見出しメモの種類とメモをまとめるテーマ設定/ブログとの距離感の変化/値段設定について
Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~2020/06/29 第507号
はじめに
はじめましての方、はじめまして。毎度おなじみの方、ありがとうございます。
ついに『三体Ⅱ 黒暗森林』が発売となりました。ハードカバーの上下巻で、ボリューム的にも財布的にも圧倒的存在感です。
私はさっそく発売日に買って、一気に読み上げ……ようと思ったのですが、なぜかもったいない気持ちが湧いてきて、ちびちびとしか読めていません。
だって一気に読んでも、続刊がまだ先だしな〜みたいな気持ちが邪魔しているのでしょう。
とは言え、物語が乗ってきたらきっと止まらないと思います。今から楽しみです。
〜〜〜あの人たちの情報発信に期待できないもの〜〜〜
ブロガーの中には、広告をクリックしてもらって対価を得ている人たちがいます。そういう人たちは、広告をクリックしてくれる人が多ければ多いほど、自分の利益につながります。
つまり、誤クリックを避けたり、情報を吟味する力があって広告はほとんどクリックしない、という人が増えるのは嬉しくないわけです。言い換えれば、そういう人たちは、クリックしてしまう人を減らすような行動を起こす積極的な動機がありません。
端的にまとめれば、市民の情報リテラシーが上がらないほうが嬉しいわけです。
その点は、「いかがでしたでしょうか系ブログ」をいくら読んでも、情報を扱う基礎的なリテラシーが向上する見込みはない、という状態からも確認できそうです。
よって、そういう人たちだけに情報発信を一任していては、市民全体の情報リテラシー向上はなかなか望めません。そうでない動機を持つ人たちが必要となります。
「アフィリエイトやらなんやらで利益を提供すれば、世の中の情報発信が増えて、全体的にハッピーになる」とは言えない、ということです。悲しい事実ではありますが。
〜〜〜理知的である、ということ〜〜〜
どれだけ知識を豊富に蓄えていて、口が達者でも、「あの人は理知的だな」とは思えないことがあります。それも、少なからずあります。
きっと理知的というのは、聡さの高低ではないのでしょう。むしろ、知性の現れ方の一つなのだと感じます。
自分の考えや感情とどのように向き合い、どう対処するのか。
感情を抑えることではなく、適切な距離感でそれと付き合えること。それが理知的な態度ではないかと思います。
〜〜〜圧倒的無謬感〜〜〜
自分のことを振り返ってみても怖くなるのですが、他の人に何かを注意しようとしていたり、間違いを指摘しようとしていたりするときの、自分の心の有り様が極めて「無謬感」に支配されているのです。
簡単に言えば、「自分は絶対に正しい」と思っているのです。もう少し正確に言えば、「自分が間違っている」という感覚がみじんも浮かんでいません。これってかなり怖いことです。
おそらく誰かを大声で怒鳴っている人も、同様の無謬感で満たされているのでしょう。だからこそ、大声で怒鳴れるのだ、とも言えますが。
「指摘しようとしている自分が間違えているかもしれない」
文章で書くと、ごくごく当たり前のことですね。なんといっても、人間はだれしも間違える存在なのですから。でも、自分が間違いを見つけると、あたかもその認識が間違っているとは思えなくなってしまう。一つの間違いに注意が向くと、別の間違いへの注意が消失してしまう。
これは、トリックでよく使われる、「わざと小さいミスを発見させることで、より大きなミスから目を逸らさせる」のと同じ構造をしているように思います。
無謬感に溢れているときほど、横柄な態度を取りがちなので、重々注意したいところです。
〜〜〜自由なWordPress〜〜〜
とても面白いブログの存在を知りました。
なんとWordPressで作られています。
WordPressというと、最近は「ああ、あれね」とすぐにわかるテンプレートが普及していて(その多くはSEOに強いと言われています)、ほとんど見分けがつかなくなっている状態ですが、上のブログは圧倒的な存在感を放っています。
しかも、単にユニークなだけでなく、きちんと理にかなった構造をしています。というか、当人が「そうやりたかった」形を体現しています。
HTMLとPHPとWordPressの構造を理解していれば、かなりの程度「自由な構造」を作れるはずなのですが、実際はその理解のハードルが高く、多くの人はテンプレートそのままか、少し改造した程度のテーマを使っています。
それ自体は別に構わないのですが、コンテンツの発想がその「テーマ」ありきになってしまう点が厄介です。自由なレイアウトがあれば、もっと多様な書き方やサイトの構成ができるかもしれません。でも、「テンプレート」ありきになってしまうのです。
私自身も、今のR-styleのトップページの構成に「なんか、違うんだよな。これじゃない」感を持っているので、もしかしたら地道に作り直していくかもしれません。
そんな風に、ブログは本来は一つひとつ違う「メディア」なはずなのです。
〜〜〜『ライターマガジン』〜〜〜
ライターのための雑誌が創刊されるようです。
一冊2500円(税別)と少々お高いですが、他で読めない情報が満載なのはたしかでしょう。
私はとてもライターとは呼べないのでなんとも言えませんが、テキトーな勉強会に参加したり、よくわからない資格を目指すなら、こういう雑誌で情報を集めて、記事を書くことにチャレンジしてみるがよいのではないかと思います。
〜〜〜アナログノートと図版〜〜〜
私は、頭の中に情報のリンクが、「関係図」として思い浮かぶので、どうしても「手書き」できるツールが手放せません。別にそれがアナログツールである必要はないのですが(手書きできればなんでもいい)、一方で文房具の使い心地の良さがあるので、アナログツールからはなかなか離れられません。
ただし、アナログツールだと、一度入力したものを後から変えるのが難しかったり、キャンパスのサイズを後から広げるのも困難なので、長期的に書き込んでいくことを考えれば最終的にはデジタルに帰着させるのがベストだと思います。
いよいよiPadか……。
〜〜〜ツールの擬人化〜〜〜
先週号で『転生したらスプレッドシートだった件』という本を紹介しました。Twitterでもつぶやき、ついでに「技術書&ライトノベル」の類似性から拙著の宣伝もツイートしたところ、こんなつぶやきをいただきました。
で、そのつぶやきを見て、ぱっと思いついたのが、以下のアイデアです。
なんか、悲惨な話になりそうですね。でもって、だったら、いろいろな情報整理ツールを擬人化してしまって、それでワイワイガヤガヤ盛り上がりつつ、それぞれのツールの特性が紹介される小説があったらいいのでは、と追加で思いつきました。
面白そうではありますが、書くのは極めて難しそうです。
〜〜〜今週の三冊〜〜〜
今週見つけた本を三冊紹介します。
いわゆる文章読本です。「展開、構成、編集者・出版人、取材、言及の枠組み、確認、第四稿、省略」といった章題が並んでいます。プリンストン大学で行われた特別講義がベースになっているようなので、わかりやすい話に整えられていそうです。
内容紹介が「家族構成の分析を通して、世界像と歴史観を一変させる革命的著作」と極めて短いのですが、もちろん内容はディープです。タイトル通り、家族構造をいくつかのタイプで分類し、文化との関係が論じられています。
「コスモポリタニズム」ってすでに懐かしい言葉になりつつありますが、これはグローバリズムと同じ意味ではありません。グローバリズムは世界をフラットにするものですが、コスモポリタニズムは文化の多様性を内包する全体感です。インターネットに欠けつつあるもの、この視点でしょう。
〜〜〜Q〜〜〜
さて、今週のQ(キュー)です。正解のない単なる問いかけなので、頭のストレッチ代わりにでも考えてみてください。
Q.「知性」を定義してみてください。
では、メルマガ本編をスタートしましょう。
今週も「考える」コンテンツをお楽しみくださいませ。
――――――――――――――――
2020/06/29 第507号の目次
――――――――――――――――
○「見出しメモの種類とメモをまとめるテーマ設定」 #知的生産の技術
○「ブログとの距離感の変化」 #知的生産エッセイ
○「値段設定について」 #セルパブ入門
※質問、ツッコミ、要望、etc.お待ちしております。
○「見出しメモの種類とメモをまとめるテーマ設定」 #知的生産の技術
まずは、メモについての補足から。
■一行だけのメモの種類について
以下の記事を読みました。
重要な指摘です。
前々回で、メモの種類として「見出しメモ」と「文章メモ」の二つを紹介しました。で、前者の見出しメモは「一行だけの書きつけ」であることが多いのですが、この「一行だけの書きつけ」には、二つのタイプがあります。
たとえば、メモを以下のフォーマットに沿って記述するとします。
memo:title
memo:body
memo:titleには、そのメモのタイトル(見出し)が記入され、memo:bodyには、そのメモの本文が記入されます。
このとき、「一行だけの書きつけ」は二つの現れ方をします。すなわち、memo:titleだけが記述してあるものと、memo:bodyだけが記述してあるものです。
そして、私が「見出しメモを文章メモ化する」と表現するのは、memo:titleだけのメモに、本文を記述することか、あるいは、memo:bodyの内容を肉付けすることかのどちらかです。
■タイトルはなくてもいい
私がEvernoteの作業記録ノートに書くメモは、ナンバリング、タイトル、本文の三要素で構成されていますが、その中で欠落がありえるのはタイトルだけです。つまり、以下のようなメモは存在します。
495
物書き同士の分かれの言葉を、good-writeとするのはどうか。
しかし、ナンバリングとタイトルだけがあって、中身(memo:body)が欠落したメモは存在しません。すべてのメモは中身を持っています。この中身作りが「見出しメモを文章メモ化する」という行為の意味です。
これは一見ささいな違いに思えます。つまり、以下の二つは同じように思えます。
495
物書き同士の分かれの言葉を、good-writeとするのはどうか。
495 物書き同士の分かれの言葉を、good-writeとするのはどうか。
実際私も、textLineという自作ツールを作ったときには、「タイトルと本文があるメモ」と、「タイトルだけがあるメモ」の二種類が管理できるようにしました。言い換えると、一行だけで書き留めたメモは、すべてそれがタイトルになって保存されていたのです。
しかし、「物書き同士の分かれの言葉を、good-writeとするのはどうか。」は、どう考えてもタイトルではありません。タイトルや見出しでないものが、タイトルの欄に記載されているのは、違和感を生じさせます。特に他のカード(タイトルと本文が両方揃っているカード)と並べたときに、認知的混乱を生じさせます。
たとえば、書籍でページ番号が振ってある場所に、突然その本の値段が印刷されていたらびっくりしますよね。そこまで極端ではなくても、情報の粒度と記載位置がズレていると、脳の情報処理に負荷をかけてしまいます。これは、存外に大きい問題で、決して無視できません。
で、仮に上のメモに強いてタイトルを付けるとすれば、「作家同士の新しい挨拶の提案」などになるでしょう。その言葉が置かれているならば、別段違和感は起こりません。
495 作家同士の新しい挨拶の提案
物書き同士の分かれの言葉を、good-writeとするのはどうか。
また、こうやってタイトルづけの作業を発生させておけば、私がこの着想を思い出すときのフックとして働きます(プログラミングで言えば、適切な名前の付け方をしておくと、関数の中身を見なくても、その働きがわかるということに似ています)。
逆にタイトルづけしなければ、曖昧なままこの情報は保存されて、「そういえば、以前good-なんとかって考えたな」みたいな思い出し方をしたときだけに引き出されることになります。言い換えれば、タイトルがない状態のこの中身(memo:body)は、(認知的に)一段低い場所に置かれて、「タイトルだけ」を確認していくときには、通り過ぎられていくのです。
そのような段差(凸凹)があった方が、後からつらつらと見返していくときには、むしろスムーズに進められるようになるのです。
■一区切り
以上、「見出しメモ」と「文章メモ」についての補足でした。「文章メモ」というと、いかにもたくさんの文が含まれているように思えますが、一行だけのものもたくさんあります。単にそれが「タイトル」や「見出し」ではない、という意味での「文章メモ」なのです。
というわけで、続いて前回で言及した「仮であってもテーマを設定する」という話に移りましょう。
■読書にテーマ設定
まず、言及したい話題が二つあります。一つが、これまで何度も取り上げている「ビオトープ的積読環境」です。『積読こそが完全な読書術である』で紹介されているこの情報環境構築法の肝は、「テーマを決める」点にあります。
「そのときどきの自分の関心を仮に決めて、そのテーマに沿って新陳代謝させる」
そのテーマ自体は何であっても構いません。「自分の生涯の研究テーマ」のような大きなものを掲げる必要もありません。たんに、そのときの自分が興味を持っているもの、あるいは方向性に応じて、テーマを設定すればいいのです。
設定したテーマは、時間が経った後に変わっても構いません。というか、変わるのが普通でしょう。そのときそのときによって、自分が興味を持つ対象が変わりえますし、まさに積読して読み進めた本によって変わってしまうこともあります。
テーマを決め、しかしそのテーマに固執せず、アップデートすることを厭わない。
そうした姿勢を持っておくことで、ネットから飛び込んでくるさまざまな情報たちの誘惑を退けられる。それが、「ビオトープ的積読環境」を構築する意義の一つです。
「どうせ変わってしまうテーマなら、設けなくてもいいんじゃない?」
という意見は、「どうせ変わってしまうなら、アウトラインとかいらないんじゃない?」とか「デイリータスクリストなんか不要じゃないの?」という意見と同じであって、基本的には的外れです。むしろ、変わってしまうような状況だからこそ、指針となるものが必要なのです。
テーマを決めて、それに沿った読書を進めるという指針を持っていないと、ネットで目に入るさまざまな「面白そうな情報」に飛びついてしまいます。あっちにいったり、こっちにいったりするだけでなく、なんだかんだでグルグル一周回ってどこにも行っていない、みたいなことも起こります。
なぜなら、私たちを誘惑する情報が、私たちを適切に導いてくれるとは限らないからです。むしろ「クリック数争奪戦」に参加しているコンテンツは、私たちをどこにも導かないことによって、その争いに勝利しようとしているとすら言えます。だから、指針なしは危険なのです。
たくさんの「俺を読め」という強い誘惑の声を遮断するために、それを遮るための「壁」を作る。いわば「閉じて」しまう。そういう姿勢が必要となってくるのです。
もちろん、単に閉じこもるだけでなく、それを「新陳代謝」させていく(あるいはテーマを変えていく)ことが同時に必要である、という点もまた大切です。
これが、一つ目のお話。
ここから先は
¥ 180
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?