田舎のパン屋さんのようなスタイルで
とても心温まる記事を読みました。
特にビビッときたのは以下の箇所です。
これは、他には無いおいしいパンをつくりつづけられるという自信に加え、その味を見分ける人々がこの地域にたくさんくらしていること、そんなパンのある生活のために遠出してでも店に来てくれるという信頼に裏づけられた言葉ではないでしょうか。
明らかに不便な場所で営業しているパン屋さんが生き残るには、他にはないおいしいパンを作ることが必須でしょう。でなければ、人は便利な場所でパンを買ってそれでおしまいです。他にはない何かを提供できるからこそ、そこまで足を運んでくれる人が出てきます。
一方で、「自分は他とは違うおいしいパンを作っているんだ」という自信があればそれだけでやっていけるかというと、おそらくそうではないでしょう。そのような自信しかなければ、その心の世界はひどく孤独めいたものになるはずです。
引用した部分にあるように、価値があるものならば、多少の手間をかけてでも、パンを買いに来てくれる人たちがその地域にいる、という信頼がなければ、きっと営業を続けていくことはできません。いつかは、どこかで心がぼきっと折れてしまうことでしょう。
その感覚は、私にも想像できます。パンを焼いたことも、不便な場所で営業をしたこともありませんが、やっていることの本質は私の執筆活動ととてもよく似ているからです。
こちらから伸ばす矢印だけでは不十分・不完全なのです。あちらから伸びてくる矢印も合わせて信頼できることで、人は地に足をつけることができます。
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記事を読んでいると、そのパン屋さんは田舎の不便な場所で営業されているようです。でもって、記事にはありませんが、そのパン屋さんのパンは、結構お安いようです。少なくとも、高級パン屋さんのような価格帯ではないとお見受けします。
たぶん、これはいろいろなものが絡み合っているのでしょう。
そのような不便な立地であり、大規模な展開を狙っていないからこそ、価格を抑えて販売できるのだと推測します。一等地なら、地代を賄うだけでも価格の上乗せは必至です。でも、そうではない場所だからこそ、可能な営業があるわけです。
おいしいパンを、それを食べたいと願う人に、つまりブランド品的に欲するのではなく、日常にパンを添えたいと願う人に届けること。そのことに喜びを、ひいては価値を感じること。
たぶん、そういう価値観が根底にはあるのではないでしょうか。それってとても素敵なことです。
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マスメディアの時代が終わろうとしているのかどうかは、私にはわかりません。でも、私というひとりの物書きが選択しようとしているのは(あるいは、もう選択してしまったのは)、ここで紹介されているパン屋さんのような在り方です。
上のポッドキャストでも話ましたが、現代では五百人の(お金を払って読んでくれる)読者を獲得できるなら、それだけで物書きとしてやっていける可能性が出てきます。もちろん、その生活はほそぼそとしたものになるでしょうが、そういうことが可能であることということ自体が、一つの希望になるのではないでしょうか。
でもって、そうした選択をするためには、自分が他にはないものを作り出せるのだという自信に加えて、わざわざそれを選んでくれる人がこの世界には(ある程度のボリュームで)存在するのだ、ということもまた信じられなければなりません。
自分が作るものならばどんなものだって引き受けてもらえる、という傲慢に振り過ぎた自信ではなく、何かしらの価値を作り出せるという自信と、そこに価値を見いだしてくれる人がいるという信頼の絶妙な兼ね合いの中で成立する心の状態。
そういうものが、マスやブームに乗っかるのとは違う在り方では必要になってくるのでしょう。
もちろん簡単な道ではありません。日々切磋琢磨も必要ですし、うまくいかない時期もあるでしょう。それでも、その道を歩くことには一定の納得感が寄り添ってくれそうな予感があります。
それは、生きづらい世の中を生きていく上で、案外に大切なことなのかもしれません。