ひたすら少数の者のために手紙を書くがいい
田村隆一の詩に、大学一年生の時に出会って痺れた。あまりにも有名な「帰途」の冒頭1行。
いやそれ言葉で書いてますやん、というツッコミはさておき、平易な単語・表現を並べて、どうしてこんなに「刺さる」ことを書けるのだろうかと不思議に思った。
書家の石川九楊が田村隆一の詩を評して「戦後の詩人に一人の書家がいた」と書いているのに深く納得したりもした。詩文が垂直方向なんだよね。何言ってるかわからないですが。それでも石川九楊の書の難解さは軽く頭上を超えていく。
書だ!石川九楊展の作品より。
《二〇〇一年九月十一日晴 水平線と垂直線の物語(Ⅰ)上》
これ、タイトルがあるから辛うじて解読の可能性に向けて開かれているけれど、タイトルが無かったら途方にくれるしかない。
石川九楊は日本語・日本の思想〔のようなもの〕について、無茶苦茶大事な問題を掘り当てているように思うけれど、さて誰かその問題意識を継承するのだろうか。吉本隆明、江藤淳よりもその辺覚束ない気がする。この辺、加藤周一や鶴見俊輔とは違う感があって、なんだろうねと思ったり。
田村隆一は期待に違わず、生活能力はほぼゼロだったようで、描かれていることの事実関係は不明だけど、ねじめ正一「荒地の恋」は興味深く読みました。
それはさておき、久しぶりに関内関外日記の人をはてなblogではなくtinectで見掛けたのだった。
一読して、おお、丸くなったなと感じた。ちょうど10年前には、もっとヒリヒリする、こちらの胸元にナイフを突きつけてくるような文章を書いておられたのを記憶していたからだ。
「人殺しの顔をしろ」から、「人殺しの顔をしていない人殺しが怖い」まで、10年かけて「突き詰める、問い詰める」孤高の倫理とは逆の方向に進んでこられたようで、まずはその10年を生き延びられたことを祝福したい。孤高の方向に向かっていたら、いつか生きること自体の非倫理性に耐えられなくなる地点まで到達していたであろう事は想像にたやすい。
そして、関内関外日記の過去ログを掘っていたら、冒頭のエントリーに出会った。
十年間「読み続けて」きた読者の勝手な感慨を、このブログエントリーは代弁しているように思った。
それにしても「ひたすら少数の者のために手紙を書くがいい」というワンラインの切れ味。
過日、ざっくばらんなWeb講演会の質疑応答の時にTwitterアカウントを晒されるという辱め(笑)に遭ったのであるが………
続いていただいたご質問に「フォロワーの増やし方」というのがあって、これには閉口するしかなかったのである。多分「少数の者に向けて」書いていると逆説的に増えるんじゃないかしら。知らんけど。
ということで、本日の #クソ日記 おしまい。
本当は全然別のことを書く予定(なんで論文書くの?的なこと)だったけど、また今度。
いただいたサポートで麦茶とか飲みます。