DoMA式と和式の部屋の概念
(前回)
DoMA式は、非GTD的ではあるのだが、なぜ「土間」なのだろうか。
まず指摘しておきたいのは、私たちが使うソフトウェアに潜む西洋的発想である。
『謎床』の中で、松岡は「デスクトップ」のようなメタファーが世界を席巻したが、それ以外のメタファーもありうるし、その中には日本式のものがあってもいいはずだと問題提起している。確かにその通りだ。私たちは当たり前に「デスクトップ」を使うことによって、それに疑いの目を向けることができていない。
そして、デスクトップにある「フォルダ/ファイル」の構造は、広く見ればカテゴリー、つまり排他的な分類に合致する。物事を一義に位置づける手つきである。それは、天使の階級や生命の樹から来ているのかもしれないし、何か別のものに由来するのかもしれない。ともかく、西洋的な発想では、「一物一義」のやり方が数多く見られる。
思い出してみよう。GTDは、「気になること」をワークフローで分類していく。結果的に、「気になること」は必ずどこかの場所に落ち着く。
一つの場所に。役割や使命といった概念も同様である。私は、「弟」でもあり「夫」でもあり「息子」でもあり「友人」でもあり「市民」でもある。個人にそうした複数の役割は認めるものの、それらは決して重ならないものとして、つまり排他的に位置づけられている。
そうした「カテゴリー」は、認知的にすっきりしているので池上彰の解説のようにわかりやすいが、しかし現実に直面すると、そんなに簡単に割り切れないことがわかる。私たちは「夫」であるときも、「市民」なのである。「夫」モードになっているからといって、「市民」性から開放されるわけではない。
西洋的なカテゴリーの発想は、そうした多重性・多義性を認めない。当然それは矛盾を追放することにも通じてくる。AであるならばBではないし、BであるならばAではない。しかし、現実の私たちは「Aでありつつも、Bである」ことがある。そういう現実が扱うのにややこしいから、一種のモデル化を経て、排他的な分類に押し込んで、なんとか「対処」しようとする。それは一つのやり方ではあろう。
しかし、別のやり方もあるのではないか。
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ここで、日本家屋の「部屋」に思いを馳せてみよう。
日本の部屋は、固定した役割を持ったものもありながら、そうでないものもある。たとえば、座布団を敷けば居間や茶の間になり、食卓を配置すればダイニングになる。布団敷けば寝室になるし、ふすまを外せば大部屋になって宴会や葬儀が行われる。実に多義的だ。コンテキストに合わせて、ころころとその姿を変える。
それだけではない。たとえば土間は、家の中でありながら、地面と同じ高さの場所である。そこは、「家の中であって、家の中ではない」「外であって、外ではない」という矛盾を抱え込んでいる。そしてその場所が「中と外」を接合する場所になっているのだ。
このような存在は、残念ながら西洋的なメタファーによって作成されたソフトウェアではなかなか表には出てこない。実装するためにはある種の「ハック」が必要となってくる。あるいは、はじめから汎用的に作られたものを和式に運用するしかない。その一つがDoMA式というわけだ。
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私たちの注意は、固定された対象に継続的に向けられることもあるが、状況によってころころ姿を変え、コンテキストを変えることもある。西洋的なツールでは、それにうまく対応できない。
また、「Aでもあり、Bでもある」のようなものが出てくる場合、「Aのリスト」「Bのリスト」のように振り分けるやり方だと、どうしても違和感が生じてしまう。「間違ってはいないんだけど、十全ではない」という感覚がぬぐいきれなく残ってしまう。
だから、日本の「部屋」のようにころころと変えていける方がいい。固定的なリストに制約されず、自分が向けた注意に合わせてその姿をリニューアルできる方がいい。アウトライナーは、まさにそれにベストなツールである(もっと言えば、WorkFlowyは極上である)。
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一言付け加えておくと、私は別にGTDに非を唱えたいわけではない。そうではなく、私が疑義の視線を向けているのはもっと大きな「西洋的メタファー」である。完全なリストを作ること、すべてを一義(一意)に位置づけること──たしかににそういうものがあれば、集団での情報のやり取りは簡易になるであろう。しかし、ここで必要なのは個人の情報の扱いである。共有的なカテゴリーに従う必要はどこにもない。
また、その「個人」は、私に閉じたプライベートではなく、公と接続したパーソナルを意味している。だから、情報の入り口の玄関は開けておかなければいけない。完全に閉じてしまえば、それは私という牢獄に入ることを意味する。
しかし一方で、自分のための情報保管庫も必要である。風通しを良くしすぎて、入り口からそのまま居間に上がられても困ったものである(電子メールの受信箱がそうなっている)。だから、中間的な折衝地帯(どちらでもあり、どちらでもない)を設けることになる。それがデイリーである。
言い換えれば、今を認識する「私」は、私という閉じた世界にありながら、(脳から見たときの)外部からの情報を取り入れている。その情報処理の結果として、「私」がある。つまり、「私」はインターフェースなのだ。内と外をつなぐための接面。それが「私」である。
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話がドビューンと飛んでしまったが、私がDoMA式の哲学が重要だと思っていることは以上のような点からである。もちろん、DoMA式だけが答えだとは思っていない。他にもいろいろな方法があるだろう。ただ、「一物(≒一場所)一義」のリストから開放されるための視点は必要だと思う。
もちろん、DoMA式だってリストを作っているわけだが、それらは動くことで、「一義一場所」を(ゲリラ的に)撹乱している。固まりかけたら、振れば(シェイクすれば)いいのだ。
ともかく、先にあるカテゴリに思考を占有されないこと。それを「当たり前」だと思って、疑義を挟めなくなるようなことは避けること。そのために、今の私が持つ「注意」に注意を向けること。そこにある矛盾を受け入れること。そういうことが必要になってくる。
というわけで、次回はDoMA式的な項目の運用について考えてみよう。
(つづく)