独楽のような自信(エッセイ)
自信というのは、不思議なものです。「自分が自分を信じること」
図式化すれば以下のようになるでしょうか。
自分→自分
ここには紛れもなく、再帰的な構造があります。適切に処理しないと極めて危険な現象が生じるでしょう。
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自分→自分→自分→自分→……
自分が自分を信じるとして、では、その信じている主体の自分は誰が信じるのでしょうか。ここが一番の問題です。だからこそ、自信がない人に向かって「もっと自信を持て」と言ってもほとんど意味がありません。
信じようとするその自分そのものが信じられていないのですから。
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自信というのは、独楽のようなものでしょう。
自分が自分を信じるという自分を信じるという自分を信じるという自分を……
これが切れ目なく循環している限りにおいて、「自信」は存在しえます。それは再帰的構造が作り出す一種の動的な状態です。
→自分→自分→自分→自分→自分→……
上記の構造が保持されている限りにおいて、自信に根拠は必要ありません。自分が自分を信じているというループ構造が回っているかぎり、そこには自信が存在するのです。
しかし、どこかでそのループが行き詰まってしまえば、いずれは独楽のように止まってしまいます。そして、そのままではもう二度と回り始めることはありません。
つまり、自信とは「自信を持つ」という言葉が示すような、何かしらの「持ち物」ではありません。精神構造の状態的記述なのです。
もし自信が「持ち物」のようなものであれば、一度所有した自信が失われることはそうそうないでしょうし、また半分だけ自信を失う、ということも起こりそうです。
が、現実はそうではありません。
一度でも自分に疑義の視線を持てば、あっという間に自信は喪失(全壊)しますし、50%程度自信がある、というような状態もありません。強度は別にして、自信は「あるか、ないか」の二つの状態しかないのです。それは、速度は別にして、独楽が回っているか、止まっているかしかない、というのと同じです。
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静止した独楽は、ひとりでに回り始めたりはしません。独楽は、回すものです。
グルグルと紐を巻きつけ、エイヤと引っ張る。そうした外部的な力の介入によって、独楽は回り始めます。
自信も同じようなものでしょう。
最終的に至る状態が、
→自分→自分→自分→自分→自分→……
のように「自分」で閉じた状態だとしても、その状態に至るためには、外部者が必要となります。クルクルと巻きついて、エイヤッと動力を与えてくれる外部者。つまり、自分のことを信じてくれる他の誰かです。
『天元突破グレンラガン』のカミナは、自信を持たないシモンに向かって、最初にこう言います。
>>
「自分を信じるな!俺を信じろ!お前を信じる俺を信じろ!!」
<<
その後、カミナのセリフは少し変わります。
>>
「お前を信じろ!俺が信じるお前を信じろ!!」
<<
最後はこうなります。
>>
「俺が信じるお前でもない。おまえが信じる俺でもない。おまえが信じる、おまえを信じろ!」
<<
少しずつシフトが進んでいることがわかります。カミナは最初、自分を信じようとすることを禁じます。準備が整っていない状態で、自分が自分を信じようとしてもうまくループが回らないからでしょう。
そして、シモンが実績を積んできたところで、信じる対象をずらします。まったく自分を信じていなかった状態から、アニキ(カミナ)が信じてくれる自分を信じようという状態へ。ここまでくれば、独楽が回り出すまではあと一息です。
アニキが信じている自分を、自分が信じられるのであれば、「アニキ」を「自分」を置き換えることで、自分で自分を信じられるようになります。循環構造の完成です。
しかしそのためには、経験を積み、絶対者たるアニキに自分が並びうるという認識を持たなければいけません。そこまできてやっと、独楽がクルクルと回り始めるわけです。
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上記を考えると、「自信とは、自分が自分を信じることでしかないのだから、無根拠であっても自分を信じたらいいんだよ」というアドバイスはいささか安定性に欠けることがわかります。
なぜかと言うと、「無根拠であっても自分を信じたらいいんだよ」というアドバイスで自分を信じようとする人は、自分が無根拠でそれを信じていることを自覚(認識)しているので、「やっぱり自分はダメなのではないか」という疑義の眼差しが確率論的に生じてしまうからです。時間が経てば、また自信なしの状態に落ち込んでしまうでしょう。
そうして独楽が止まってしまったら、また何かしらの自己啓発セミナーに行き、「無根拠であっても自分を信じたらいいんだよ」というアドバイスを(高いお金を支払って)受け、再び独楽を回し始めるわけですが、同じことが繰り返されます。
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結局のところ、最初は何かを信じることから始めるしかありません。というか、すでに自分が信じている何かを見つけることが優先と言えるでしょう。
「信じられないものを信じるようにする」のは簡単ではありませんし、欺瞞が入り込む余地がたくさん生まれます(要するにそれは洗脳とイコールです)。
まずは、何か自分が信じているものを見つける。それは神のような絶対者かもしれませんし、精緻なログなのかもしれませんし、何かを疑っている自分そのものかもしれません。とにかく、自分の心にあるそうした動き(≒ベクトル)を見定め、そこに操作を加えることで、ベクトルの矢印が自分自身に返ってくるようにする。そうして、循環構造を作り上げる。
それが「自信」の作り方なのだと思います。ある対象に向かって必死に努力する、というのも、おそらくはこれのバリエーションでしょう。努力が実るとは限りませんが、努力した事実は(記録か記憶が消えない限りは)のこり続けます。そのことを信じられるなら、そこからの逆照射で自分を信じることも可能になるのでしょう。
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自信というのは、独楽のようなものです。
それが周り続けている間は、安定して屹立できる。
たぶん、自信の役割も似たようなものです。
Weekly R-style Magazine 2017/09/25 第363号より
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