大きな声では言えない「読まない読書術」
(*本記事は、2017年02月08日にシミルボンに投稿された連載「僕らの生存戦略ブックガイド」からの転載です)
これから若い世代向けの読書案内を行っていきます。テーマは「生存戦略ブックガイド」。
ライフスタイル・働き方・時事問題・仕事術・情報整理術・デザイン・文芸・哲学・批評・経済・法律などなど、これからの厳しい社会でなんとか生き延びていくために有用そうな書籍を広くピックアップしていきます。
それぞれのカテゴリでは3〜5冊の本をまとめて紹介していきますので、気になった本を手に取る・立ち読みする・図書館で借りる、などして頂けば幸いです。週一回、水曜日更新予定です。
さて、さっそく第一回のテーマですが、読書術をお送りします。それも「読まない読書術」です。
読書道とは「読まないこと」と見つけたり
「読書というのは、最初から最後まできちんと本を読むことだ」
と思っていた時期が私にもありました。言ってみれば、≪読了の呪縛≫にかかっていたのです。その呪縛の内側にあっては、本は最初から最後まで読むべきものだし、その数を増やせば増やすほど良い、という価値観が育ちます。読むことに対しての強迫観念のようなものが芽生えるのです。でも、その価値観ってほんとうに正しいのでしょうか。
むしろ今の私はこう考えています。読書の本質とは、いかに読むかと共に、いかに読まないのかにもある、と。
とはいえ、このような疑義は、あまりおおっぴらには語られません。建前としては、読了=善となっています(そしてそれにも一応の理由があります)。そこで、この≪読了の呪縛≫から解き放ってくれる、あまり語られない読書の技術をつまびらかにしてくれる本を三冊紹介してみます。
悪書は読むな
一冊目はショウペンハウエルの『読書について』。岩波文庫と光文社古典新訳文庫から発売されています。
岩波文庫版は格調高いキリリとした文体、光文社古典新訳文庫はやや現代的な柔らかい文体で翻訳されています。読みやすいのは光文社版の方でしょうが、書棚に並べておくとかっこいいのはやっぱり岩波版かもしれません。収録作品は同じですので、好みの方を選ぶとよいでしょう。
収録されている三編のうち、「思索」(岩波文庫版)と「読書について」(同)が、本を読むことについて言及されています。とても薄く短い本ですが、まずはその二つだけに目を通すのもよいでしょう。40ページぐらいで読了できます。
さて、そこでは何が語られているのかというと、著者のショウペンハウエルは非常に辛辣な物言い連発しているのですが、それをさらに濃縮すると、「ろくに頭を使わないでくだらない本ばかり読んでいる奴はバカだ」となります。現代なら炎上案件ですが、彼の生きた時代ではどうだったのでしょうか。案外、似たような状況だったのかもしれません。
彼は「思索」の中で、「読書は思索の代用品にすぎない」と言い切ります。自分の頭を使う代わりに、他人にものを考えてもらう行為だと言うのです。そうしたことを繰り返すと、愚者になるとまで言います。おそろしく他人を見下した態度です。しかし、どこか彼の発言には聞き逃せない響きがあります。
ソーシャル時代においては、この「我遅れじ」な気持ちが強くなりやすい傾向があるのではないでしょうか。その気持ちに押されて、むやみやたらに本に手を出してしまう。特に読みたくもなく、読んでみても満足度の低い本を手にとってしまう。そもそも、自分と相性の良い本の数などそんなに多いものではありません。むやみやたらに手を出せば、ヒット率が下がるのは必定でしょう。
もちろん時流について知っておくことは有用でしょうが、少なくとも「我遅れじ」な気持ちで本を手に取らないようにするだけでも、読書体験は変わってきます。
そもそも読むな
二冊目は、ピエール・バイヤールの『読んでいない本について堂々と語る本』です。一見すると、アフィリエイトブログのブートストラップ本のようにも思えますが、そういうわけではありません。むしろこの本は、教養について書かれています。
著者が主張するのは、「語るためであれば、別にその本読む必要はない」ということ。さらに、「本なんか読まない方が全体像が理解できる」とラディカルなことも言っていますが、さすがにそれは言い過ぎかもしれません。
しかし、たしかに有名な作品であれば、たとえまったく読んだことがなくても、その本を話題に上げることは可能です。シェイクスピアの『ハムレット』を読んだことがなくても、それがどんな作品であるのかは多くの人が知っているでしょう。語るだけならば、それでも十分というわけです。
そのような観点から、著者は教養の在り方を「網羅性を目指すもの」であり「断片的な知識の集約に還元されるものではない」と説きます。『ハムレット』の冒頭三行に何が書いてあったのかはさほど重要なことではない、というわけです。
ショウペンハウエルは、悪書など読んでいる暇はないと述べましたが、バイヤールはさらに一歩前に進めて、良書であろうが古典であろうが別にそれらをすべて読む必要はないとまで言っています。
これは現代では実にありがたい助言です。なにせ、時間が経つにつれ古典と呼べる作品の数は増えていきますし、リアルタイムで生み出される新作の数は爆発的に増加しています。とてもではありませんが、そのすべてを読了することなどできません。せいぜい、それらがどのような位置づけ・関係性を持っているかを知るに留まるでしょう。それでも、一定量の教養が──つまり世界の在り方についての知識が──あると言えるのだとしたら、これは救いの言葉となります。
読まなくても気にするな
三冊目は『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』。ウンベルト・エーコとジャン=クロード・カリエールという無類の読書家の対談が収められた本です。これまでの二冊に比べてずっと分厚いので心してかかってください。
本書では、バイヤールの本が言及され、エーコ(イタリヤの作家、2016年没)がその内容を肯定しています。「彼は間違ったことを言っていないと思います」。
ここまではバイヤールと同じなのですが、ここからが味わい深いひねりとなります。
たとえば、現代の日本人作家には、芥川龍之介や夏目漱石の作品から影響を受けている人が多いでしょう。となれば、そうした現代作家の作品を読むことは、間接的に芥川や夏目の作品から影響を受けていることになります。
また、『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』と『読んでいない本について堂々と語る本』の関係のように、ある本の中で別の本が言及されていることも多く、一切バイヤールの本を読んだことがなくても、エーコの語り口に触れることで、それなりに『読んでいない本について堂々と語る本』に書かれていることがわかる、というようなことは枚挙にいとまがありません。バイヤールが言っていることも、基本的にそういうことです。
文化というのは、そうしたある文化的要素と別の文化的要素の編み目のようなつながりの総体(≒ネットワーク構造)のことであり、教養はそれに関する地図を知識として有している、ということを意味します。ここで読むことと読まないことが融合します。
本を読み進めれば進めるほど、他の(そして読んでいない)本の知識も増え、教養の全体像は広がっていきます。一冊の本の裏側には、たくさんの本が連なっているのですから、本を読むことは、それらに連なる数多くの本の影響も受けることになります。
となれば、読んでない本について、そんなに焦る必要はないのかもしれません。もちろん、それなりに本を読んでいるのなら、という前提はつきますが。
さいごに
今回は、「読まない読書術」について紹介してみました。
これは言葉通りの「一切の読書をしない」ことではなく、読む本を選択し、読めていない本についてはあまり気にしないというスタンスを意味します。そしてこのスタンスは、本の読み方だけではなく、現代的な情報摂取において全般的に通用する考え方でもあります。
ぜひ、気になった本があれば直接読んでみてください。もちろん、このスタンスを適用して、「それなりに書いてあることがわかった」としてしまうのも一手です。
さて、私は上記三冊をちゃんと読了したのでしょうか。それはご想像におまかせします。
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