【論考②】作品同士の共鳴——“BADモード”、“more than words”、“僕のSOS”を流れる〈傷つきと覚悟〉
この記事は全五回にわたる論考の〈第二回〉です。〈第一回〉の序論については、以下の記事をご覧ください。
Ⅰ.【「私」のヘマと「君」への祈り】——宇多田ヒカル“BADモード”
宇多田ヒカル“BADモード“は、このような入りで始まる。
大切な「君」がどうしようもなく心配で、でも傷つけたくなくて、どこにも行かないでほしくて、そばにいてほしくて……。一番のサビ、英語詞の箇所では「私を抗不安薬だと思ってほしい、苦しみは半分こにできるのだ(Here's a diazepam We can each take half of)」と歌っている。抗不安薬・ジアゼパムの名称が歌詞に入っているのが印象的である。
「君」の調子はどうにもかなり悪いらしい、それを「私」は自分なりに理解しようとしている、そんな焦りと葛藤が読み取れる。
二番のこの歌詞の直前では、もう何もかも全部無視して、一緒に楽しいことをしようという内容を歌っていたのだが、急に「私」の内面における強い葛藤と同時に、過去の苦い片鱗が垣間見える。
その後の歌詞は主に英語詞で、「器用じゃない私だけど、何かに寄りかかりたいときは私に頼って、私に話して(I'm bad at explaining……Won't you lean on me when you need something to lean on)」といった声をかけ続ける「私」の様子が切実に歌われる。
歌詞は日本語に戻り、急に映画を観ているシーンに変わったように思えるが、これはおそらく比喩だろう。映画のエンドロールを〈人生の最後〉とするならば、「エンドロール(人生の最後)はまだ先だろ、死ぬんじゃねえぞ」という「私」の悲痛の叫びとも受け取れる。それを裏付けるのが、二度目の“楽しみなとこ”に被せるように鳴る最後の歌詞だ。
頼ってほしいとか、楽しいことをしようとか、エンドロールを観る君が好きなんだ(死なないでほしい)とか、何だかんだ回りくどいことを言ってきたが、どうしても叫びたい「私」の本音はどうやらこれだったらしい。
意訳するとこのような感じになるだろう、「私はあんなヘマはもう二度と、二度としないから」。
「私」は「君」との関係性の中で、一度(もしくはそれ以上)失敗を犯している。心無い一言を口走ってしまったのか、手痛い喧嘩をしたのか、それは分からない。なぜなら、この曲の歌詞は全て独り言であり、〈祈り〉だからだ。つまり、今「私」は「君」に会えないでいる。物理的に会えないのか、「君」が会いたくないと言っているのか……とにかくこの曲は全て「私」の独白のみで構成されているため、「君」の本心や現状を窺い知ることはできない。
MVで、宇多田はイントロが始まるとともに深いため息をつく(図1)。きっと、もうずっと「君」のことで悩んでいる。部屋の中でも、車内でも、「君」のことを考えているような、そんな「私」の憂うような表情を宇多田は演じる。
間奏では高音やサイレンのような音が長々と響き、ウォーターサーバーにセットしたコップからはいつまでも水が溢れる(図2)。それらはきっと「君」を想い待つ、途方もない時間の表現なのだろう。MVの端々には、他にもたくさんの水(車の窓ガラスの結露、水滴、水槽、足元の水たまり)が出現するが、これらは今まで「私」が流した涙を表しているように見える。
このように、宇多田ヒカル“BADモード”は、〈過去にヘマを犯した『私』がそれでも大切な『君』にできること≒祈り、想うこと〉について歌っている。以上のことから、宇多田ヒカル“BADモード”とは、〈「私」のヘマと「君」への祈り〉の描写であると言えそうだ。
最後に、筆者にとって最も印象的な歌詞を挙げて第Ⅰ章を切り上げるとしよう。ブレスを使いながらたっぷりと時間をかけて歌い上げる言葉は、「君」に会えない「私」なりの、最大級の祈りだ。
(第Ⅱ章につづく……)