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人生の長さと短さについて

「しかし、話がずいぶん長々しくなってしまっている。それに、まだ記す材料は一日にわたるほどもある。人生にきりをつけると言って、手紙にきりをつけられない人間にそれができようか。だから、お元気で。この言葉のほうが君はずっと嬉しいだろうね、死で埋め尽くされた手紙を読むよりは。お元気で」

(ルキウス・アンナエウス・セネカ『倫理書簡集』)

セネカは「人生の短さについて」を書き遺した。そもそも"length"は価値中立的であるはずが、「長さを測る」のは何故か。どうしてセネカのように「短さ」を測らないのか。

2021年の5月末にこんなnote記事を読んだ。

前者のnoteには、創造者にとって肉体的な制約がいつも「早すぎる死」をもたらし、よって人生は常に短すぎるということが書いている。一方で後者のnoteには、残りの人生イベントが一通り見通せる年齢になった段階での諦念とともに、人生が長すぎてボクの手に負えない〔中島みゆき「ミュージシャン」〕という基調トーンが綴られている。それにしてもおーちゃんnoteは読まれなさすぎではないか。具眼の士はいないのか。

それはさておき、人生は長すぎて短すぎる。

ちょうど良い長さがない、というのが、ひとつ「人生」の定義として良いかと思う。

この「おれチョーえらい」という自己の鼓舞や、ATMたらんとする自負「だけで」渡っていくには人生が長すぎる。

(隠喩として)「書くことがなくなって」からの人生が長すぎると思う。

しかし、世界を味わい尽くすにしても、ほんのちっぽけな創造を行うにしても、人生は短すぎる。

林達夫が最晩年に病床で「これからロシア語を勉強してドストエフスキーを原著で読みたい」と言っていたのとか、なんなんだろうと思う。ちなみにこのエピソードが林達夫のものだったかどうか定かではない。どこかで読んだ記憶を裏取りせずに書いてます。
本気で読めると思っていたのか、読んでどうするのか、という問いが霞むほどの迫力に畏敬の念を覚えつつ、いざ我が身となると「何故読む?」という疑念が先行しそうだ。

かく言いつつ、大いに語弊はあるものの、医業は愉しい。
自分の知識と経験で患者さんやご家族の病苦が和らぐのを見ると、例え賤業と言われようとも「無能無芸にしてこの一筋につらなる」のは悪くないと思える。

斯くして、自分にとって長くも短くもない、理想の人生の最期はこうなる。長さを感じさせる退屈とも、短さを感じさせる熱狂とも無縁の、日常の中での最期。
ちなみにこのオッさん〔「修羅の門 第弍門」の不破 現〕、全然死んでないんだけどね。


修羅の門 第弐門(8) (月刊少年マガジンコミックス)
川原正敏

たまには #クソ日記 を書きたくなったので、お目汚し失礼。

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