーフィールドサイズになってしまった感覚です。
もちろん、その感覚の変化は、アウトラインの変化も引き起こします。より大きなもの、より広範囲なものを、『僕らの生存戦略』のアウトラインは飲み込んでいくようになりました。今ではもう、ちょっと笑えるくらいに巨大な大風呂敷が広げられています。
それをまとめていくのが、次なる私の任務です。
■シンプルな異なるやり方
前回でも少し紹介しましたが、『僕らの生存戦略』の章立て作りは、これまでの執筆とはかなり異なったアプローチを取っています。
先に章レベルの構造を作らずに、内容になりそうなものをただただ一列にならべていく。項目をリニアにつなげていく。そういうやり方です。
正直なところ、はたしてこんなやり方で「目次案」ができあがるのだろうか、という心配はありました。五分五分よりも確率は悪いのではないかという予想すらありました。しかし、結果的にこれはうまくいきました。章レベルの構造ができあがったのです。
やったことは、非常にシンプルでした。
まず、何かしら関係性がありそうなものに関しては、そのアウトラインに並べるようにします。思いついたこと、事例になりそうな記事、紹介したい本、エトセトラ、エトセトラ。
そして、ごくたまにそれらの項目を移動させます。「近しいものを集める」というよりは、「この話とこの話はセットにできるな」というものを一緒にしておく。そんな感覚です。
◇『僕らの生存戦略』 - 倉下忠憲の発想工房
https://scrapbox.io/rashitamemo/%E3%80%8E%E5%83%95%E3%82%89%E3%81%AE%E7%94%9F%E5%AD%98%E6%88%A6%E7%95%A5%E3%80%8F
これを繰り返していくうちに、少しずつ「似た性質」を持つ項目が増えてきました。たとえば、「こういう章題はどうだろう」・「この本について言及しておきたい」・「この本は○○風に語られた方がいいかもしれない」といったアイデアたちです。
これらは、本文に直接組み込まれるものではないので、いったんアウトラインから切り離して別ブロックにしました。といっても、Scrapbox上では一行の空白行を入れてその下に移動させただけです。一つの画面上には表示されているが、アウトラインとしては連続していない。そういう状態にしたわけです。
そのようにしてアウトラインを膨らませながら、内容以外のものはパージすることで、(内容的)純度の高い「アウトライン」が抽出できました。
あとは、それを「読んで」いくだけです。
恣意的な章立てによって区分するのではなく、まず、全体としてそのリニアなアウトラインを「読んで」いく。
それをず〜〜〜〜〜〜〜〜と繰り返していたところ、ふと閃きが舞い降りてきました。やや大げさながら、それは天啓と呼ぶにふさわしいきらめきを持っている閃きでした。
■cut a pizza
先ほど、「恣意的な章立てによって区分するのではなく」と書きましたが、もちろん「どういう塊(章)を作ればいいのか」については、ずっと意識していました。塊を求めつつ、「読んで」いた、ということです。
そして、それは急に訪れました。「戦略と人生デザイン」という章立てを思いついたのです。
いや、思いついたというよりも、浮かび上がってきた、という方が適切でしょう。数学の図形の問題をみたときに、「ここに補助線を引けば、問題解決が容易になるに違いない」と直感的に閃くことがありますが、それに近しいものだったと思います。
そこからの展開は急激でした。一つの章の枠組みが見えてくると、とたんに他の枠組みも見えてきます。ある項目(≒章)の粒度が固定されると、その他の項目の輪郭線もいやにはっきりと浮かび上がってくるのです。
この「現象」を説明するために、私はうちあわせCastの中で、「ピザを切る」という喩えを用いてみました。
そこにあるピザをじ〜〜〜と眺めていれば、「ここに切り目を入れれば、コーンがうまく分配されるな」とか「ここから切れば、ベーコンを無理に切断しなくてもいい」という、適切な切れ目の入れ方が見つかるでしょう。
そして円形のピザに真っ直ぐな切れ目を一つ入れれば、自然とその他の切れ目の入れ方も決まってきます。垂直に入れれば四分の一になりますし、さらに半分にして八分の一にもできます。
一つの切れ目が、他の切れ目の決定へと連鎖的に影響していくわけです。
■私の選択
もちろん、こうした切れ目の入れ方は、一つの恣意的な選択にすぎません。ピザの切り方はほとんど無限に存在しています。よって、私の選択が「正解」である保証などどこにもありません。
しかし、私の目にはこういう風にピザが切れるのだと見えたのでした。そして、そう切るべきだとも感じました。だったら、その道を進んでいくしかありません。
なんと言っても、その切り口を発見した私がその本を書くのですから。
■可能な異なるやり方
そのような切り口で書かれる本が、はたして面白いのかはさておき、この体験は私にとっては非常に刺激的でした。
これまでは、まず先に箱の形を作り、その形に合わせるように中身を充填させる、というやり方をしていまた。もちろん、充填した中身に合わせて箱の形を作り変えることはザラでしたが(≒シェイク)、それでも最初にたたき台としての章立ては作っていました。いや、そうやって本は作るものだ、という先入観があったと言ってもよいでしょう。
なにせ1冊目の本を書いたときも、出版社さんに最初に言われたのが「目次案をください」という要請でした。その目次案が判断材料となり、企画が進んでいく。そのやり方が、あたかも原風景のように私の脳に焼き込まれていました。
しかしながら一方で、私は小説を書くときにプロットを作りませんし、プレゼンテーションのスライドを作るときにも話の流れだけで内容をまとめてしまいます。「最初に章立てを作る」以外の、コンテンツの作り方は、私の脳内にしっかり存在しているはずなのです。
だったら、本作りにもそれが使えるのではないか。
そんな仮説を持って、今回の企画案に臨んでいたのですが、やはりそれは可能だったようです。
まずありのままの素材を並べる。そして、その素材群から浮かび上がってくる「切れ目」を探す。
ここで言う「切れ目」は、単なるメタファーではありません。発想工房で公開しているアウトラインをご覧頂ければわかりますが、私が作った「章レベル」は、まっすぐに長く続くアウトラインの「節目」としか機能していません。上から構造を支配するものではなく、「ここは休憩所です」のようにある切り替え地点を示す看板のような存在です。
言い換えれば、「この辺で話を区切れば、収まりがいいかな」という便宜的な切り目であって、形式段落という表現をもじれば「形式章立て」という言い方もできるかもしれません。
結果的に生まれる構造に、身を任せること。流れ=構造。
そういうやり方でも、本が作れそうな予感が(今のところ)あります。
■自らの欲求
おそらくこういう書き方は、一般的な「本の書き方」ではあまり登場しないでしょう。少なくとも、「論文の書き方」的な本で見かけたことはありません。
で、なぜ自分はこうしたやり方を開発したあげく、あまつさえそれを一つの方法として紹介しようとしているのか、という疑問がふと浮かんだのですが、その問いはより根源的な問い、つまりなぜ私のような特に目を惹く肩書きを持たない人間が「知的生産の技術」に興味を注ぎ、その普及に力を入れているのか、という疑問へと接続していきます。
よく考えれば、結構不思議なのです。
で、その問いについて改めて考えてみると、やはり「学者でもジャーナリストでもない人のための本の書き方」を提案したいのだ、という自身の欲求へと行き着きます。
別の言い方をすれば、「自分(のような人間)でも本を書いていいんだ」と思えるような背中の押し方をしてみたいと、願っています。
いや、むしろ、私のようなアカデミズムともジャーナリズムとも遠い場所にいる人間にできる「自分の仕事」と言えば、やっぱりそういうことしかないのだろうな、という気持ちが実態に近しいのかもしれません。
■新しい人のための本の書き方
梅棹忠夫さんが予見したように、現代は情報社会となり、メディアが身近となって、パブリッシング活動はさまざまな媒体で盛んです。
しかしながら、それぞれの人が持っている知見が「本」の形で発表されるという現象はまだそれほど活発になっていません。技術書典のようなコンピュータ界隈だけがその例外と言えます。
しかしながら、宣伝広告・教師・コンビニ店長・交通整備員・主婦(主夫)・エトセトラ・エトセトラと、ノウハウを持っている人はこの社会にたくさんおられます。それを、「ひとまとまりのコンテンツ」として発表することで、対価をもらえたり、たまに世間から評価されたりする。そういうことが起こりやすくなるためには、KDPのようなプラットフォームの整備だけでは十分ではないでしょう。書き手がコンテンツを作り出す技術・ノウハウも必要になってきます。
しかし、現実的に「本の書き方」として提示されるものの大半は、論文の書き方か小説の書き方です。むろん、そうしたノウハウが悪いわけではありませんが、限られた視野になってしまう点は否めないでしょうし、そのノウハウが持つ硬さや重さにひるむ人も出てくるかもしれません。
だからこそ、それとは違った「本の書き方」を提示してみたいのです。
でもってそれは、結局のところ、「自分のような人間」を増やすためだと言えるのかもしれません。本を書くことで、一つのきっかけを得る人が、ひとりでも増えたらいいな、という願いが根底には眠っています。
■おわりに
とは言え、別段私は最初から「素人のための知的生産技術を開発しよう」と考えて今のような活動を始めたわけではありません。自分の興味と、さまざまな経験、そしていろいろな人との交流によって、徐々にこういう方向に進んできた、というのが正確なところでしょう。
先に階段を作って、そのステップを一つひとつ登って来たわけではありません。一つの語りを終えるたびに、その語りに関係する、次なる場所を目指して進んできただけです。
その中には、自分で出した決断もあれば、他者から影響を受けた決定もあれば、否応なしに押しつけられた運命もあります。どれも、すべて自分の人生です。一つのリニアな語りです。
あとは、どこに節目を入れるかの選択でしかありません。
(おわり)
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