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タスク管理と知的生産の技術/書く行為との距離感/断片に手を掛ける

Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~ 2019/08/26 第463号

はじめに

はじめましての方、はじめまして。 毎度おなじみの方、ありがとうございます。

「ブンゲイファイトクラブ」なるものが始まるようです。

ブンゲイファイトクラブ開催のお知らせ
http://dog-and-me.d.dooo.jp/bfc001.html

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 文芸作品のオープントーナメント、作品による殴いあいです。
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文芸作品のガチバトルということで、なんと「どどいつ川柳、俳句、短歌から、小説、 歌詞、エッセイ、シナリオ、評論、紀行、どんなものでも受けつけます」という完全異種格闘技戦となっております。

これ、審査する人たいへんでしょうね……。

公募受付は9月1日からとのこと。腕に覚えのある人(そんな人いるかどうかはわかりませんが)は、チャレンジしてみてはいかがでしょうか。

〜〜〜倉下から始めよ〜〜〜

『川上から始めよ』という本を書店で見かけました。

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 「川上」とは、仕事のそれぞれの場面において、一番上流にあり、川中、川下を決めていく背骨になるもののことだ。そこで旗印として掲げる言葉は長くなればなるほど伝わらない。企業の「理念」を一行に凝縮したフレーズを「川上コピー」と名付けた著者が、経営、マーケティング、プロジェクト、リーダーシップなどにおける「川上」の重要性と、成功に繫がる一行のコピーのつくり方、それをどう川中、川下に生かしていくかについて解説する。
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トップダウン構造の上部に位置するものに働きかけるための方法論、といったところでしょうか。面白いのは、著者の名字も「川上」だという点で、この「川上コピー」という名称には、手法が持つ意味内容と、その提案者の名字の二重の意味がかかっています。KJ法は単に発案者のイニシャルを取っただけなので、それに比べると遊び心が感じられますね。

となると、ほとんど当然のように「倉下から始めよ」というフレーズについて考えてみたくなるのですが、一体全体、倉の下からスタートして、どこに辿り着くかというと、どこにも行けそうにありません。なんといっても、倉の下なんて狭くて薄暗い場所で、どこにもつながっていないのです。

あるいは、倉の下にはどこか別の場所につながる穴が空いているのかもしれません(ちょっと村上春樹的ですね)。そうだったら、楽しそうです。

〜〜〜身分の固定感〜〜〜

最近ちらほらと「上級国民」という言葉を目にするようになりました。だいたいはゴシップ的な話題ですが、とある新書のタイトルにも使われていて、ちょっとびっくりした次第です。

「上級国民」という言葉の裏側には、当然、上級でない国民が想定されているのでしょう。持てるものと、持たざるもの。わかりやすい二分法です。

思い返してみると、少し昔には「勝ち組・負け組」という二分がありました。前者は社会的成功を収めた人たちであり、後者はそれができなかった人たちを意味します。カテゴリー的には「上級国民」と近しいニュアンスではありますが、そこには確かな差異があります。

一つには、「勝ち組」に比べて「上級国民」の方が、特権を有している感覚が強い点です。しかし、それ以上に、「一度固定されてしまった身分は、動かしようがない」という感覚の方が強い差異として感じられます。

一度「負け組」になった人が「勝ち組」へと転向するのは、かなり難しそうですが(あるいは、そのように捉えられていると想定しますが)、逆に言えば、何かしらの幸運が舞い込んでくれば「自分も勝ち組に」という希望(≒未来に対する明るい感覚)を持つことはできます。

しかし、「上級国民」には、そのような感覚を湧きおこさせる要素はいっさい感じられません。「あいつはあいつら、俺たちは俺たち」のような、明確な線引き──というよりもそれは屹立する高い壁──が感じられます。

おそらくその感覚は、この社会に充填する閉塞感と呼応する感覚でもあるのでしょう。

〜〜〜ぼくのかんがえたの〜〜〜

Scrapboxを使い始めたころは、いろいろ不満がありました。「もっと、こういうことができたらいいのに」と願うことがたくさんあったのです。

しかし、今ではそんなことはほとんど思いません。単に慣れたこともあるのでしょうが、それ以上に「もっと、こういうことができたらいいのに」と思うことができなくてもいいんだな、ということに気がついたからです。むしろ、できない方がいい、と思うことすらあります。

なぜ、それに気がついたのかと言うと、Scrapboxはカスタマイズできるからです。

たとえば、ページ内の強調記号を見出しとして扱い、即座にジャンプできるUserScriptを導入したことがありました。そのScriptを使えば、縦に長いページでも簡単にジャンプして移動できます。

が、結局それはほとんど使わなくなりました。なぜならば、縦に長いページをほとんど作らなくなったからです。

他にも、カード表示されているページを自由にドラッグで移動できるようにしたこともあります。もちろん、外部からJavaScriptでいじっているので、その移動した状態を保存はできないのですが、付箋代わりには使えます。

でも、結局それも使いませんでした。なぜなら、付箋とカードは違うからです。私のScrapboxに保存している情報単位では、自由に動かして、そこから何かを作り出す、ということは起こりません。むしろ関連ページとして表示されている方がはるかに便利です。

ここで、「もし」について思いを馳せます。

もし、私が超大金持ちであり、Scrapboxの経営に重要な決定を与えられる立場だったとしましょう。その私が「君、こういう機能つけた方がいいよ。その方が絶対よくなるから」とか言い出して、上にあげたような機能を実装させていたとしたら、いったいどうなるでしょうか。

いやはや、ツール作りというのは難しいものです。

〜〜〜SNS注意書き〜〜〜

ゲームをプレイし始めようとすると、「長時間のプレイはやめておきましょう」的なメッセージが表示されることがあるのですが、Twitterでも「SNSは過度に時間を消費する危険性があります。ご利用は用法・用量に注意ください」と軽く表示されたら、もうちょっとうまくSNSと付き合っていけるようになる……かもしれません。

〜〜〜専念欲求〜〜〜

フリーランスにとって、仕事の進め方は常なる研究課題です。でもって、最近私は意識的に、複数の企画案を並行して進めようと企んでいます。

で、わりとうまくはいくのです。一日2時間は企画案Aを進めて、企画案B、C、Dに、それぞれ10分づつ使う。そういう分配です。

しかし、現状は非常に困ったことになっています。私の脳が、「今はもう企画案Aのことしか考えたくない。手持ちの時間はずっと企画案Aを触っていたい」と訴えかけるのです。

こうなってしまえば、他に対処はありません。脳を沈静化させるよりも、そのあふれ出んばかりの意欲を企画案Aに注ぎ込む方が、心理的にもやりやすいですし、よりよきアウトプットを生み出すにも役立つでしょう。

以前から、複数の企画案を並行で進めることにはチャレンジしていたのですが、そのたびごとに自然消滅していました。今回、その理由を悟ることができました。企画案がある段階まで進むと、私の意欲が「この企画案のことし考えたくない」にシフトしてしまうのです。そのシフトの直前までであれば並行で進められるし、シフトしてしまったら以降は不可能になる。

私の予想では、複数の企画案進行が頓挫するのは、脳のキャパを超えてしまうからでした。考えることが多くなりすぎて、脳がオーバーヒートしてしまう(感覚がある)のです。たしかに、そういう側面もまったくゼロではないのですが、それ以上に大きいのが私の欲求でした。だから、どれだけ作業を小さくして、負荷を減らしたとしても、実際的な効果はあがりません。なにせ、そもそもそういうことをやりたくなくなっているのですから。

結局、私にできることは、シフトのタイミングを見極めて、「並行で進めるモード」と「単一に専念するモード」をうまく使い分けることだけのようです。

〜〜〜皮肉と「」〜〜〜

私が書く文章を読んでくださる方はご存じでしょうが、私は結構な頻度で「」を使います。会話文の表現ではなく、特定のニュアンスを持つ言葉であることを示すための「」です。

たとえば、

そういう「ビジネスモデル」ですよね、

という文章を書くとき、そこで意図されているのは、それは一見ビジネスモデルと表現できるものであるが、その実体は他の一般的なビジネスモデルとは異なっている、というニュアンスです。こいうカギ括弧の使い方は、R-styleやこのメルマガで頻繁に登場します。

しかしながら、このような「」の使い方は、あまり褒められたものではないかもしれません。なぜなら、その表現をどう解釈するかは、かなり読者さんまかせだからです。そういう「ビジネスモデル」ですよね、と書いても、そこまでの意図を汲んで読まれないかもしれませんし、あるいは異なった意味で捉えられる可能性もあります。

それに比べれば、

そういう欺瞞的で継続性が低い収益形態ですよね。

と書いた方が、より直接的に私の伝えたいことが伝わるでしょう。

しかし、その二つの文章がまったく同じ効果を持つかというと、それはやはりNoです。「ビジネスモデル」と表現した方が、ある種の含みは間違いなく伝えられます(あるいはそのような可能性を持ちます)。

もちろん、その含みに価値を見出すかは人それぞれで、おそらく価値を見出す人は「皮肉屋さん」ではないかと思う今日この頃です。

〜〜〜今週見つけた本〜〜〜

今週見つけた本を三冊紹介します。

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 携帯電話、電子メール、インターネット、ストリーミング。今日の世界はこの男なしにはありえなかった。「情報理論の父」と呼ばれる孤高の天才数学者、初の評伝。
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 おもちゃに変身するゴミ、土に還るロボット、葬送されるクジラ、目に見えない微生物・・・・・・
わたしたちが生きる世界は新品と廃棄物、生産と商品、
生と死のあわいにある豊かさに満ち溢れている。
歴史学、文学、生態学から在野の実践知まで横断する、
〈食〉を思考するための新しい哲学。
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 左翼ポピュリズムは右翼ポピュリズムに対抗できるのか?権力の座を手にした左翼はどうすればよいのか?新自由主義的フェミニズムとはなにか?グローバル資本主義はファシズムに対する防衛手段なのか?生命のデジタル化はグローバル資本主義を延命させるのか?空前絶後の情勢に、唯一無二の哲学者が挑む。社会の根本的な変化は、真昼のうちに起こっている。
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〜〜〜Q〜〜〜

さて、今週のQ(キュー)です。正解のない単なる問いかけなので、頭のストレッチ代わりでも考えてみてください。

Q. 作業は一つに専念する方ですか、それともいくつもを並行して進めていきますか?

では、メルマガ本編をスタートしましょう。

今週も「考える」コンテンツをお楽しみくださいませ。
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2019/08/26 第463号の目次
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○「タスク管理と知的生産の技術」 #活動の技術
新しい連載の萌芽です。

○「書く行為との距離感」 #これから本を書く人への手紙2
今回は執筆を進めていく上でのちょっとしたテクニックを。

○「断片に手を掛ける」 #知的生産の技術
書き留めた思いつきをどう扱うのか。

※質問、ツッコミ、要望、etc.お待ちしております。

○「タスク管理と知的生産の技術」 #活動の技術

書き留めたメモを文脈づけようとすると、衝突することがあります。コンテキストの衝突です。

たとえばそれがタグづけならば、コンフリクトは生じません。メモが「A」と「B」に属するならば、タグ「A」とタグ「B」をつければ無問題です。

しかし、タグでないならば、私は決定を下さなければいけません。Aに文脈づけるのか、Bに文脈づけるのか。あるいは、そうではない別の選択をするのか。

■繰り返される火花

たとえば最近、タスク管理について考えていると、「これって知的生産の技術にも言えることだよな」と思えるメモが増えてきました。その逆に、知的生産の技術について考えていると、いかにもタスク管理的な話が出てくることもあります。

こういうメモは扱いが難しいものです。しかし、だからこそ、飛躍の足がかりとなりえます。まだ見ぬ(あるいは来るべき)新たなカテゴリを呼び込む火打ち石になるかもしれないからです。

とは言え、衝突するメモはたくさんあります。そのすべてにおいて新カテゴリを発足させていたのでは、混乱は深まるばかりでしょう。

しかし、同じような衝突が何度も発生するならば? 何度も何度も「知的生産の技術」と「タスク管理」のどちらに入れようかと迷うメモが発生するなら?

それは新規カテゴリの立ち上げどきかもしれません。つまり、「知的生産の技術」と「タスク管理」の両方にまたがる話をするのです。

■基本的な共通点

まずは、基本的な話をさらっておきましょう。

目新しい話を持ち出すまでもなく、「知的生産(の技術)」と「タスク管理」はもともと共通点を持っています。

たとえば、「タスク管理」で管理される〈タスク〉とは、行動に関する情報です。「知的生産の技術」とは、情報を扱う技術なので、広い意味で言えば、この二つは同じ大きなカテゴリに属しています。

またもっと単純に、タスクを実行に移していく上でも、資料やデータといった行動に関する情報以外の情報を扱えた方が望ましいので、ここにも知的生産の技術(情報を扱う技術)が生きてきます。

でもって現代の情報社会では、そのタスクの多くが、なんらかの形で情報生産に関与しているので、知的生産の技術は役立ちます。

最後の一つは、若干「はみ出て」いますが、全体的に見れば、〈タスク〉という行動の情報を扱うタスク管理では、情報を扱う技術は欠かせません。

■知的生産側からも

一方で、知的生産にも同じことが言えます。

知的生産とは、一種のプロセスを指す言葉ですが、本当に必要とされるのは〈知的生産活動〉です。つまり、実際に何かを生み出すことです。

当然、そこでは〈行動〉が必要とされます。アウトプット生成をいかに実行に移していくのかについての知見、つまりタスク管理の技術が有用に機能するわけです。

たとえば、一冊の本を完成させるために有用なノウハウ。これは、側面としては知的生産の技術ですが、そこに含まれるものは間違いなくタスク管理の技術でもあるでしょう。

■よりディープな接続へ

以上のように、「タスク管理」側から見ても、「知的生産」側から見ても、それぞれがお互いの領域にまたがっている、あるいはその知見を参照していることは間違いありません。二つはつながっているのです。

とは言え、ここで考えたいのは、そうした表面的な接続ではありません。

・「知的生産」が「タスク管理」を必要とすること(あるはその逆)
・「タスク管理の技術」の中に「知的生産の技術」が含まれること(あるいはその逆)

上記のようなことが起きているというのは、一体どういうことなのだろうか。言い換えれば、「知的生産の技術」と「タスク管理」の二つを下位要素とする、一つ上の階層とは一体なんだろうか。

そうしたことについて考えてみたいのです。

■目次案とタスクリスト

たとえば、目次案とタスクリストの呼応があります。

本の執筆では、最初に目次案を立てるのですが、その通りに執筆が進むこととはほとんどありません。多かれ少なかれ、執筆は目次案の変更と共に進みます。

一方、タスクリストも同じです。一日のタスクリストを作っても、その通りにいくことは稀です。だいたいは、予想外の出来事や自分のやる気のなさや脱線気質とうまく付き合いながら、作業を進めていくことになります。

大雑把に見れば、この二つは同種の構造を持っています。

・目次案を書き換えながら、執筆を進めること
・タスクリストを、調整しながら作業を進めること

ここにある共通点は一体何を意味するのか。一つ上の視点から見たとき、この共通点はどんな風に記述できるのか。それを探ってみたいのです。

■探究の意義

そのような探究を進めることで、一体何が「嬉しい」のでしょうか。言い換えれば、その探究にはどのような意義があるのでしょうか。

もちろん、その探究の結果を手にしているわけではないので、それがどのような意義を持つのかを現時点で正確に断じることはできません。それでも、一つの仮説を立てることは可能です。あるいは、ある種の予見を持つことはできます。
※一つの仮説も立てられないような探究ならば、時間を割く価値は低いでしょう。

まず、一つ上の視点を持つことで、相互の知識参照をより広い範囲に適用できる可能性が出てきます。

たとえば、目次案とデイリータスクリストで同じことが言えるならば、その他の要素についても同じことが言えるかもしれません。私たちがまだ気がついていなような「共通点」を見つけ出し、それぞれの行為をより適切に進められるようになるならば、立派な意義と言えるでしょう。

また、一つ上の視点から見ることで、ノウハウをより高次にバージョンアップさせられる可能性も出てきます。たとえば、GTDは〈タスク〉を扱う優れた技法ですが、残念ながら〈アイデア〉の扱いは控えめに言っても適切なものとは言えません。曖昧で輪郭線がはっきりしない情報を、そのまま保持しておくにはまるで向いていない手法です。

では、タスク管理と知的生産の技術が高次で統合されたらどうなるでしょうか。GTDのベーシックなフレームを残したまま、そこにアイデアを扱うためのオプションを追加できるようになるかもしれません。つまり、「超」GTDのようなものが提示できる、ということです。

もちろん、繰り返しになりますが、ここに書いたようなものは、「もしかしたら、そういうことが起こりえるかもしれない」という一種の仮定であり、ある種の希望に過ぎません。それでも、こうした効果が期待できるならば、チャレンジしてみる価値は十分にあるでしょう。

■さいごに

一つ言えるのは、知的生産活動においても、タスク管理においても、「行為」と「情報」が関係し、何かを生み出すことが求められ、さらに理想と現実の綱引きがたびたび発生する、ということです。

そして、一歩視点を引いてみれば、そうした現象は、知的生産活動やタスク管理以外においても発生するでしょう。この点に、より大きな普遍性へのゲートが眠っている気がします。

これから、どんな風にこの探究を進めていくかはまだわかりませんが、それでも、私のメモの中で衝突するものたちを取り上げ、それについて考察することで、ひとまずの取っかかりを作っていく予定です。

(つづく)

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