理想と均一からの転換
ようするに、転換の打ち出しだったわけです。だから、怖さはありました。
なんのことかと言えば、#やるおわ こと『「やること地獄」を終わらせるタスク管理「超」入門』です。
自分としては、自信を持って送り出せる内容ではあります。面白い本だと思っています。しかし、これまでのセルフマネジメント本とはかなり異なったメッセージを持っていることも確かです。ほとんど異文化とすら言えるかもしれません。
はたしてそれがどのように受容されるのか。これがまったくわかりません。
でも、だからこそこの本は書いておきたかったのです。
そろそろ転換のタイミングだと思うからです。
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「やるおわ」は、二つの試みを持ちます。
一つは「ヤバい仕事術」、もう一つが「あなたの方法で良いんです」です。
「ヤバい仕事術」というのは、『ヤバい経済学』からのインスピレーションなんですが、ようするに行動経済学的な視点を入れたセルフマネジメントって必要ですよね、という話です。
たしか『マニャーナの法則』でも人間には"衝動の脳"と"理性の脳"の二つがあるという話が出てきましたが、これは『ファスト&スロー』のシステム1とシステム2に対応しています。で、この二つの協調システムによって、人間の行動は生まれているという話が、最低限必要だと考えました。
従来の(自己啓発の系譜に連なる)セルフマネジメントには、あたかもシステム2(理性の脳)こそがもっとも「人間的」なものであり、それを体現することが至高なのである、という価値観が組み込まれています。たとえば『7つの習慣』なんてまさにシステム2の塊です。
もちろんそれはそれで立派な話なんですが、現実の人間というのはそういう濾過された(あるいはイデアだけによって成り立つ)存在ではありません。システム1はすごく強力なものであり、そもそも無視することなんてできない点もありますが、それ以上に、システム1とシステム2の「協調」こそが人間性を支えている、という点が大切です。言い換えれば、ある種の愚かしさとある種の理性が綱引きしているのが人間なのです。システム1をカットしてできあがるのは、最高の人間ではなくバルカン人でしょう。それは予見されるよりも、素晴らしいものではないはずです。
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理想化された人間に合わせて、自分の管理を行うことの無理さ加減を本書は指摘していますが、その視線は、理想化(あるいは標準化)された人間に合わせて、人間の管理や評価を行うことを当たり前だと考えている社会システムにも向いています。
システム2だけで構成された人間を基準にして、それに合わない人間を減点するやり方が、どれだけの歪さを人間に押しつけているのか。それをもうちょっと考えた方がいいです。
とは言え、この話は今の社会ではほとんど受け入れられないでしょうし、馬鹿にだってされるかもしれません。でも、少しずつ変わりつつある感触も受けていますし、可能であるなら変わった方が良いでしょう。
たとえば、倉貫義人さんの『管理ゼロで成果はあがる』では新しい会社のマネジメントスタイルが紹介されていますが、そこにあるのは「管理」についての新しい考え方です。もっと言えば、「会社」の在り方を均一に捉えない視点です。当然それは、そこで働く人を均一に捉えない視点と相似になります。
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人間の行動が、システム1とシステム2の綱引きで発生するのであれば、その結果は均一ではないはずです。
理性だけならば、同じ条件を与えられたときに出てくる答えは一様になるでしょう。衝動だけでも似たり寄ったりになるはずです。でも、現実はそんな風にはなっていません。私たちは感情を持ち、経験を積み、歴史を学び、他者と会話します。まったく同じなんてことはないはずなのです。でも「まったく同じであった方がいい。むしろそうあるべきだ」のような考え方があちらこちらにあります。
はっきりいって、それって変です。
別にGTDがうまくできなかったからって、単に自分には合わなかっただけでしょう。あるいは、そもそも求めているものが違っていたのかもしれません。でも、そのときに、なんだか自分が劣っていると感じられるなら要注意です。この社会に蔓延する空気を吸い込み過ぎているかもしれません。
それに、「やるべきこと」を十全に完璧にこなせる人間があたかも素晴らしいと認識されている風潮がありますが、それって本当でしょうか。絶対的にできないことが「やるべきこと」に設定されていたらどうするのでしょうか。あるいは本来はやるべきでないことが「やるべきこと」だと設定されていたら。そのような状況において、無批判に「やるべきこと」を実行することが、本当に素晴らしい状況なのでしょうか。
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はっきり言って、こういうことを考える人間は、従来の(特に日本の)会社では嫌われると思います。「言われたことをやっていればいい」「要求されたことをこなすべきなのだ」というのが基本的な空気感だからです。
昔はそれでもよかったのかもしれません。ドラッカーが賞賛したように日本の企業は小さな共同体としても機能していてて、いわば会社=社長は親のようなもので、社員全体を庇護下に置いていたところがありました。だから、社員も安心して働くことができた、尽くすことができた。それは、たしかに幸せな一時代だったのでしょう(もちろん、見えない歪みはいくつもあったとは思いますが)。
ただ、その「社長/親」という構図を用いてみると、自然に思い浮かぶのが毒親という概念です。そのまま翻訳すればブラック企業ということでしょう。「言われたことをやっていればいい」「要求されたことをこなすべきなのだ」が成立するのは、相手が信頼できる場合だけです。信任をおけるからこそ、判断を一任できる。その前提条件を抜きにして、命令だけが残ることがいかに奇妙で歪んでいるのか。そういう話がじわじわ気がつかれ始めているのではないでしょうか。
でもって、そういう状況へのごくごくシンプルな対策は、無自覚に「やるべきこと」を受け入れないことです。考えること、判断すること。それが大切です。
これは単に、簡単にタスクを増やさない(≒断る)ことだけを意味するのではありません。自分にとって何が「やるべきこと」なのかを考える頭を持つ、ということです。これを外してしまうと、「やること地獄」からは抜けられません。
だから本書では、タスク管理の導入書でありながら、「タスク管理することそのもの」すらも相対化しています。「タスク管理すべき」を押しつけない。管理したければすればいいし、そうでないと判断するならしない。本書に通底するメッセージを損なわないためには、これは譲れないラインでした。安易に「タスク管理は素晴らしいんです。これはすべきことなんです」と訴えかけてしまっては、王の首をすげ替えたにすぎません。
だから本書は、説得力という意味では、あまり迫力めいたものはないでしょう。人が考えることを停止させ、そこに私のメッセージを押し込むような形にはなっていません。むしろ「もっと考えてみましょう」と促しています。そしてただ考えるだけでなく、いろいろ試してみることも推奨しています。
そうやって「自分の方法」を作り上げていくと、自然と均一化された方法とは距離が出てくるでしょう。ある程度近い部分もありながら、結構違う部分もあり、そうやってそれぞれの人の生活が成り立っていることに気がつくでしょう。その発見こそが、多様性を認めることだと思います。「かるあるべし」から離れた思考(というより認識)です。
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というような話は、本文中にはほんんどまったく出てきません。でも、そういうメッセージが全体にわたって振りかけられています。
もちろんこの「味」が好みでない方はいらっしゃるでしょう(人間は多様だからです)。でも、まさにこの味を求めていたんだ、という方もいらっしゃると思います(人間は多様だからです)。
でもって、今執筆を進めている『僕らの生存戦略』も基本的にこの味付けで調理中です。そちらもご期待ください。
この記事はR-styleに掲載した記事のクロスポストです。
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