「進化論」について思うこと
『進化論』といえばダーウィンを思い起こす方が多かろうが、僕はMr. Childrenの楽曲、『進化論』が頭に浮かぶ。
この曲に、こんな一節がある。
この曲が発表されたのは2015年。
当時独身だった僕は、メロディラインやコード進行も含め何となく(いい曲だなぁ)くらいに思っていた。
2020年、僕は産まれて間もない自分の娘と対面することになる。
「コロナ禍」という言葉が耳に馴染み始めた頃のことだ。
当初予定していた立会い出産はおろか、出産準備で入院した妻を見舞うことも、産後すぐの2人に会いに行くことも叶わなかった。
娘の誕生から1週間後、ようやく彼女達との対面を果たした。
とは言っても産後しばらくの間、妻子は実家に身を寄せることになっていた。
2人を義実家に送り届けつつ食事を御馳走になり、日も暮れた頃、義両親に受け入れの謝辞を述べ一人自宅に帰る。
興奮冷めやらぬ、と言えば大袈裟だが、やはり妻の無事と娘との対面から寝付けなかったため、音楽をかけながら晩酌を始めた。
産前は緊急事態→運転、という流れを想定してしばらくの間アルコールを摂取していなかったため、思いのほか早く酔いが回る。
スマホ内の音楽をシャッフル再生していると、件の曲がスピーカーから流れてきた。
なるほどな、と思った。
これまで連綿と受け継がれて来て、この後も続いていくであろう人間の歴史。
小さな存在である自分にも、「遺伝子を中継する役割」があるとすれば、ようやくその任を全うすることが出来たのだ。
その時は、酔った頭でそんな風に思った。
が、いま思えば、狭い視野でしか物事を捉えられていなかった。
たった4年だが、子育てをしていると「進化」を感じる場面は多い。
初めて言葉らしき音声を発した時には目を潤ませながら喜んだものだが、4歳間近の娘のマシンガントークは想定の1.8倍程度の声量と語数を擁している。
離乳食を食べ「おいしー」などと言っていた頃には「偉いねー」などとも返していたが、4年経った今は、「ちょっと!一回静かにしよう!」と窘める場面も少なくない。
そのくらい、騒がしい。
娘を寝かしつけた後、冗談交じりに「なぜ出産の時に“ミュートスイッチ”を実装しなかったのか」と妻に問うと、「仕様書に書いてなかった。想定外だった。」との回答が返ってくる。
そんな他愛もない会話をすることが常だ。
「子は鎹」とはよく言ったもので、恐らく娘が居なければこんな冗談を交わすこともなかったのだろう。
娘の「進化」によって、夫婦の会話量はどうにかこうにか維持されている。
いや、単一の生物である娘の話題の場合は「成長」という方が適当か。
SNSを見ると、それこそ多種多様な意見が飛び交っている。
「子持ち様」「産休クッキー」「ベビーカー」等々のキーワードを交えつつ、今日も誰か(達)と誰か(達)が対立している。
何が正しくて何が悪い、という結論は永遠に出ないだろう。
結局のところ、自分とは違う立場や考えの人をどこまで慮れるか、に尽きる。
いずれにせよ、自分の正義を盲目的に信じた者同士が傷つけ合う姿は、見ていて愉快なものではない。
そして、当事者ではない人間同士が代理戦争を繰り広げる姿も、滑稽でしかない。
たまに「子供は社会全体で育てるもの」というようなフレーズを見聞きする。
子を持つ者として有難い気持ちも無くはないが、正直な感想は「半々」といったところだろうか。
子育てをしていると、医療費や学費といった面で自治体から多くの補助を受けられる。
ご多分に漏れず我が家も、その恩恵を享受している。
そして「自治体から」とはいうものの、その原資は言うまでもなく税金だ。
子持ち子無し論争で不毛なバトルを繰り広げている場面は見るに堪えないが、彼ら彼女らが脱税でもしていない限り、やはり最終的には頭が上がらない。
クッキーに親でも殺されたかのような言い争いをしている彼らも、立派な納税者であり、原資だ。
そういう意味では、「社会全体に育てて」頂いている。
一方で、「育てる責任」という意味においては、そうも言いきれないのではないかと考えている。
賛否両論あろうが、やはり生み出した者(生物学的な意味での両親)が全責任を負うべきだし、それが難しい場合は次に責任を負うべき者が義務を履行するのが適切であろう。
いつも娘に声を掛けてくれるスーパーのおじさんに、可愛がる権利はあっても養育の義務はない。
そんな結論の出ないような事をここ数年モヤモヤと考えていたが、とある記事を読んで妙にスッキリとした。
音声配信を含め長きにわたり交流させてもらい、もはや癒着とでも思われそうな引用で恐縮だが、お馴染み、夏木凛さんの記事だ。
SNS全盛の時代、テレビですらも「SNS上ではこんな声も!」的な事を平気で取り上げるせいで、あたかもそれが一般論のように受け取られがちだが、冷静に考えればSNS=世論などではない。
SNS、ことXにおいてはただただ声のデカい人が目立ち、その人の意見がさも正しい情報かのように流布される。
それが正しくなかった場合、発言者は袋叩きにされた上で串刺しに遭い、再起不能になるほど焼かれるケースすらある。
(ラランド・サーヤが「Xはおしまい」と宣言しているが、僕も賛成する。)
そんな簡単なロジックを分かったつもりでいたが、かくいう僕も「子持ち様論争」を見かけては、(子持ち=悪なのか?)というマインドに落ちかけることもあった。
“子供を持たない選択”をした夏木凛さんのこの記事は「子供に、人に、寛容な人間でありたいと思う。」という言葉で締め括られる。
SNSにどっぷりと浸かった生き方をしている人ほど主語を大きく捉え「全ての子持ち」と「全ての子無し」が対立構造になっていると錯覚しがちだが、実際の世の中はそこまで退廃的ではない。
こんな言葉を掛け値なしに言ってくれる人も、この世には確かに存在するのだ。
言葉や文字に癒された経験は確実に僕の血肉となり、自分の子供にも伝達され、将来的にはその先の子孫に受け継がれることもあるのかもしれない。
産まない選択をした場合、狭義での「遺伝子を残す」が遮断されることは間違いない。
しかし、子供を持つ/持たない、産む/産まない、の選択にかかわらず、いま生きている人間の思想や振る舞いがヒトの進化に影響する部分はきっとあると、僕は信じている。
強い意思や思想、優しさといったような、「遺伝情報を超えた何か」もまた、他者を通じて受け継がれていく。
良かれ悪かれ、多かれ少なかれ。
「産まない選択=種の保存の法則の放棄」ではない、ということだ。
その選択に、自責の念や引け目などを感じる必要は、一切無い。
娘と対面した夜に酔った頭で考えたことは、随分な驕りだったと今は思う。
生物の進化への寄与は、遺伝情報を遺すことのみを指すのではない。