新しいエディタの話/ギフト交換のないウェブ/有料書店とこれからの出版/整理しない整理とタスク管理
Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~ 2018/12/24 第428号
はじめに
はじめましての方、はじめまして。 毎度おなじみの方、ありがとうございます。
note版だけ、記事のタイトルを変えてみました。「結城メルマガ」の思いっきりのパクリです。
まだお試しなので、来週号からまた元に戻すかもしれませんが、もしよければタイトルの感想などをコメントで教えて頂けると幸いです。
〜〜〜動画の時代〜〜〜
最近は、「これからは動画の時代だ」という話をよく聞きます。
我々はテレビという映像メディアを長らく受容していたことを考えれば、若干今さら感ある話ではありますが、ネットが高速化するに従って、リッチなメディアがそこに流れるようにはなっていくでしょう。
しかしながら、そうした話でぽっかり抜け落ちているのが、コンテンツの話です。あたかも動画にさえ取り組めば未来が掴める、というような勢いなのですが、そんなはずはないでしょう。
動画に向いたコンテンツがあり、そうでないコンテンツがある。その中で、一体どんなコンテンツを展開していけばいいのか、そして動画では拾い切れないコンテンツをどう拾っていくのか。そうしたことを考えなければ、時代に適応することなど不可能です。
まあ、時代に適応するということそのものを諦める、という選択肢もあるわけですが。
〜〜〜世界線の微細な差異〜〜〜
これまで生きてきて、ひやっとする場面は少なからずありました。一歩間違えていれば命も危うかった、という状況もあります。
人には運・不運があり、その程度にも振れ幅があります(すごく運が良かった〜少し運が良かった)。そのパラメータが少しでも変わっていたら、かなり異なる結果が訪れたことでしょう。
もし、すべての可能性(世界線)を覗ける悪魔がいるとしたら、彼が覗く私の世界線の多くが、現在まで生きることなく、途中で死んでいたのではないかと思います。
究極の生存者バイアスにより、私が今生きていることは当たり前のように感じられますが、実際はそうではないのでしょう。死の訪れは、次のサイコロを振らせないので(究極の運の悪さは、究極の運の良さでは取り返せないので)、ある種奇跡的な確率が成立しているのかもしれません。
きっとそれは、忘れてはいけないことなのだと感じます。
〜〜〜クリスマスはくだらなくない〜〜〜
若い頃は、文学青年&哲学かぶれだったので、クリスマス・イベントみたいなものは心底くだらないと思っていました。「キリスト教徒でもないのに、クリスマスを祝うだなんて」みたいな正論を振りかざして悦に入っていたのです。若気の至りですね。
そもそも、キリスト教徒がクリスマスを祝うのは(たぶん)信仰によるものでしょうし、その信仰とは、実体のない信念で形成されています。
ということは、特にキリスト教徒でもないのに、クリスマスを祝うことも、「クリスマスはみんなで楽しむものだ」という信念が背後にあるわけで、極論すれば両者に違いはないのである……という風に、正論を理屈でひっくり返すことが簡単にできてしまう、と気がついてからは、細かいことはどうでもよくなりました。
そういう意味で、ロゴスって、独善的なんです(あるいはそういう風に使えてしまうのです)。
もし上の反論を経ても、まだ騒いでいる人間が嫌いなら、それは理屈によってではなく、単に感情的に嫌いなだけで、それを理屈で「正論化」しているにすぎません。一番しょーもない理屈の使い方です(理屈プロレスなら話は別ですが)。
楽しんでいる人がいるんだから、別にそれでいいじゃないか。単に自分がそのイベントに乗っからなければいいだけで、わざわざ他人を否定する必要はない。
これも「正論」の一つかもしれませんが、心を平穏に保つコツではあります。
〜〜〜台本なら、何が問題となるのか〜〜〜
以下のニュース記事を読みました。
この中に印象的な台詞が出てきます。
>>
「いやいや知らんがな。俺言えって言われて言っとんねんって話やんか。台本じゃボケ!と思いながら」
<<
怪しい投資の情報を広めた際、それが「台本」だったから、謝らなくてもいい。そういう主張のようです。
で、細かい話に関しては次の徳力さんの記事が詳しいので、興味がある方は覗いてみてください。
気になるのは、以下の違いです。
・怪しい商品を、それとは知らずに紹介した(無償)
・怪しい商品を、それと知った上で紹介した(無償)
・怪しい商品を、それとは知らずに、台本通り紹介した(有償)
・怪しい商品を、それと知った上で、台本通り紹介した(有償)
上の二つは、たぶん法律的に問題になることはなく、単にその発信者の信用に関わる問題だけでしょう。
下の二つは、何からの形で法律問題にタッチしそうですが、より重いのはどちらなのでしょうか。それともそこに差異はないのでしょうか。
あるいは、こんな思考実験も考えられます。
あくどい商売をしている企業があるとしましょう。その企業から依頼を受けてCMを制作した会社があるとして、その会社のCM制作行為が罪に問われるようなことはあるのでしょうか。
あるいは、そのCMに出演している芸能人はどうでしょうか。
詐欺的な方法でお金を集めている企業があり、そのCMに登場してビジュアルイメージを代表するような芸能人がいるとして、しかしその企業の実体は知らず、単に依頼された原稿を読んでいるだけだとしたら、その芸能人を罪に問えるのでしょうか。
実際に罪に問えるのかどうかはわかりませんが、上の記事のユーチューバーの人が、「台本なんだから、何が悪いねん」と言っているのは、おそらくこの文脈においてではないかと推測します。演者には責任は問えないだろう、ということです。
たしかに演者に責任は問えないのかもしれません。しかし問題は、ユーチューバーが演者であると共に、動画制作者でもある、ということです。その仕事を受けるかどうか、動画を作成し投稿するかどうかを決めているのは、ユーチューバーです。演者に責任は問えなくても、そちら側の判断については責任は問われるでしょう。
Web時代になって、あらゆる役割が一人でこなせるようになってきているので、この辺が見えにくくなっているのかもしれません。
そうしたルールに関しても、一度きちんと整理された形で提示されるのが望ましいのだと思います。現状は、いろいろなことが込み入りすぎていて、わかりにくくなっているので。
〜〜〜今週見つけた本〜〜〜
今週見つけた本を三冊紹介します。
>>
本書では、ポンペイの壁画、浮世絵、セザンヌ、ゴッホ、マグリット、
そのほか無名の作家や現代のアーティストにいたるまで、
古今東西の本のある風景を捉えた300点を超える芸術作品を収録。
時系列順ではなく、異なる時代、異なる文化のもとに生み出された作品が隣り合うことで、
私たちに人類共通の姿を見出させてくれる。
<<
>>
いま、日本の公共図書館は様々な模索をしている。
本以外の生活必需品を貸し出し、人々が気軽に集える空間をつくり、子どもたちの相談にものる。
また、被災地や過疎化が進む地域で、住民たちの繋がりのためのハブの役割を果たしたり、
マイノリティにも平等に開かれた設備を整えたり……
本特集では、民主主義と自由な学びの砦として、
市民たち自身が支え合う図書館の未来と本の生態系について多角的に考察する。
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近代社会が喪った「雑」の魅力を語りあう
雑談・雑音・雑学・雑種・雑用・複雑・煩雑・粗雑……
現代社会が否定してきた「雑」の中に、多様性や民主主義の根があり、
市場主義や「生産性」に代わる価値観の手がかりがある。
“雑"なる対話から広がる魅力的な世界。
<<
〜〜〜Q〜〜〜
さて、今週のQ(キュー)です。正解のない単なる問いかけなので、頭のストレッチ代わりにでも考えてみてください。
Q. 最近はじめた「今週見つけた本」のコーナーはいかがでしょうか?
では、メルマガ本編をスタートしましょう。
今週も「考える」コンテンツをお楽しみくださいませ。
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2018/12/24 第428号の目次
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○「新しいエディタの話」 #物書きエッセイ
最近思いついた新エディタの構想について。
○「ギフト交換のないウェブ」 #やがて悲しきインターネット
昔のウェブと今のウェブを対比します。
○「有料書店とこれからの出版」 #本を巡る冒険
新しい書店の在り方とこれからの出版について。
○「整理しない整理とタスク管理」 #BizArts3rd
情報を整理することの現実的な形について。
※質問、ツッコミ、要望、etc.お待ちしております。
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○「新しいエディタの話」 #物書きエッセイ
ただいま原稿作業が、追い込み真っ最中です。
で、そんなときに限って、新しい本のアイデアや、新しいツールのアイデアが春の日の太陽のようにサンサンと降り注いできます。
今回書きたいのは、そんな風にして思いついた、新しいエディタの話です。
■マルチウィンドウ
文章を書くときは、できるだけ文章を書くことに集中したいものです。しかし、執筆工程全体を見渡せば、文章以外の情報を扱う場合も出てきます。
たとえば、「タスク」です。第一章の原稿があるとして、「冒頭部分をもっとスムーズにする」とか「エピグラフとして使える文章を探してくる」といったその章に対する〈やること〉は、少なからず発生します。
あるいは「アウトライン」もあります。本全体の構成がどうなっているのか、その章の構成がどうなっているのか。執筆中常に参照したいわけではありませんが、ときおり確認したくなることはあります。
現状は、そうした情報をすべて別々のツールで管理しています。「タスク」はタスク管理ツール、「アウトライン」はアウトライナー、「今の原稿では使わないけど、もしかしたら使わないかもしれない文章」はScrivener、といった分担です。
これを一つにまとめたらどうなるでしょうか。
中心にエディタ領域があり、左右に空いたスペースがある。その空いたスペースに、好きなウィンドウが追加できて、「タスク」や「アウトライン」や「未使用」や「文字数」や「締切」といった情報を表示させたり、また隠したりできる。そういうエディタがあったら、面白そうではありませんか。
それを、ブラウザツールとして作ってみたい。そんな気持ちが夏の入道雲のようにモコモコと盛り上がってきました。
■Scrivenerでは?
とは言え、似たような機能はScrivenerで実装されています。さきほど上げた要素すべてをScrivenerは扱えます。だったら、Scrivenerでいいんじゃないか、という気もするのですが、足りない部分があるようにも感じます。
たとえば、Scrivenerでは原稿の総文字数は右下に表示されますが、その位置を変えることはできません。文字数をword数に変えることはできても、表示位置そのものは変えられないのです。
それ以外の要素に関しても同様です。ウィンドウの大まかなレイアウトは変えられても、細かい表示に関してはScrivenerの開発者さんが規定した通りにしか表示させられません。その点が、若干使いづらく感じるのです。
■Webツールとして
仮にそれをWebツールで作成したとしたらどうなるでしょうか。CSSをユーザーが自由にいじれるようになりますし、なんだったらScraboxのようにJavaScritptでの機能拡張も可能でしょう。
自分の手に馴染むツールは、そうしたカスタマイズから生まれてくるのではないか。そんな気がしています。WIndowsの秀丸が今でもよく使われているのも、そのカスタマイズ可能性にあるのかもしれません。
でもって、アラン・ケイなどが夢見ていたパーソナル・コンピューティングというのも、そうした「ユーザーが自分でカスタマイズする」ことが前提にあったのではないかとも夢想します。そいうことができると、単純に便利になるだけでなく、きっとそれが好きにもなりますし、楽しくもなります。カスタマイズって結構大切です。
しかし、現状のパーソナル・コンピューティングを覗いてみれば、たくさんのアプリから好みのものを選択はできても、細かいカスタマイズはまったく触れないようになっています。フォントやカラーは変えられても、それ以上に進むことができません。
その点、Scrapboxは革命的です。ブラウザ拡張などを使わなくても、自分のJavaScriptを導入できるのです。
もちろんそこでは、JavaScriptを使える人/使えない人の線引きが生まれてしまいますが、他人のコードをコピーして使える環境がそれを緩和していますし、なんだったらパソコンを使う以上、何かしらのプログラミング言語は覚えておいた方が良いのではないか、という若干ラディカルな思想を打ち立てることもできます。
どういう着地点がバランスが良いのかはわかりませんが、ユーザーのカスタマイズ(それも機能的なカスタマイズ)を許容するエディタがあったら、きっと楽しいでしょう。
■他のエディタでは?
実際、AtomやSublime Textといったエディタは、似たような思想で構築されています。さまざまなプラグインによって機能拡張が可能ですし、その拡張を自分で書くこともできます。使う知識はおそらくJavaScriptとCSSなので、似たようなものでしょう。
だったら、わざわざWebツールとして開発するのではなく、そうしたツールを使えばいいのではないか、という疑問も立ち上がりますが、そこは冬の雪道を歩くように慎重に考えを進めていきたいところです。
まず、Webツールとして作ることで、テキストファイルの概念に縛られる必要がなくなります。たとえば、アウトラインやタスクを無理に個別にテキストファイル化しなくても、全体としてJSONとして保存しておき、必要ならば本文をテキストファイルとして書き出す、といったことができます。
次に、そうして書き出す形式を工夫すれば、別のWebツールとの連携が考えられます。
たとえば私が作った7wrinerというライン型メモツールがありますが、そのメモの一部をその新エディタに取り込むといったことが実現できるかもしれません。逆に、書き終えた文章を保存するためだけのアーカイブツールを作ったり、執筆時間を日々記録していき、そのデータをグラフとして表示させるツールにエクスポートする、みたいなこともアイデアとしては成立します。
つまり、AtomやSublime Textはエディタとしての拡張性を持っていますが、私が想定している拡張性は、複数のツール群からなる「知的生産ツール」としての拡張性です。
■おわりに
単にそのツールをカスタマイズできるだけでなく、そのツールと連携する別のツールも作れるようになる。そんな環境を作れたら、きっとヤバいことになりそうですが、もちろんそれは大風呂敷の段階です。
現状は、とりあえずサブウィンドウを表示させられるエディタを作れないか、と考えています。
エディタの機能性自体をまったく無視すれば(つまり、平のテキストを打ち込むだけならば)、結構簡単に実装できるだろうと予想しているので、原稿が脱稿し、少し落ち着いたらプロトタイプを作ってみようと思います。
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