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やるおわとバーク

『100分de名著 オルテガ『大衆の反逆』』を読んでいたら、エドマンド・バークに言及している箇所に遭遇しました。

以下のようにあります。

私たちは理知的であればあるほど、あるいは理性的に世界や自分たち自身を見つめれば見つめるほど、自分たちの不完全性という問題に突き当たらざるを得ない。どんなにIQの高い人間でも間違いは犯すし、どんな秀才でも世界全体を正しく把握することなどできない。とするならば、不完全性を抱えた、間違いやすく誤謬に満ちあふれた存在であるということが、私たち有限なる人間の普遍的な姿ではないか、とバークはとらえるのです。

いや〜、バークさん、いいこと言うな。1970年代を生きた人が、行動経済学視点をちゃんとキープしているよ、なんて思いながら続きを読みます。

その誤謬を含んだ人間という存在が、完成された社会をつくることができるはずがない。常に暫定的であらざるを得ず、一足飛びに高みに到達できない。その認識に立った上で、どこまでも不完全な世の中を何とかやりくりしていくしかなというのが彼の人間観・社会観でした。

いや、びっくりしました。これってまったく『「やること地獄」を終わらせるタスク管理「超」入門』(以下やるおわ)の視点と同じです。上の引用に出てくる「社会」を「タスク管理」に置き換えれば、まったくそのままやるおわの主張に重なります。

その誤謬を含んだ人間という存在が、完成されたタスク管理システムをつくることができるはずがない。常に暫定的であらざるを得ず、一足飛びに高みに到達できない。その認識に立った上で、どこまでも不完全な私と環境の関わり合いを何とかやりくりしていくしかない。

ほら、やるおわです。唯一違いを挙げるとすれば、不完全であるからこそ、ハックできる余地がある、というナッジ的な視点の有無でしょうか。やるおわは、とことん究極まで人間存在に絶望はしていません。愚かしいながらにできる何かはあるだろう、という希望が込められています。

ともあれ、引き続き読んでいきましょう。

バークはまた、「復古」「反動」「進歩」のいずれの主義に対しても懐疑的でした。

そうなんです。やるおわも「復古」「反動」「進歩」の三つには懐疑を投げかけています。まず復古ですが、ガチガチの管理主義ですね。人間は不完全な存在だから、より完璧な存在に管理してもらおう、というのは危ういです。だからといって、管理が不完全なものにならざるを得ないのだから、管理なんてまったくやめてしまえという反動的な態度でもありません。

でもって、一見わかりにくいかもしれませんが、進歩主義でもありません。人は前に進むべきだという主張はまったくなく、前に進む選択肢を選びたいときに選べるといいよね、くらいの強度でしかありません。赤の女王仮説ではありませんが、進歩し続けるって、けっこう疲れるんですよ。ひとりの人間は、なかなかそれについていけません。「もっと、もっと」と求め始めるとキリがありませんからね。進歩というよりは、問題があったら修正しましょう、くらいの感じが楽チンです。

さらに以下の部分。

私たちの「現在」は、膨大な過去の蓄積の上に成り立っています。私たちが担うべき改革のための作業は、その過去から相続した歴史的財産に対する「永遠の微調整」なのです。この「微調整」をずっと続けていくというのが、バークの思想のエッセンスであり、保守思想そのものなのです。

さすがに私は、ここまで過去の遺産を絶対視することはできませんが(愚かしい営みが長く続いてきたこともあるでしょうから)、それでも、上記の話を社会システムではなく個人に読み替えることはできそうです。

たとえどのようなものであれ、現在の私たちは、膨大な過去の蓄積の上に成り立っています。世界五分前仮説が仮に正しいのだとしても、38才の男性は、38年分の歴史を持っているかのように世界は創造されるでしょう。言い換えれば、そのような歴史の厚みを持ったニューロンネットワークが脳内に形成されているはずです。で、現在の私たちの行動や決定は、その存在にいやおうなしに影響を受けます。そして、そこには猛烈な生存者バイアスがかかっています。

38才の男性が持つ歴史とは、38才の彼が受けてきたあらゆる刺激の総体です。その中には、有用なものもあれば、有害なものもあったでしょう。しかし、彼はその時点で生きています。生存しています。ここで、生存のために必要なものを割り出そうとすれば、その有害なものもまた、必要だと認識されてしまうでしょう。だって、彼はその刺激を受けて、今生きているのですから。あやうい「成功法」の誕生です。

このことは、いったん社会システムに置き換えてみれば理解しやすいでしょう。奴隷を大量に抱える資産家がいたとして、「奴隷は過去から受け継がれてきた歴史的財産なのだ。これがあるおかげで社会システムが維持できているのだ。それを壊すなんてとんでもない」と言い出したら、「?」と感じるでしょう。ひとりの人間の中にも、同じことが起きえる、ということです。

だから、歴史的財産を絶対視することはできません。しかし、そうであっても、私たちが過去の蓄積から一気に自由になれることはない、という点はたしかにその通りです。その過去の蓄積(財産であれ負債であれ)と、なんとかつきあって、やりくりしていくしかない、というのが人間の営みではあるでしょう。

そういうのを一気に(あるいは一瞬で)投げ捨てるための自己啓発は、基本的に信用しないほうが吉です。その瞬間はたしかに楽になりますが、結局は非現実なものであり、しかもそれ自体が過去の蓄積として積み重なってしまいます。それが一定の高さになると、抜け出ることは相当に難しくなります。精神的な「はしか」では済まなくなるのです。

だからまあ、早めのワクチンは結構大切だと思います。


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