作業記録で生まれた変化 その2/ゆっくりと本を読む/僕らの生存戦略奮闘記vol.4
Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~2020/03/30 第494号
はじめに
はじめましての方、はじめまして。毎度おなじみの方、ありがとうございます。
ブログでも紹介しましたが、拙著の無料キャンペーンを実施しております。
コロナの影響を受けて、さまざまな電子書籍プラットフォームや出版社が本を無料公開しているので、いち「出版者」として私も何かできないかなと考え、この無料キャンペーンを行うことにしました。
もし時間潰しに困っておられるなら、ぜひこの機会にダウンロードしてみてください。どの本もそれぞれに面白いと思います。
〜〜〜圧倒的飛躍〜〜〜
じっくり熟読したわけではありませんが、成功法を紹介した本のいくつかは、「タイピングをマスターしましょう。それであなたはベストセラーが書けるようになります」的な飛躍があります。
たしかにタイピングをマスターすれば、それで小説を書き始めることはできるでしょう。そうして書いた小説がベストセラーになる可能性も芽生えます。少なくとも、書かれなかった小説がベストセラーになることはありません。
かといって、タイピングができるようになれば、即座にベストセラーが確約されるわけではありません。あくまでその準備が整ったというだけです。
本当に難しいのは、そこからの営為であるのは明白ですが、その辺の過程が成功法本ではまるっとすっ飛ばされているのです。
まあ、そういう欠落を用意して、高額なセミナーに誘導するというビジネスモデルなのかもしれませんが、なんとなくもやもやした気持ちが湧いてきますね。
〜〜〜コツの閃き〜〜〜
何かちょっとしたコツさえあれば、挫折している問題が一挙に解決するということはありません。コツはコツとして、地道に訓練・実践を続けて行った先にしかニューロンの配線変更は起こらないからです。
一方で、地道に訓練・実践を続けていった先に、ある種の気づきがやってくることはあります。「ああ、そういうことか」という一瞬の閃きです。それが言語化されたとき、コツとして理解されます。つまり、コツの会得は一瞬に感じられるのです。
しかし、そのコツに至るまでのルートは長い道のりがあり、他者が同じ地点にたどり着くためにはやはり同じ道のりを歩むしかありません。
ただし、コツによって、目指すべき場所がわかりやすくなるメリットはあります。むしろ、それだけが唯一のメリットかもしれません。
〜〜〜異なる存在〜〜〜
『ブログを10年続けて、僕が考えたこと』に書いたことと重なりますが、ブログを書きたくて書いている人と、何かを達成するための手段としてブログを書いている人は、同じではありません。
私の定義では、前者がブロガーで、後者はその達成したい何かによって名称がわかれます(たとえばアフィリエイター)。
異なる存在が混じり合い、交流することには一定の意義があるでしょう。お互いが刺激を受けて、切磋琢磨していく──というのはいかにも少年漫画なノリですが(大好きです)、タコツボに閉じこもっているよりははるかにマシなはずです。
問題は、後者の勢力があまりに強すぎて、前者の定義が塗り潰されてしまったことですが、現状は後者のような「ブログ」は死につつあります。残念なことです(棒読み)。
では、前者のようなブログはどうかと言えば、これもまた弱りつつあります。それでも、ブログ以外のさまざまなプラットフォームに飛び散った種子は、いまでもしっかり芽吹いていると感じます。
書かずにいられない人は、たとえ数が少なく、迫害されようとも、決していなくなったりはしないのでしょう。
〜〜〜感情的先入観〜〜〜
本当によくないな〜とは思うのですが、Twitterで「議論」を見かけると、その陣営のどちらかに特定の人たち(名前は挙げませんが、炎上方面で著名な方々)が入っていると、その議論の中身を吟味するはるか以前に、自分の心情では「特定の人たち」とは反対の主張に心が傾いてしまいます。
知的な態度とは、そういう先入観をもたずに、それぞれの議論の妥当性を検討するところから開始すべきなのでしょうが、先入観は意識より先に発生してしまっているので、まずその障害物をどかすところからスタートしなければいけません。
つまり、フラットなところから議論を吟味するために、まず地面をフラットに均す知的な(認知的な?)努力が必要になる、ということです。
これって、結構知的にマッチョでないと難しいのではないかと思う今日この頃です。
〜〜〜それもまた技術〜〜〜
たとえば、あくまでたとえばですが、「中身がないものを、中身があるかのようにみせる技術」というのも技術です。それを磨き上げれば、立派な「成果」が手にできるでしょう。
しかし、どれだけその技術を磨いても、中身があるものを生み出す技術は手にできません。
いや、すべての技能は通じている(≒流動的知性の向上につながる)という意見もあるかもしれませんが、技術には哲学が伴うので、ある技術に習熟すればするほどその哲学が身につきます。結果、ベクトルが逆向きの技術を行使するのが難しくなるのです。
よって、その技術が何を目指すものなのかは、きちんと見極めた方がよいでしょう。でないと、「こんなはずではなかった……」みたいなことになりかねません。
〜〜〜くしゃみの居心地の悪さ〜〜〜
私は花粉症です。
マスクをつけて外出しています。
耳鼻科で薬をもらっているので、頻繁にくしゃみをすることはありません。でも、まったくくしゃみをしないわけでもありません。ごくたまに、外出先でくしゃみをするときがあります。
そのときの、あの、居心地の悪い感じ。
できることなら、マスクの前面に「花粉症です」とデカデカと書いておきたいものです。
妊婦さんとか、一見元気そうに見えるけど体調の悪い人などが、「私は〇〇です」と他の人に向けてアピールするための印を欲しくなる気持ちが、ほんのわずかだけわかりました。
〜〜〜今週見つけた本〜〜〜
今週見つけた本を三冊紹介します。
著者は戦地に赴き、さまざまな人の話を聞きます。内容紹介の以下が印象的です。"語ることを強いるのではなく、言葉にできないとするのでもなく、「それでもなお語る」ことを探ること。口ごもりながら、断片的に語るとき、そこには空白があり、謎があるかもしれない。だからこそ「それ」は言葉にできる。"
2014年に発売された『天才たちの日課』の続編です。タイトル通り今回は女性の「日課」を集めた本になっています(前著は、たしかに男性の例が大半を占めていたと記憶しています)。なんにせよ、クリエーターの日常には興味を惹かれます。まったく異常というのでもなく、まったく平凡というのでもない、そのはざまに。
タイトルからはわかりにくいですが、小説です。アメリカのウェルベック、現代のヴォネガットと評されているようで、多少宣伝的誇張を引き算したとしても興味を惹かれる作品です。最近、「ゆっくりを取り戻す」を自分のテーマにしているので、それに関連する作品になるかもしれません。
〜〜〜Q〜〜〜
さて、今週のQ(キュー)です。正解のない単なる問いかけなので、頭のストレッチ代わりにでも考えてみてください。
Q. 家に閉じこもる人におすすめの作品(書籍・映画・音楽)があれば教えてください。
では、メルマガ本編をスタートしましょう。
今週も「考える」コンテンツをお楽しみくださいませ。
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2020/03/30 第494号の目次
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○「作業記録で生まれた変化 その2」 #知的生産の技術
○「ゆっくりと本を読む」 #ゆっくりを取り戻す
○「僕らの生存戦略奮闘記vol.4」
※質問、ツッコミ、要望、etc.お待ちしております。
○「作業記録で生まれた変化 その2」 #知的生産の技術
前回に引き続き、日常的に作業記録をつけることで生まれた変化について書いてみます。今回は知的生産編です。
まず、全般的な話でいうと、フロー状態に入りにくくなるかどうかで言えば、これはYesでしょう。
たとえば、一時間で4つの作業をして、15分ごとに作業記録をつけているならば、フロー状態に入れるとはとても思えません。そんなに素早い切り替えでは、没頭の段階には至れないでしょう。
一方で、それは「知らぬ間に夢中になっていた」を防げるメリットとしても捉えられます。いつのまにか千夜千冊のサイトを読み漁っていたとか、簡単なバグを修正するために延々とドキュメントを読み耽っていた、みたいなことが避けられるわけです。言い換えれば、フロー状態(没頭状態)に入らなくても構わない(というか入らないで欲しい)作業について、それを抑制できるのです。
では、フロー状態に入りたい作業はどうでしょうか。私の場合であれば、それは執筆作業となります。
で、執筆作業に関してはまるで問題ありません。気がついたらがっと集中して時間が経っている、ということは往々にしてあります。それは、文章を書き下ろしているときには、作業記録はいっさい書かずに、何かしらのエディタ(最近はUlysses)をフルスクリーンで開いているからです。その際は、作業記録のことは一切頭に上りません。
でもって、これが大切なのですが、私のそうした集中はだいたい一時間が限度です。一時間経ったら、脳が疲れてきて、あぁそろそろ一区切りにしようか、という気持ちになってきます。これは、作業記録をつけるようになる前からそうでした。
だから、私の作業記録の区切りは一時間単位になっています。たとえばこれを15分単位とか30分単位にすればもっと緻密なデータが残せるわけですが、そうなれば一時間の執筆フロー状態はさすがに途切れてしまうでしょう。それは望ましくありません。
逆に言えば、私は「自分の執筆持続時間」を単位にして、作業記録をつけるようにしているから、フローの邪魔にはなっていないとも言えます。
*もちろん正確にカウントしているわけではないので、邪魔になっていないと断言はできませんが。
ちなみに上記は、文章を「書き下ろす」ときの話です。つまり、文章をいちから書き下ろすときは、途中作業記録は一切書いていません。しかし、ある程度書いてある文章を手直しして、構成を考えるような作業──いままさに『僕らの生存戦略』でやっているような作業──を行うときは、「詰まる」と、作業記録に何かを書き残すようにしています。
何に詰まっているのか、どう考えているのか、どんな手があるのか。
これを頭の中だけでグルグルと巡らせないように、人に説明するような形で文章化するわけです。こうして一旦メタな視点に立つと、案外打開策は見えてくるものです。
少なくとも、この点に関しては圧倒的に能率が上がった印象があります。これまでは、どう手直ししていいかわからない原稿を目の間にして、「ああでもない、こうでもない」と思索の中だけで「考えて」いたのですが、その思考で答えが出ることは少なく、しかも認知的に疲れることが大半でした。
しかし、一度文章化してみると、脳の負荷も減りますし、また次回作業するときも、その部分を読み返すことで、そうそうこの問題があったんだ、と「二度目の思考」としてそれを捉えられるようになります。文章化しておかないと、いつまでだってもその問題が「新しい問題」として私の前に立ちはだかるのです。文章化は、そういう「詰まり」を解消してくれる働きがたしかにあります。
もう一点付け加えておくと、たとえば、15時30分くらいから執筆作業(書き下ろし作業)をスタートして、そのまま一時間くらい書いていたら、作業記録もそのまま一時間くらい空白になっています。つまり、15時30分からスタートし、16時になったから筆がのっていたにもかかわらず一旦手を止めて作業記録を書く、ということはやっていません。執筆が一時間続いたら、それはそのままに任せています。そして、作業が終われば、気にせず15時台、あるいは16時台の記録として作業記録を書いています。
その意味で、わりとこまめに残している作業記録ですが、時間の厳密性についてはずいぶんと緩いものです。そのあたりのゆるさが、細かく記録を残していくタスクシュートとの違いかもしれません。
ちなみに、以下のコメントもTwitterでいただきました。ありがとうございます。
これについては、タスクシュートをどう解釈するかによって変わってくるでしょうが、もしおおざっぱを許容してくれるものであれば、私の作業記録と同じような運用はできるかもしれません。それはそれで興味深いものです。
というわけで、コメントへの返信はここまでにして、本編に戻りましょう。
■知的生産的な変化
前回紹介したようにタスク管理方面の変化も大きいものでしたが、知的生産方面の変化もそれに劣らないものでした。そして、タスク管理と同じように、「そんな風に変化するなんて」と予想していなかった方向に変化しています。
その変化は、最初小さなものとして始まりました。メモが作業記録に侵入したのです。
当初頭の中にあったのは、作業をして、その記録を残すだけのピュアな「作業記録」でした。しかし、当然そこには、単純な結果だけでなく、作業中に思いついたことや次にすべきことなども含まれてきます。言い換えれば、アイデアの萌芽が混ざり込んでくるのです。
そうなると、他にもいろいろ書きたくなってきます。もちろん、この「作業記録」は私がはじめて、私がフォーマットを決められるメディアなので、書きたければ何を書いても構いません。
そこで、ちょこちょこメモを書くようになりました。最初は[memo]と括ったブロックに、短く箇条書きのメモを複数個書く形ではじまり、続いてタイトルを持った独立したメモを小さい文章として書き出すようになりました。結果、メモは作業記録の中で少しずつ存在感を増してきました。なんなら全体の分量の中で、メモの方がボリュームが大きいくらいです。
なぜそんなに分量が増えたのかと言えば、異様なくらいに書きやすいからです。「ちょっとだけまとまった文章」が、この作業記録の中ではすらすらと書いていけます。でもって、それが非常に楽しいのです。
書いていても、読んでいても、楽しさがそこにあるのです。
■なぜすらすら書けるのか?
当然のように私は考えました。なぜ作業記録のメモは書きやすいのか、と。
まず、Evernoteのノートには普通のエディタっぽさがあります。っぽさがあるというか、普通のリッチテキストエディタですね。この点が、アウトライナーとは違っていて、それなりの長さの文章を書くのに適しています。
一方、ブログのように「かしこまった」文章を書く必要はありません。なにせ単なるメモです。冒頭とか、起承転結とか、前提とか、締めの文章とか、そんなものは一切無視できます。
その点で言えば、Twitterに近しいのですが、140字制限もありませんし、何より6000人程度にフォローされていて、うっかりすればRTで大拡散していくような心配もありません。ちょっと思い切ったこともずかずか書いていけます。
いや、そもそもとして、「これはTwitterに書いて大丈夫なことなのか」という心配.exeが走らないのです。その点が、楽に書けるのでしょう。一方で、完全に誰も見ていないのではなくて、誰かが見ている可能性はいつでもあります。メモを書くときにも、微量な緊張感が伴います(少なくとも、意味不明な日本語のまま放置することはありません)。
似ている点で言えば、公開Scrapboxが一番近しいのですが、私は仕事・作業用のプロジェクト(非公開)とアイデア用のプロジェクト(公開)を分けてしまっているので、それらを同じラインに並べることができません。Evernoteの作業記録では、それらを同一のラインに並べられるので、「これはどっちに書こうか」と悩む必要がないのです。その点も、楽さに影響しているのでしょう。
ちなみに、作業記録は時系列の記録なので、書いたものの順番を後から入れ替える必要がありません。その点も、アウトライナー的操作(アウトライン操作)を必要とせず、普通のリッチテキストエディタでOKという点に関係しています。
まとめると、普通の文章が、気兼ねなく、しかし少しは誰かに見られている僅かな緊張感と共に、他の作業記録と同じラインに書くことができる、という理由で、作業記録の中にメモが大量に増えました。
■これは何か
もちろん、これまでも大量にメモは書いていました。なにせメモ魔を自称するくらいです。しかし、その大半は一行だけの走り書きで終わっていました。「困ったときは、リストを作る」とか「家事と仕事の報告価値の違い」などの見出しだけのメモが大半だったのです。
作業記録を書くようになって、そのメモが「膨らむ」ことが増えました。すべてではないにせよ、いくつかは文章化されることになったのです。
そうして書いた作業記録を読み返して、懐かしい気持ちになりました。ああ、これは過ぎ去りし「手帳」なのだ、と。
アナログの手帳を持ち歩いていたころは、単に見出しメモを書き出すだけでなく、それなりの塊の文章を書き出していました。もちろん、持ち歩ける手帳なので書ける文章量はそう多いものではありません。それこそメモに毛の生えたようなものです。それでも、そこには文章がありました。
一方、完全デジタル化して以降は、メモは徹底的に見出し化していきました。見出しメモを保存しておき、それを「使う」(何か原稿を書く)ときになったら、メモをもとに文章を起こす。そういうフローです。言い換えれば、何かに「使われ」ないメモは、永遠に見出しメモのままに止まっていました。
この点は、iPhoneが「手帳」の機能の多くの部分を代替している点が影響しているでしょう。いちいち手帳を開くことなくメモを書きつけられるiPhoneは、見出しメモを書きつけ保存しておくには最適のツールですが、少しまとまった文章を書き残すにはやや力不足です。あの画面サイズでは、140字のツイートがいいところでしょう(その意味で、この二つの組み合わせは最高のマリアージュだったでしょう。ゲームボーイとテトリスのように)。
また、単にツールだけの問題でもありません。元気なころの私は、ひっきりなしに作業をしていました。Aの原稿を書いたら、Bのブログを更新し、Bのブログを更新したら慌ててCのブログも更新する。合間にタイムラインとブログをたくさん読んで、Scrapboxのメンテナンスもちまちまと行う……まるで立ち止まると死んでしまう動物のようです。
このような状態では、とても見出しメモを展開する余裕はありません。
もちろん、その状況は理解しているので、「メモを処理する」というタスクは立てるものの、その優先順位が高くなることはなく、ほとんど実行はされませんでした。そのときの私は、何かを更新することが至上命題になっていたからです。言い換えれば、更新に追い立てられ、息つく暇もない状況だったのです。
それが、作業記録をつけるようになって変わりました。前回にも書きましたが、作業と作業の間にちょっとした隙間が生まれたのです。その隙間に、メモは芽吹きました。
日常の中に、ふと息つく瞬間が生まれ、その時間にメモをさらさらと書き進める。そのメモは、非常に楽に生み出されます。身構えたアウトプットではなく、素直な思索の記述。まさに過去の私が手帳に書いていたような事柄です。
作業記録のメモは、いきなり文章メモを書き下ろすこともありますし、いったん見出しメモを書いておいて、別のちょっとした時間に文章化することもあります。どちらにせよ、日常の中に、思索を文章化する時間が入り込んできました。嬉しい変化です。
■Next step
そのような変化を経て、メモを書く生活が戻ってきました。しかもデジタル化して、パワーアップしての復帰です。
もちろん、これだけで終わったのならば劇的な変化とは言えません。せいぜい文章メモが増えただけの話です。大きな変化は、このステップを経て、さらに未来方向へと続いていきます。その話は次回お送りするとしましょう。
(つづく)
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