見出し画像

レバレッジリーディングと箱庭的編集/超訳本からの誘い/挫折した読書手帳/網の目の本

Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~ 2019/11/18 第475号

はじめに

はじめましての方、はじめまして。 毎度おなじみの方、ありがとうございます。

やばいくらいに11月も終わりに近づいていますね。今年もあと6週間くらいとなってしまいました。

できれば、『僕らの生存戦略』は今年中になんとか目処をつけたかったのですが、一章を一週間で書き上げるという暴力的なペースでも仕上がりそうはありません。だったら焦らず、じっくり腰を据えて来年の1〜2月くらいを目処にボチボチ進んでいきたいところです。

ちなみにこの本は、オンラインのレビューもお願いしようと思っているので、もし「下読みしてもいいですよ」という方は、募集をお待ちください。全体のラフ稿が上がってから、募集を開始しようと考えております。

〜〜〜『僕らの生存戦略』進捗報告〜〜〜

先週から第一章の執筆に取りかかっています。できれば、一週間で仕上げたかったのですが、もう一歩及ばずでした。序盤も序盤なので、「流れ」がまだ定まっておらず、項目があっちいったりこっちいったりしたのが時間がかかってしまった原因です。

ある程度進んでいけば、そのような右往左往はずいぶん減ってくるでしょうから(ジグソーパズルの後半をイメージしてください)、後半の速度に期待です。

とりあえず、2万字程度の「文章前夜」くらいの原稿は書き上がっているので、それを手直しし、人間に読める「文章」に仕立て直すのが今週の作業です。

これを週の前半で終えられたら、引き続き第二章に取りかかろうと思います。まあ、そんなにうまくいくかどうかはわかりませんが。

〜〜〜ストレッチの著作権〜〜〜

一時期、ストレッチ関係の情報を読み漁っていました。Web記事、YouTubde動画、書籍……。気楽に入手できるものは相当目を通したと思います。

そこで気がついたのですが、さまざまな書籍で同じようなストレッチが登場します。テーマが「腰痛はhogehogeで治る」的なもの(hogehogeには運動やそれ以外の要素が入る)であっても、どこかしらにはストレッチが紹介されていて、それらは多少のアレンジはあるものの、基本的な動作は同じなのです。

そうすると、「腰痛が治るのってそのhogehogeじゃなくて、ストレッチのおかげなんじゃ……」なんて疑ってしまうわけですが、それはそれとしてはたと気がつきました。ストレッチ(のフォーム)には著作権がないんだな、と。

よほど特殊なポーズ以外は、誰かの所有物ということはないでしょう。よって、自由にそれを紹介できます。だからこそ、巷にはストレッチ本がわんさか並んでいるのでしょう。なんならほとんどコピペで一冊の本が仕上がるのですから。

とは言えです。(極端に言えば)誰でも作れてしまうコンテンツだからこそ、差別化は難しくなります。なにせストレッチのフォームそのものには大きな差はつけられないのですから。

という視点で、世の中のストレッチ本を眺めてみると、それぞれの本が特色を出そうと工夫している点に気がつくようになります。一番簡単なのは「権威づけ」(≒凄い先生による教え)ですが、そればかりが手段ではありません。

ページ作り、フォームの見せ方、補佐情報の提示など、細かい点で違いを生み出す要素があり、しかも実際それによって本から受ける印象はかなり変わってきます。実体はわかりませんが、似たようなストレッチが紹介されている本であっても、売上げは大きく違うのでしょう。

というわけで、ストレッチの情報を集めていても、ついつい自分の本作りのことを考えてしまう今日この頃でした。職業病ですね。

〜〜〜「極端な意見」〜〜〜

世の中には「極端な意見」というのがあって、それはそれでなかなか面白いものもあるのですが、逆にまったく面白くない……どころか、イライラさせられる意見もあります。それって、一体何が違うんだろう、ということをふと疑問に思いました。

一つ思いついたのは、その意見が議論を可能にしているか(≒開かれているか)という点です。まず「極端な意見」があって、そこからさまざまな別の意見を展開していけるものは面白く感じられ、逆にそれ自身で完結してしまっていて、あとはそれを信じるかどうかだけが問われている、というものは面白く感じない(むしろイライラする)のではないか。

たしかにそういう側面はありそうですが、では、その違いはどのように生じているのか、という別の問題が立ち上がります。でもって、これはなかなか難しい問題です。

もしかしたら、発言者当人とその意見の距離感のようなものが関わっているのかもしれません。ただし、それを確認する術はなさそうです。

〜〜〜普通のノート術〜〜〜

偉人のノート術は話題になりますが、凡人のノート術はさして注目を集めません。なんだったら極悪人のノート術の方が注目を集めそうです。

人気順
偉人>極悪人>凡人

しかし、この世に存在する圧倒的多数が凡人であることを考えれば(それが凡人の定義でしょう)、注目すべきは凡人のためのノート術だと思うのですが、いかがでしょうか。

〜〜〜体系化について〜〜〜

私は、物事を構成する要素を体系立てて説明するのが結構好きです。だからこそ、こういう職業についている側面もあります。

しかしよくよく考えてみると、「体系立てること」そのものが好きなわけではないことに気がつきました。というか、私は理路整然と整いすぎている「体系」に疑いの眼差しを向けることが珍しくありません。

私にとっての「体系化」とは、あくまで説明のためのものです。情報の受け手が、受け取りやすいように整えること。もっと言えば、その上で実践しやすいようにすること。それが体系化の目的です。

だから、それぞれの人が実践していることが、ぜんぜん体系化されていなくたってまったく気になりません。というか、それが「普通」ではないでしょうか。

モデルルームが、あくまでその部屋の雰囲気を伝えるためのものであって日常生活をそのまま反映しているものではないのと同じように、体系立てて説明されているノウハウも所詮は雰囲気を伝えるためのものです。実践の形はそれぞれの人で違っていて構いませんし、何なら違っているべきでしょう。

とは言っても、ある程度整っていない説明というのは分かりづらいものなので、どうしても体系を「装う」必要があります。この辺の塩梅が、なかなか難しいところです。

〜〜〜人を殴る正当な武器はない〜〜〜

以下のようなツイートを見かけました。

 >>
 「価値観のアップデート」に続いて「倫理観」が地雷ワードになりつつある。倫理観、相手を責め立てて自分を高く上げるのにとっても便利な単語だよね。そもそも倫理観のある人間は倫理観で人を殴らないということを除けば。
 <<
 https://twitter.com/kinkan\_mikan/status/1193562991909715970

結局、「倫理観」に限定しなくても、何らかの材料を用いて人を(言説的に)攻撃することに正当性などないのでしょう。どのような武器を用いても、他者を攻撃することは他者を攻撃することです。棍棒で殴ろうが、聖書の角で殴ろうが、殴っている事実に変わりはありません。

そのことは、肝に銘じたいところです。

〜〜〜今週見つけた本〜〜〜

今週見つけた本を三冊紹介します。

 >>
 現地の過酷な生活環境に心折れそうになりつつも、独り調査を積み重ねてきた著者が、独自のユーモアを交えつつ淡々と綴る、思索に満ちた研究の記録。
 <<
 >>
 神の死を宣告し、超人の到来を説いて狂気に倒れたドイツの哲学者は、じつは最もアメリカ的な思想家エマソンの熱心な愛読者だった。ニーチェの反基礎づけ主義の哲学が、ナチズムへの影響という問題を超えて、20世紀米国の文化やキリスト教、リベラリズムやプラグマティズム哲学全般に及ぼした大きなインパクトを跡づけた労作。ニーチェ翻訳・受容の歴史から、アメリカという国の姿が見えてくる。
 <<
 >>
 AppleやTwitterが巧妙にしかける依存のしくみに抗うには、もはや一時的なデジタル・デトックスじゃ足りない。これは生き方の問題で、僕らには新しい“哲学”が必要だ。すなわち、デジタル・ミニマリズム。スマートフォンとSNSから可処分時間/可処分精神を守り、情報の見逃しを怖れず、大切なことを大切にできる思考法=実践法。
 <<

〜〜〜Q〜〜〜

さて、今週のQ(キュー)です。正解のない単なる問いかけなので、頭のストレッチ代わりにでも考えてみてください。

Q. 今年の読書はどうだったでしょうか。

では、メルマガ本編をスタートしましょう。

今回は、読書回です。読んだ本についてではなく、本を読むことについての話をたくさんお送りします。

――――――――――――――――
2019/11/18 第475号の目次
――――――――――――――――

○「レバレッジリーディングと箱庭的編集」 #読書について

○「超訳本からの誘い」 #読書について

○「挫折した読書手帳」 #読書について

○「網の目の本」 #読書について

※質問、ツッコミ、要望、etc.お待ちしております。

画像1

○「レバレッジリーディングと箱庭的編集」 #読書について

「レバレッジ・リーディング」という読書の手法があります。2006年に出版された本田直之さんの『レバレッジ・リーディング』で紹介されている手法です。

やり方は、二段階の工程を踏みます。読むターンと、メモを作るターンです。まず読むターンから。

本を読む
・本を読む目的を明確化する
・制限時間を設ける
・全体を俯瞰する
・読書を始める
・読みながら重要なポイントに線を引き、印をつけ、ページの角を折る
・読みながら思いついたことはページの余白にどんどん書き込む

これが終わったら、読書メモ(レバレッジメモ)を作ります。

レバレッジメモ作り
・読み終えた本をどれか選ぶ
・角をつけたページを開く
・線を引いた箇所をパソコンに打ち込む
 ・一字一句正確に写すことには拘らない(自分しか読まないから)
 ・出典もいちいちつけない(自分しか読まないから)
 ・線を引いた箇所すべてを写すわけでもない(読み返しながら取捨選択する)
 ・自分なりに思いついたことも打ち込む

こうして作成したレバレッジメモをプリントアウトして持ち歩き、折に触れて読み、その内容を頭にたたき込んで、実践に活かせるようにする、というのがレバレッジ・リーディングです。

この例ではパソコンを使っていますが、著者はそれにこだわる必要はないと述べています。手帳やノートを使う方法もありますし、本のページをコピーしてしまうやり方もあるようです。そのあたりは、試行錯誤して自分に合う方法を見つけましょうと結ばれています。

さて、こうして作成されるレバレッジメモは、自分なりの「虎の巻き」だと言い換えてもいいでしょう。私も、実用書やノウハウ書をよく読んでいた時期があり、しかもわりと切実な感じで読んでいたので、このやり方は優れていると感じていました。実際にいくらか真似をしたこともあります。

とは言え、この読書法は難解な小説や小難しい思想書を読む役には立ちません。あるいは、ドラッカーの著作のようにほとんど毎ページが重要箇所であり、抜き書きするととんでもない量になってしまう本でも同様です。

つまり、このレバレッジ・リーディングが役立つのは、重要な箇所が自明であり、しかもそれ以外の要素をまったく切り捨てても構わない(≒瑣末な内容である)本だけです。その意味で、すべての読書に通用する方法ではありませんし、極端なことを言えば「ごく限定的な読書」においてのみ役立つ方法だと言えるでしょう。

 >>
 さて、このようにメモを作ってしまえば、本そのものは、出がらしのお茶の葉のようなものです。読み返しても、もうほとんど何も出てきません。それよりも、新しい本読んだり、メモを読み返したりすることに集中したほうが、効率よくエッセンスを吸収することができます。なんといっても時間は有限ですから、いちど読んだ本は二度読まないつもりでいたほうがいいと思います。
 <<
 

昔は積極的に肯定していたレバレッジ・リーディングですが、今振り返ってみると、やや「せせこましい」印象を覚えます。上に引いた引用文も、「そりゃまあたしかにそうかもしれませんけど」みたいなひねくれた感想が出てきます。

どの辺にせせこましさを感じるのかと言えば。そんなにちまちま書き写すくらいなら、本を取っておいて、それを何度も再読した方がいいんじゃないの? と思うわけです。

実際、上の引用箇所を引こうと思い、この本のページを改めて開いたところ、引用箇所の次に以下のような文章を「発見」しました。

 >>
 しかし、名著中の名著は別です。たとえば、デール・カーネギーの『人を動かす』『道は開ける』(創元社)は、一流のビジネスパーソンの間で、なんと三〇年以上も読み継がれています。このような良書は、時間が経ってから読むと、まったく違うところに感銘を受けたりするものです。折に触れて読み返していますが、初めて読んだ二三歳のときと今とでは、線を引くところが全然違います。
 <<

著者には申し訳ありませんが、私にとって『レバレッジ・リーディング』という本は名著中の名著ではありません。しかし、たまたま読み返したところ、上のような発見がありました。そんなことが書いてあったとは思いも寄らなかったのです。

もし私が本書のレバレッジ・メモを使い、その記憶だけを頼りにこの文章を書いていたら、上の引用は発生しなかったでしょう。結局、世の中の本を「名著中の名著と、要約したら出がらしになる本」の二種類だけに分けること自体に無理があるのでしょう。その分布はグラデーション的であり、中間地帯にたくさんの本が存在しているのだと思います。

だから、レバレッジ・リーディングでカバーできる範囲はごく限られているのでしょう。

その話は別にして、レバレッジ・メモ作りは、どこかミニチュアで箱庭を作っている印象を覚えます。一冊の本から「部品」を抜き出し、それをもとに「自分の本」を作り上げる。そんな行為です。実際本書でも、レバレッジメモは「究極の本」だと呼ばれています。自分にとって有用なものだけを凝縮した本──それが究極の本だというわけです。

その考え方自体が、やはりせせこましいものに感じられます。豊かさとは必要なものだけを持っていることではなく、むしろ余計なもの・雑多なものを抱えていることを指すのではないでしょうか。自分にとって有用なもの「だけ」を凝縮する、という考え方は豊かさとは逆方向を向いています。

とは言え、深呼吸するようにゆっくり考えてみると、上の批判も単純過ぎることに気がつきます。

たとえば、箱庭作りが一種の心理療法として機能するように、そうした「究極の本」作りにも、単なる効率性の追求とは違った要素が秘められているのかもしれません。どういうことでしょうか。

レバレッジメモに書き抜きされるのは、そのときの自分にとって大切な要素です。ある本の中から、重要と思える要素を抜き出すのですから、その行為は一種の編集作業と言えるでしょう。

その編集作業を逆に見れば、自分にとって何が大切なのか、自分は何を重要視しているのかが見えてきます。あるいは、書き並べたものを眺めて、「そこにないもの」を見つけ出す手助けになるかもしれません。たとえば、自分の成功に関する書き込みばかりで、他者と有効な関係を築く視点が抜けている、なんてことに気がつくかもしれません。そうなれば、そうした要素を別の本から抜き出す、という「編集」が始まります。

「自分」という存在は、自分だけではなかなか見えてきません。外への働きかけを行い、それを振り返る形で見えてくるものです。

そう考えれば、レバレッジメモにおける書き抜きは、「情報を抜き出す」という働きかけ(≒編集)を通して、自分自身と対話する術なのかもしれません。

たしかにレバレッジ・リーディングは「効率的な読書」のための方法です。しかし、それに加えて、自分が何を大切に思っているか、そしてどんな視点が欠けているかを掴まえるための方法としても機能する可能性を持ちます。

だとしたら軽々しくバカにするのは賢明ではないでしょう。

ここから先は

8,951字 / 4画像 / 1ファイル

¥ 180

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?