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僕は「内向的」な人間で、「本質」を知りたがる。

序項

ここ最近、日本政治のことや政界情勢のことをいろいろ勉強していた。勉強していると、ある違和感を感じる。何か社会のニュースに対して、「興味が持てない」というか、自分事として「実感」できないというか。勉強自体は好きなので、ある程度までは楽しめるのだが、それより先の、自分の中の奥底の琴線に触れるような感覚を体感できないのだ。

この現象は、おそらく政治や情勢といった事柄が「社会的なもの」であることに起因しているだろうと考えた。自分は社会で起きていることにほとんど関心が無い。じゃあ人と関わることが嫌いなのか?と聞かれると、それについても少し違和感を感じる。むしろ人と関わることは好きだ。「社会的なもの」が嫌いであるのに、「人と関わること」が好きなのは、一体どういうことなのだろうか。

心理学における「内向性」

この現象に対してアプローチするため、「内向性・外向性」という心理学用語について調べてみた。心理学で有名な「ユング」は内向的な特徴をこう定義している。

・彼は外部の出来事から距離を置き、それに参加をしない
・多くの人々の中にいるとすぐに社会を嫌うようになる
・大勢の人が集まると、彼は孤独で迷子になる気分になる
・人が多ければ多いほど、彼の抵抗感は強くなる
・彼はまったく「場になじんでいない」し、熱狂的な集まりを好むわけでもない
・彼は人と打ち解けるのが苦手である
・彼がすることは、自分のやり方でやり、外部からの影響に対してはバリケードを張る
・彼はぎこちなく見えることが多く、しばしば抑制されているように見える
・しばしば、ある種の無愛想さや陰気な近寄りがたさ、または不適切な言動によって、知らず知らずのうちに人々に不快感を与えてしまうことがある
・彼にとっては、自分自身と対話することは楽しいことである
・彼自身の世界は安全な港であり、丹念に手入れされた囲われた庭であり、一般の人々から閉ざされており、好奇心旺盛な目から隠されている
・彼自身の仲間が最高である。彼は自分の世界で自分らしくいられるし、そこで起こる変化は自分自身によってしかもたらされない
・彼の最高の仕事は、自分自身の持ちうるものを使って、自分自身の主導で、自分自身のやり方で行われる
・群衆や多数派の意見や世論や大衆的な熱狂は決して彼を何かに納得させることはなく、むしろ彼をさらに殻に閉じこもらせるだけである
・他人との関係が温かくなるのは、安全が保証されており、防御的な不信感を捨て去れるときだけである。しかし、あまりにもしばしばそうできないため、友人や知人の数は非常に限られている
(『心理学タイプ』『Psychologische Typen』カール・ユング)

これを読んで、ほとんどの性質が自分にぴったり当てはまっていて驚いた。重要なのは、「多くの人」がいる場を嫌うということであって、「少人数」の場合は問題ないということである。これは一体どういうことなのだろうか。

「内向性」についてさらに調べてみると、「内向的な人間が外向的な行動をしばしばする」という研究があるようで、研究者も混乱しているように見受けられた。「内向性」は単に「社会で人と関わるのが嫌い」というわけではないのは間違いないようだ。

自論

具体例

結論から言うと、「内向性」とは「結果」ではなく「原因」に対して興味を持つ性質である。こう定義付けると、世の中のあらゆる概念の解像度が上がる。

内向性     外向性 
原因      結果
思想      行動
本質      表層(虚構)
遺伝      環境
絶対      相対
自分      他人
単純性     複雑性
少人数     多人数
ドメスティック ユニバーサル
ローカル    グローバル
国内      海外
田舎      都会
日常      祭り・イベント
インドア    アウトドア
ベンチャー   大手
インディー   メジャー
YouTube    テレビ(マスコミ)
やりがい    お金
趣味      ビジネス
論理      経験
推論      実証
数学      社会(政治・歴史)
国語      英語
心理学     社会学
プログラマー  営業・接客
ミニマリズム  ファッション
無加工     加工
ゲーム     コミュニケーション
漫画      アニメ・映画
ドラゴンボール ワンピース
トランプ    ハリス
悪       正義
欲望      秩序
子ども     大人  
争い      協調(平和)
法(ルール)    道徳(モラル)

外向的な人は複雑性を許容できる

このように、世の中のかなりの数の概念は内向性/外向性という二分法で分けることが出来る。内向的な人は、人に対して興味が無いのではなくて、人の行動に興味がない。いわゆる「人見知り」が初対面の人と円滑にコミュニケーションが出来ないのは、人の「行動(結果)」を信用していないからだ。そして、だんだんと交流が増すにつれ行動(結果)から思考(原因)を予測できるようになり、原因大好きな内向的人間は満足していく。対照的に、人の行動によって自分の行動規範が作られている外向的人間は、他人の考えていることなんかを深く考えないので、初対面の人でも円滑にコミュニケーションができるというわけだ。これがなぜ起こるのかというと、外向的人間は「複雑性を許容できる」からだ。「複雑性を無視できる」といった方がいいかもしれない。人間の心(原因)は複雑で、そこから生じる行動(結果)は単純だから、行動で判断するのがラクだよね、というのが外向的人間のスタンスで、それは複雑性を無視していることになる。これはiPhoneとかで考えると分かりやすく、iPhoneの仕組みは複雑で理解できないけど、使い方は簡単だからそれでいいよね、という思想と同じである。おそらく人類のほとんどがiPhoneに対してこのような考え方を持っているだろうが、それを、外向的な人間は世の中のあらゆる事象に対して行っているということなのである。言い換えると、外向的な人間は自分の経験を絶対的な価値として捉えていて、それをもとに行動する。そしてその精度はある程度高い。しかしある程度までしか高くないので、自分が経験していない未知のものに対して理論を応用したり、自分が経験したことのあるものを創作(クリエイティビティ)として1から再現したりすることができない。漫才のネタが書けないという人や、漫画のストーリーを思いつかないという人の気持ちが僕は全然理解できないのだが、それは僕が極めて内向的な性質をもった人間だからだろう。

内向的な人は真実をつかみたい

内向的な人間は人の行動を信用できない(複雑性が許容できない)ので、人の心を深くまで追い求める。人の行動は嘘が多分に含まれている。人には「欲望」というものがある。しかしその欲望をすべて曝け出していたら社会が成り立たないので、社会に適応するように自分の欲望をコントロールしながら言葉を発したり行動したりする。「欲望」という原因があって、それがある程度修正された形で「行動」として結果に出る。なので、「行動」には多分に嘘が含まれており、内向的な人間はそれを嫌う。内向的な人は「真実」をつかもうとするからだ。今回の大統領選のハリスvsトランプもそのような対立構造として捉えていいだろう。「多様性」という正義を掲げ、あらゆる人に対して平等に接しよう、人権を大切にしよう、というリベラルな発想は昨今のアメリカを支配していた。しかしそのような思想はしょせん表層的な「正義」でしかなく「真実(欲望)」ではない。「リベラル」という言葉の上での「自由」は真の「自由」ではない。トランプは欲望を全面的に出した。また、ワンピースとドラゴンボールという対立構造もこの関係である。ワンピースは「自由になるために海賊になるぞー」と言っておきながら、「仲間が大事だ!」とか言って自らに縛りを設けている。本当の自由は孤独であることである。「エースを絶対に助けに行くという規範」は真の自由ではない。「エースを助けに行ってもいいし見捨ててもいい」というのが真の自由である。ルフィは海賊(自由)という概念と仲間(束縛)という概念に齟齬が生じている。一方で、ドラゴンボールは仲間のために何をするとかいう思想はあまりない。むしろ地球人の気持ちを考えずに「オラ戦いてえんだ!」という素直な欲望を行動規範にしている。ドラゴンボールはサイヤ人たちの欲望にまみれた作品であり、そこに複雑な道徳観念はない。

内向的な人は田舎を好む

内向的な人は複雑性を許容できないので、複雑性が高く、目まぐるしく変化する都会に適応できない。そんなところよりも安心安全の田舎、故郷の方がずっといいというわけだ。内向的な人は多人数が苦手だ。なぜなら人の数が多くなるほど複雑性が高くなっていくからだ。少人数だと自分の中で一個ずつ処理できるが、多人数だと圧倒されてしまい脳が混乱してしまう。複雑性を許容できないからだ。

内向的な人はビジネスを嫌う/内向的な人はニュースを嫌う

内向的な人はビジネスを嫌う。なぜならビジネスの世界では「結果」が求められるからだ。結果を出さなければお金がもらえない。内向的な人は「内面」を大事にしていて、結果なんてどうでもいいと思っているので、結果にすべてが左右されるビジネスが嫌いなのだ。また、内向的な人はニュースを嫌う。これは当然だろう。内向的な人は「結果」に興味が無いので、「結果」だけを報道するニュースは何の価値もないのだ。大谷が勝とうがどうでもいい。それは野球に興味が無いからではない。「結果」に興味が無いからだ。大谷がなぜ勝ったのか?大谷は勝利に対してどのように思っているのか?大谷はどのような人間なのか?そんなことの方にむしろ興味があるのだ。

まとめ

自分は極端に内向的な人間だ。だから内向的な人間の気持ちは分かるし、またその真逆の外向的な人間の気持ちもわかる。しかし、「どちらでもない人」の気持ちが分からない。それがいるのかすらも分からない。一般的には内向性/外向性という概念は二極化するのではなくスペクトラム(連続体)であると言われているが、それは内向性の本質を理解できなかった研究者たちの苦し紛れの言い訳であると考える。自分はおそらく内向性/外向性という概念はかなり二極化すると思っていて、例外があったとしたらそれは読み取りの誤りの場合が多いのではないかと考える。なぜなら世の中の現象はそれだけ複雑だからだ。しかし内向性という概念に還元しさえすれば実は意外と単純なのではないか。



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