私の頭の中。

私じゃなきゃダメな人なんて存在しない。

有名人や著名人ならまだしも、一般人であり、特に才も芸もない。そんな私が死んだところで、社会は何も変わらないし、また同じような明日がくる。そんな中、必死に生きる意味とは。それを探すために生きているのかもしれないし、もう見つけた人もいるのかもしれない。生きる理由なんて考えてたってしょうがないだろ、生まれたからには生きるんだよと、かなりポジティブな人に言われたことがあるが、それにも一理あると思った。だがしかし自分の考えを押し付けるのはいかがなものかと思う。思うことまでは自由なのだから。

私と全く同じ経験をしてからそう言うならば納得なのだが、違う人生を歩んでいるのにその人についてわかった口を聞いては失礼だとも思う。その人には大丈夫でも自分に置き換えると突かれて痛い部分だったりすることは多々あるし、逆もしかりだ。他人のキャパなんて自分がどうこうできるものじゃない。だから他人の病んでるとか鬱だとかそういうのには極力触れたくない。私は誰のものにもならないから助けることもできないし、会って癒すなんて尚更無理な話。リアルの友達ならまだしもネットの人は何があるかわからないだろうし。結局それも、女だったら、可愛ければ、自分に従順ならとかそういった条件にあてはまるだけだっただけで、代わりはいくらでもいるのだろう。そんな理由で呼び出されてはたまったもんじゃない。

結局なんとなく生きてみたが、私じゃなければダメな人なんて見つからなかった。魅力がないのだろうか。こんなことを言うと下心からか、気遣いか、人間にある程度備わっている善意からか、らるちゃんじゃなければダメなんて言う人もいるかもしれないが、正直誰かの人生に私じゃなきゃダメなんて言わせるほどの影響を与えたことはないと思う。

いなくなったって大して影響もでないモブキャラな私が、今後生きるという「生」について興味や執着を抱くことがあるのだろうか。すんなり死を受け入れてしまえるような感覚のまま死んだように生きるのか。それとも今より劣悪な環境に陥り死に魅入られ自ら死後の世界に行ってみるのか。私にも私がわからない。

今のところ「死」というものは逃げの一手でしかないが、とても魅せられている。多くの画家や音楽家などが魅せられてきた死とは一体なんなのか。死を題材にした作品、死の間際に描いた作品などは、何気ない日常を切り取った1枚だったり、死を彷彿とさせる1枚だったり、様々なものであったとある。人は死ぬ間際に何を思い浮かべどのように死に至るのか。そんなことが気になってしまって仕方がない。何冊も死についての本を読んだ。どの作者も生きながらそれを記したためにあまり現実味がない。あたりまえである。そんな死についてやっぱり魅せられている自分がいる。

私は生きている人間は裏切ったり嘘をついたり暴力をふるったりいつだって他人を死に追いやってしまうようなことをしていると思う。もちろん全員がそうと言っているわけでは無いし、もしかしたら私も気付かずにそういった言動をしているかもしれない。何気ない言葉がその人の死のきっかけかもしれない。言葉が刃物になると某アニメで言っていた通り、言葉は時に鋭い刃にもなる。そんなことも分からず思いやりの欠片もないようなことをなんでも言ってしまうような人間が私はこの世で1番嫌いだ。

私は決して自害した人が悪いと思わない。もちろん読み手がそれを悪だと言うのならばそうなのだと思う。あくまで私の意見である。たしかに自分を殺してしまった殺人に当てはまるのかもしれないが、楽に死ねる死に方なんてほぼないように、大変な辛さや痛みや勇気を伴う死なのに、それでも死を選んでしまうのには、相当な理由があったはずだ。何言ったって後の祭りなのかもしれないが、言葉の鋭い刃で突き刺した人間も捕まればいいなんて思ってしまう。直接手を下さなくても人は殺せるのである。

だから私は言葉を選ぶ。刺された側の気持ちがわかるから。間違っても今現在辛い人に、他にも辛い人がたくさん居るなんて比較したようなことは絶対に口にしない。死んでしまいたいと願っている人に、死んでみろよなんて言葉はいくら拷問されようが絶対に口にしない。死についての実感や経験がないからか、度胸や辛さを試すような言動をする奴もいる。そんなのに耳を傾けちゃ絶対にだめだ。もし言ったことがある人は、今後絶対に口にしないで欲しい。人は思ったよりあっけなくいなくなる。最後の引き金になるのは自分かもしれない。頭の隅でいいからそう考えて欲しいと思った。

なにも想像で全てを話しているわけではない。あっけなく終わることを実感した経験が1度だけあったからこのnoteを書いてみようと思えた。ただ私の頭の中をつらつら記したnoteになってしまったな。

らる

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?