Weekly R-style Magazine 「読む・書く・考えるの探求」 2018/07/09 第404号
はじめに
はじめましての方、はじめまして。毎度おなじみの方、ありがとうございます。
ついに色校の確認が終わりました。
印刷所に入稿するファイルを確認する作業で、つまりは私の(原稿内容に関する)作業は終わりつつある、ということです。
もちろんそれが終わっても、販促周りの仕事が残っているので、やることはまだまだあるわけですが、ようやく肩の荷を下ろせる感じにはなってきました。
いよいよです。
〜〜〜嬉しい感想〜〜〜
先週のメルマガで、Scrapbox「本の感想箱」プロジェクトを紹介したところ、嬉しい感想を頂けました。
書籍の執筆中は、自分が書いた稚拙な文章をごく微量ずつブラッシュアップし続けていくという、シジフォスさんの試練みたいな状況に陥ってしまうので、ぜんぜん関係ない方向からでも良いフィードバックがもらえるのは嬉しいですし、元気ももらえます。ありがとうございます。
で、それとは別に上記のページを読んで思ったのが、「いまさら」な話題についての価値です。
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それよりは、ガンガンに使いまくって、使いこなしていったあとの「屈託」「偏愛」こそが、真に滋養ある知的生産の成果物……に近いものなのではないか、と思うのです。成果物、というのが言い過ぎだとしたら……そうですね、変な例えになるのですが……それは、鰹節や昆布で時間をかけて、しっかりした一番出汁をとった後の、出がらしの鰹節や昆布、といったものへの愛情。屈託すら、語るのが楽しい。
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たとえば、本号で特集的に取り上げる『アウトライン・プロセッシングLIFE』という本は、最新の話題にはまったく触れていません。WorkFlowyはすでにお馴染みなツールであり、その話題には「いまさら」感があります。
しかし、その本には、三日間煮込んだビーフシチューのような濃厚さがあります。そして、そのような濃厚さは、「最新の話題を今すぐキャッチアップ」というスタイルでは決して生まれてこないでしょう。徹底的に使い込まれ、世間が「今さらそれかよ」というタイミングでしか、生まれ得ないものだと感じます。
最新の話題が次々と流れていく現代だからこそ、「いまさら」を恐れない、むしろそれを大切にしていく姿勢は貴重なものになっていくのかもしれません。
〜〜〜スラム街の体験〜〜〜
炎上してすぐに消えてしまったのですが、「スラム街の暮らしを肌で感じたい!」というキャッチコピーのクラウドファウンディングがあったようです。
で、この企画とはまったく切り離して、純粋な思考実験として考えるのですが、裕福な国に住む人間が貧困な国に訪れて、自分の心理的欲求を満たす行為が、仮に倫理的に正しくないのだとしたら、まったく同じことを、仮想空間のVRで行ったらそれはどのように評価されるのでしょうか。
現実に存在する人間を見下したり、嫌な気分にさせないならば、特に問題はないと言えるでしょうか。
あるいは、その仮想空間世界が、現実の世界を寸分の狂いもなくキャプチャーしたものであったらどうでしょうか。リアルな人間は(当事者以外)存在しないにしても、そのコピーがそこにある場合、当事者の行為はどう評価されるでしょうか。
ここで考えたいのは、行為の是非ではなく、行為の評価基準となっている要素は何なのか、ということです。
もちろん答えを所有しているわけではありませんが、だからこそ考え込んでしまいます。
〜〜〜議論について〜〜〜
たまに「Twitterは議論に向かない」という話を聴きます。たしかにそういう側面はあるように思います。ただ、それ以前に、そもそも当人に議論する能力があるのかどうか、という点も考慮される必要があるでしょう。
一口に「議論」といっても、その内容に関するコンセンサスがあるわけではありません。自分の意見を大声で叫び続けることを「議論」だと考えている人がいるかもしれません。相手の話をろくに聞かず、ただ否定し続けることを「議論」だと考えている人がいるかもしれません。ただただ論破することが「議論」だと考えている人がいるかもしれません。
このように、「議論とは何か」という理解がバラバラの状態では、どのようなツールを使ったとしても「議論」は成立しないでしょう。
でもって、「議論とは何か」というコンセンサスを成立させるためには、議論が必要なわけです。ウロボロスです。
〜〜〜きつねうどん〜〜〜
いつも行く(大衆)食堂っぽいお店で、「きつねそば」を頼んだら、「きつねうどん」が出てきました。値段はまったく同じで、麺がそばではなくうどんになっていだけです。
そういうとき、皆さんならどうされますか。
私はそのまま、何事もなかったかのように食べました。誰に文句も言いませんし、そもそも文句の発生原因となる心理的不快感も持ちません。「まあ、ええか」と思ってそのままうどんをずるずると啜りました。
もちろん出てきたのが「きつねうどん」ではなく、「きつねペペロンチーノ」とかだったら、さすがに「これはちょっと」と苦笑しながら店員さんに言うかもしれませんが、うどんとそばなんて(そばアレルギーを持っていない限りは)大した差はありません。
でもって、私はお店に行くと、毎回同じものを注文するので、そういうランダムな「ノイズ」がない限り、自分の引き出しが広がらないということも理解しています。たまたま出てきたものを、そのまま受け取ることで、「案外、これもいいじゃん」という発見がある──かもしれません。
もちろんそこまで理屈をつけて判断しているわけではありませんが、そういう細かいことをいちいち気にしないようにすると、人生はだいたい平穏です。
〜〜〜2018年自分が選ぶ上半期の成果〜〜〜
Twitterで以下のタグを見かけました。
ふと気がつくと、2018年も半分がすぎちゃっているわけですが、そういえば、2017年の9月以降まとまったアウトプットが出せていません。言い換えれば、本が出せていません。
年末あたりから調子を崩し、途中自律神経系の不調にまで至ったので、仕事量を徹底的に落とし、必要最低限の仕事だけに取り組んできました。だから、本が書けていないわけです。
ということを考えてみると、「2018年自分が選ぶ上半期の成果」は、やっぱり「生きのびた」となるでしょう。
こういうときに、自分は何もしていない・空白だという感覚が生じてしまいがちですが、本当に何もしていないわけではありません。生きのびるために精一杯の営為を行い、実際にそれを達成したわけです。それはきちんと評価すべきでしょう。
当たり前のように思えることが、案外当たり前でなかったりすることはよくあるわけなので。
〜〜〜Q〜〜〜
さて、今週のQ(キュー)です。正解のない単なる問いかけなので、頭のストレッチ代わりにでも考えてみてください。
Q. 2018年の自分が選ぶ上半期の成果は何ですか?
では、メルマガ本編を始めましょう。
今回は『アウトライン・プロセッシングLIFE: アウトライナーで書く「生活」と「人生」』を巡るお話をガッツリお送りします。
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2018/07/09 第404号の目次
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『アウトライン・プロセッシングLIFE』を巡るいくつかのお話
○その1:言及の難しさ
○その1.5:近しい内容
○その2:アウトライン・プロセッシングについて
○その2.5;いかに伝えるか
○その3:自分なりの発見
○その4:目次案の書きづらさ、目標の生きづらさ
※質問、ツッコミ、要望、etc.お待ちしております。
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『アウトライン・プロセッシングLIFE』を巡るいくつかのお話
○その1:言及の難しさ
本書を読了し、さてブログで紹介記事でも書こうかとエディタを開けてみたところ、予想外の難しさに直面しました。その難しさは、おそらく次の二つの要素で構成されています。
その1:構成が類型的でない
その2:自分の書いてきたことと近しい
まず一番の理由ですが、本書のような本はこれまで読んだことがありません。こんな風に構成されている本は、私の(頭の中にある)本棚には一冊も存在しないのです。だからまず、本書を適切に言い表すための言葉が見つかりませんでした。
本書は、アウトライナーに関する本です。
本書は、タスク管理についての本です。
本書は、人生の目的を扱うための本です。
それぞれの説明は、たしかに間違いではありません。しかし、そのように断片的に語ってしまうと、本書から受ける印象とは大きくズレてしまいます。しかも、上記のように3つの要素を列挙しても足りないのです。それぞれの要素を含む、何か一つについての本なのですが、それに当てはまる言葉を見出せませんでした。
また、それと関係することですが、本書は実用書であって実用書ではなく、エッセイ的でありながらエッセイでなく、論説的内容を含みながら論説文ではなく、ある種の物語でありつつも物語ではありません。私が書店の店員さんで、この本の置き場所を真剣に考え始めたら、きっと困っていたでしょう。どれでもあるし、どれでもないのです。
一体全体、この本はどのようにして誕生したのでしょうか。実に気になります。
前著にあたる『アウトライン・プロセッシング入門』は、まだ実用書っぽさがありました。技術評論社さんから発売されている『アウトライナー実践入門』はさらに実用書の体裁が整えられています。しかし、本書は──それらの面影を残しつつも──、本としての構成はまったく異質です。
どうにか頑張って、中心となる要素を探してみると、「著者が実際にアウトライン(あるいはアウトライナー)とどう向き合ってきたのかの実際例」というのがギリギリ近しい気がします。そうした話がまず骨子にあり、そこから情報をいかに操作すればいいのかの話が展開されていく。つまりこの本は、極めて個人的な本です。
たとえば、巷によくあるEvernoteの解説本などは、ぜんぜん個人的な本ではありません。「一般的」な操作説明や用途が語られているだけで、著者とそのツールの「付き合い方」は掘り下げられていないものがほとんどです。多少利用方法や使用哲学に言及しているものもありますが、その話がベースになっている本は皆無です。
そこでふと、頭の中の本棚の前に立ち、端から書籍をずらっと眺めてみると、かつてこういう印象を受けた本があったのではないかという記憶がおぼろげに立ち上がってきます。
たとえば、そう、『知的生産の技術』という本は──そのタイトルが持つ一般性に比べると──極めて個人的な本だと言えます。著者は一般論に触れつつも、徹頭徹尾「私はこうして試行錯誤してきた。今はこうなっている」という話が展開されています。もし、あの本の「ノートからカードへ」あたりの話をピックアップし、それを展開して一冊の本にすれば、本書と似たような感触を受けたかもしれません。
ここまで書いてきて、やっとこの本の輪郭線が掴めたような気がしてきました。まったくの勘違いかもしれませんが、それでも構いません。どこかに位置づけられれば、それがスタートとなります。間違いであれば、後から修正すればよく、修正するためには、まず配置することが必要です。
で、そのように位置づけてみると、たとえば私とEvernoteの付き合いにおいて似たようなコンセプトを立ち上げられるのではないか、という発想に至ります(これがやじるしラバー的発想です)。
inboxの処理、ノートブックの新規作成、タグの設定、検索……それぞれにおいて、私が何を考え、どのように実践し、どう不具合を感じて、どう乗り越えてきたのか。それを赤裸々に語る本です。
でも、それだけでは充分ではないでしょう。それでは単なるノウハウ本で終わってしまいます。本書が、「やること管理」にある試行錯誤を通して、ひとつの大きなことを伝えていたように、私のEvernote本でも、そこに何らかのメッセージがないと非常に薄っぺらいものに仕上がってしまいそうです。
と、話が大きく脱線してきたので、ここでいったん止めにしておきましょう。
ともかく、本書は「これまでになかったような本」であり、「一言でその印象を言い表すのが難しい本」でもあります。
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